Shigeaki Mori, 1937-
真実とは何かという審問を、それに先行する、さまざまな(事後的に明らかになる)「間違った」複数の事例と直面することからはじめるアプローチについて、一番最初に気付いたのはジャン・マビヨン(Jean Mabillon, O.S.B, 1632-1707)かもしれない。そして、マビヨンのアプローチは、いまや歴史実証主義の学者たちに称賛されている(Marc Léopold
Benjamin Bloch『歴史のための弁明』Apologie pour l'histoire ou Métier d'historien,
1941 ; première publication en
1949)。そして、このページの主人公・森重昭さん。広島での被爆経験がありながら、「虐待された被爆米兵」というさまざまな目撃証言の首尾不一貫性か
ら、その真実に迫った森重昭(1934- )もまた、現代におけるマビヨン的な性格をもつ良識の人である(→「ジャン・マビヨンと 森重昭」)。
森重昭さんの略歴(ウィキならびに紀伊国屋BookWebProに
よる情報)
1937 3月29日 広島で生まれる。己斐(こい)町で育つ。中国憲兵隊司令部そばの清美(せいび)学校幼稚園に入学
1945 8月6日爆心地から約2.5キロメートル地点の、自宅付近の旭山神社の前の橋の上を歩いていた彼の体は河川へと投げ出された(→「お天道さまがまた昇りなすった!」).国民学校3年時に集団疎開に行かず己斐に転校 して助かる
n.d. 中央大学を卒業後、山一證券や日本楽器(現ヤマハ)に勤務しながら[4]、被爆者である森は、30年以上にわたり、爆心地から約 400メートル離れた中国憲兵隊司令部で死去したアメリカ合衆国のパイロットの捕虜に関する研究をおこなってきた. 「警防団が己斐小で2万人の被爆者を焼いたという証言の真否を確かめるため、日曜日、祝日に被爆調査を開始、約20年調査する。のべ約千人に聞き取り調査 をした結果、『広島原爆戦災誌』にも書かれていない数々の新事実を発見」
2008 この頃以降「呉軍港空襲の際に撃墜されたB-24タロア号の乗員の親類を捜し出そうとしてきた。航空機の残骸は地元の農民たちによっ て保管されていたが、乗員の家族に返すため、森に手渡された」
2016 5月「バラク・オバマの広島訪問においてバラク・オバマと面会した際には、オバマと抱擁を交わした」
「2016年5月27日、現職の米大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏は、平和記念公園での献花とスピーチに被爆者代表とともに特に著
者を招いた。そして、歴史的スピーチを終えると自ら歩み寄り、言葉をかけ、涙ぐむ著者をしっかりと抱きしめた。サラリーマン生活の傍ら長年にわたって広島
で被爆死した米兵捕虜の調査研究を続け、彼らの遺族を探し出し、慰霊活動を続けてきた著者の地道な活動が報いられた瞬間であった。本書は、自らも被爆者で
ある一研究者が、日米関係者への聞き取り調査をもとに初めて明らかにする被爆死した米兵捕虜12人の真実の記録である。」『原爆で死んだ米兵秘史』改訂版
(2016)の書籍案内。
■森重昭『原爆で死ん だ米兵秘史』には、2008年版と2016年版がある。以下は、2016年版による章立てである。
■ノート
プロローグ
機上の爆撃手たちと、地上にいた森重昭の対比的描写(→「対位法的読解」)広島市己斐(こい)町
1.原爆の絵
1974-75年、原爆の絵の募集(NHK)と2000年、米捕虜関係で20点の絵の中に「相生橋で死んだ米兵」
『広島原爆戦災史』——己斐国民小学校で800体の遺体を焼く。
B-24ロンサムレディ号( B-24J-175-CO "Lonesome Lady" Serial Number 44-40680 )の6名の米兵の消息の不明(31-32)
被爆死米兵は1977年に問題に。(→それ以外に、アトミック・ソルジャー、福島第一原発事故を空撮した米兵など)
米兵の行状:投石や殴打による死亡、被爆死など、目撃証言(37)
虐殺なのか、それとも被爆死なのか、不詳で、実際の殴打虐殺の場面をみた人はいない。
2.狙われる広島
米国による原爆投下目標の候補に関する議論(54-):広島、長崎、新潟→やがて、新潟の代わりに小倉[60](それまでに空襲の被害がなく、原爆投下の被害効果を知ることができるもの)
さまざまな要素の勘案(61)
3.撃墜
原爆投下の候補地に「捕虜がいないこと」が条件だったが、実際にはいたのはなぜか?
