かならずよんで ね!

「病いの語り」としての短歌と「植民地的想像力」

第二次世界大戦の終戦までのその政治性をめぐって

Tanka as Illness Narrative in Colonial Imagination: Japanese Literary Politics from 1930s to 1945

松岡秀明・池田光穂

【はじめに】日本には療養短歌や療養俳句と呼ばれる 文芸のジャンルが存在していた。結核療養所やハンセン病療養所の患者たちが詠んだ短歌や俳句である。第二次世界大戦の終戦まで、ハンセン病と短歌は以下の ように重要な関係を持っていた。(i)「絶対隔離」という状況のなかで、短歌はハンセン病患者たちが療養所の外部とつながる可能性を持った表現様式であっ た。(ii)大正天皇妃である貞明皇后が、1932年に大宮御所の歌会で「癩患者を慰めて」と題して「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれに かはりて」と詠んで以来、天皇制とハンセン病の関係のなかで短歌は大きな役割をはたした。(iii)ハンセン病をテーマとして1940年に公開された商業 映画<小島の春>のなかで、ハンセン病療養所の医師小川正子(この映画は、1938年刊 の小川の歌文集『小島の春』を脚色したもの)やハンセン病歌人明石海人の短歌が効果的に用いられた。戦前のハンセン病と短歌との関係には、病いと自己表 象、病いと戦争という重要な研究テーマが含まれているにもかかわらず、その研究は端緒についたばかりである。

【目的】第二次世界大戦の終戦までに、ハンセン病患者たちの短歌はどのような状況下で詠まれ、療養施設の外でどのように受け入れられたか。そしてそれは、当時の状況とどのような関係を有するかを明らかにすることが本研究の目的である。

【方法】島田尺草や明石海人といったハンセン病歌人の歌集、また『ハンセン病文学全集』第8巻 短歌に収められている短歌、それらの短歌についての批評、さらには当時の社会においてハンセン病がどのように捉えられていたかを分析する。

【結果】短歌は、療養所のなかのハンセン病患者と療 養所の外の人々-そのなかには皇族や歌壇および文壇の人々も含まれる-との間の、一方通行的ではなく双方向的コミュニケーションを成立させる文芸の様式で あった。同時に、「癩短歌」というジャンルが成立することによって、ハンセン病患者たちの表現はそのなかに囲いこまれていった。この現象は、ハンセン病患 者の絶対隔離という当時の国家政策のもとに生じ、そこには当事者であるハンセン病患者だけではなく、ハンセン病療養所の医師、歌人、作家、さらには貞明皇 后がかかわっていた。

【考察】戦前のハンセン病療養所の患者たちは、「病 いの語り」として短歌を詠んだ。それが療養所の外部で流通すると、「癩短歌」というジャンル化となった。ハンセン病患者でない読者は、患者の自己表現を読 むことによって患者を理解可能な存在として飼いならそうとしたのである。これは文化人類学者のタウシグが「植民地的想像」と呼んだもの、すなわち植民地状 況の場において異質な文化的・政治的背景をもった人が邂逅することで、それぞれのなかに生まれ出る想像の産物、と類似している。短歌を詠むことによって、 ハンセン病者たちは他者に理解され、そのことによって臣民足りえたのである。


クレジット:第45回日本保健医療社会学会大会、東京慈恵会医科大学(調布)2019年5月18日 示説発表ポスター

謝辞

本研究課題は、科学研究費補助金(萌芽)「終戦までのハンセン病患者の「臣民」化における短歌と医療の関係をめぐって」(17K18479・代表者:松岡秀明)によるものである。

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