反蔵書
anti-book-collection, counter-collection of books
反蔵書とは、タレブ(=ナシーム・ニコラス・タレ ブ)『ブラックスワン(上)』(邦訳 、ダイアモンド社、2009年)の中に出てくる言葉である。具体的にはこういうことである。
ウンベルト・エーコの蔵書癖は半端なものではなく、3万冊にお よぶ私設図書館の体(てい)をなすものだった。
いたずら者の知識人(= Umberto Eco, 1932-2016)は、その図書館を訪問する人間を 2つにわける。まずは、
(1)「ものすごい蔵書ですね。一体何冊読んだのですか?」と質問する人と、
(2)蔵書は調査のための道具だと理解している人であ る。
タレブによると情報論的価値(=経済学でいう稀少性という観点に相似して)から言って、読んだ本は読んでない本よりも価値は「下がる」はずだ。齢を重 ねると読んだ本も読んでいない本も増大するが、それはその人がものについて知り得た証でもある。だから、読んでいない本の蓄積は、いまだ自分の知識として 習得されていないものの蓄積である。その意味で読んでいない未読の蔵書は、反蔵書ということができるとタレブは言う。したがって、最初の質問すなわち「一 体何冊読んだのですか?」と聞く人は、読んだ本のリストが、エーコの頭の中に入っている情報だと「錯覚」する人のことである。ここでの錯認とはこういうこ とだ。自分が勉強していないことや、(読書という)経験を積んでいないリストを誇る「反履歴書」を売り込む人はいない。それはライバルにとって自分の ウィークポイントであるということを曝け出すことに繋がる、という「錯覚」をもっている人たちのことだ。タレブは、読んだ本から得た情報をひけらかし書物を自尊心の増幅器につ かう者は尊敬に値しないと考えているようだ。自分の反蔵書——このレベルでは蔵書の中の未読の本というよりも自分が知らないこと「一般」という概念にまで 昇華されているが——が何であるかということを自覚する者が、真の学者、本物の中の本物の学者——タレブは「反学者」という——なのではないかということ だ。
●反歴史とは?
Counter-History
(=反歴史という訳語があるが「対抗=史」のほうが僕にはしっくりくる)とは、滅ぼされた人間からみる歴史叙述であり、その叙述が甦らせない限り、歴史記
述は常に人間にとっては不完全なままであり続けるものだ。「わたしは、ユダヤ教学から「隠れた美点」を発掘するショーレムの歴史的方法をカウンター・ヒス
トリー(counter-history)と名づけたいと思う」——ビアール『カバラと反歴史』26ページ、木村光二訳,晶文社 , 1984年。(→「反歴史」)
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