人類学の特異体質
Cry for idiot-anthros!!!: 人類学中毒の解毒剤02
The apparition of Our Lady of Guadalupe
人類学が自任する第一の認識論的意義は「常識の解体」にある。
これは、母なるフランス社会学と、父なる進化主義的人類学から受け継いだ、それぞれもっとも 良質な衣鉢である(父と母を入れ替えても、同性でもかまわない)。
我々が授業で人類学を勉強して本当によかったと思う瞬間とは、人間の社会文化的現象に対し て、まったくこれまで気づかなかったことをズバリを指摘してくれる文言——つまり気の利いた発言——に出会うときである。
ここでいう気の利いたとは、パーティやシンポジウムで人の気をさらう機能以上のもの、何かこ うこれまでの人生が変わるような意味での気の利いた文言・言説・思想・ヒントである。
人類学者にはいけずな奴やとんでもない傲慢な奴やいけ好かない奴がいっぱい居る(まあどの業 界でもそうだという説もあるが)。しかし、人類学者の指摘ほど私を魅了してくれたものはいない。
マリノフスキー、フレーザー、エバンズ=プリチャード、ボアズ、レヴィ=ストロース、ミード、ベネディクト、ギアツ、ダグラス、リーチ、山口昌 男、そして、あのカスタネダの著作に出てくるドン・ファンやターナーのムチョナやクラ パンザーノのトゥハミ(Tuhami, 1980)もまた人類学者の口を通して、気の 利いたことを言い、私の人生を変えてきた。
なぜ人類学者(私のM・マクルーハンを除いて)が、このようなマジックを弄することができる のか? 例えばキョウダイ学問である社会学ではない人類学なのか。(→アドバンスド人類学)
人類学の特異体質性の源泉は、管見によると、人類学者が取り扱う学問には、他の学問に共通す る「時間・情報・空間」の概念がかなり異なるということが挙げられる。このようなズレがどこから来るのか、それは人類学が作り出した抽象的なフィクション である「異文化」概念に由来するものと思われる。ここから、さまざまなアイディアが生まれてくるのだ。
たとえば薬だ。呪薬は薬にも毒にもなる。薬学者なら、投与量という一次元的な尺度のなかで薬 と毒を同時に説明する。しかし、人類学者は毒は薬であり薬は毒だ、などと一見滅茶苦茶なことをいう(鬼籍に入った脱構築主義者J・デリダから影響を受けた 議論ですが・・・)。人類学者はこのことを「両義性」という概念でとらえる。ふたつの次元を両義性という概念で調停させるのだ。その意味は、毒は薬であ り、薬は毒であることを理解するために、この「両義性」という概念を持ち出し、両義性の他の事例を呈示する。
つまり異質なものどうしが、両義性という概念で節合されるのである。このような芸当をする連 中は、かなり変人に違いない。彼/彼女らの時間・空間・情報にはコモン・センスからずれているはずだ。
もし、そうだとしたら、この論理を転倒させて、人類学者とはそれなりに説得力のあるケッタイ なことを言う連中のことであると定義すればどうだろう? (現実の人類学者は何んも変哲のないふつうの人たちだ)我々の周りにはいかに反・人類学者が多い ことだろう。
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