呉軍港への軍艦の集積と本土決戦への準備。
B-24ロンサムレディ号は7月28日読谷飛行場をでて、呉港の戦艦「榛名」を爆撃中に被弾し、墜落。乗務員は墜落前に、山口県柳生市、伊陸の山中に墜落。
機長カートライトは、戦略上の情報収集のために東京に移送。他の乗員が死亡、被爆。戦後、機長の責任として汚名を感じて生きる。他方、森さんは、カートライトを探しだすことに成功し、手紙を認める(78-79)
タロア号(86-)
小型機にて墜落した米兵たちの末路(戦後GHQが調査した資料などから構成)
14名が広島にある中国憲兵隊司令部(現在の広島城趾公園にある)に移送され、被爆(106)
4.米兵との邂逅(かいこう)
当時の新聞、破壊された機体の破片、などのエピソード(口絵の箕やチリトリに注目!)
5.中国憲兵隊司令部へ
広島にも捕虜収容所はあった。広島俘虜収容所(124-)——9ヶ所に三千名弱の収容人員(定員)
留置場での捕虜の描写(再現)——目撃証言による。
6.原爆投下前夜、そして当日
落下傘ニュースの投下(148)
原爆実験[Trinity at Alamogordo](1945年7月16日)
広島は、ウラニウム原爆[→原子爆弾]
ドイツ人神父の被爆(157)
森さんの被爆(163)
7.被爆死した米兵は何人いたののか?
1977年 ウブキズ・リスト(165-)——外務省外交史料館文書をもとにした資料、米国にわたり、書籍『エノラ・ゲイ』に掲載され、遺族が知るところとなる(169)
リストには「生体解剖事件」の犠牲者も収載(→「九州大学生体解剖事 件の生命倫理学」)※(「捕虜遺体を作る」p.173)
広島に連行された15名→11/10名のリストの再構成に成功(176)
ダビンスキーの死の謎(176-)
ジョン・ジョセフ・ハンシェル(181)
トニー(185)
最終的に12名の存在を森さんは主張(188)
8.相生橋の謎
アルペ神父と米兵(189)
原爆の絵を描いた8名とのインタビュー(190)
大塚誠の手記「稲妻の閃光」(192)ヘンリー・アトキンソンか?
日本人による虐殺はなかった(195)
アトキンソンの遺族との邂逅(196-197)
9.遺族たち
アトキンソン
ニールとブリセットの2名の死亡診断書(199, 207)※被爆でなくなる?
2人の墓の写真(205)
ロング伍長とその遺族(209-)
遺族の複雑な事情(219-)
最終的な森さんの結論
広島での被爆米兵12名
長崎での被爆米兵9名
10.エピローグ
1999年10月18日カートライト元機長が来日、塚前達郎(元)巡査(彼は相生橋のなくなる前の米兵に水を飲ます)
山口の山中での銃撃戦で村人を部下が射殺し、その娘と、カートライト元機長は1999年10月19日邂逅。痛ましくと美しい邂逅(230-231)
歴史におけるある種の和解と癒し(→「移行期正義」)
リンク(映像)
リンク
文献
謝辞
このページは、大阪大学COデザインセンター平成30年度カリキュラム開発のための調査研究費「SDGs達成に向けた高度汎用力教育開発」において研究調査配分金を受けた資金(一部)により可能になった。ここでの検討材料は、次年度開講予定の「体験型ジャーナリズム入門(訪問術B)[リンク先は2018年度]」で、授業資料として、また、課題書として取り上げるつもりです。
その他
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