反 歴 史
Counter-history
Counter-History (=反歴史という訳語があるが「対抗=史」のほうが僕にはしっくりくる)とは、滅ぼ された人間からみる歴史叙述であり、その叙述が甦らせない限り、歴史記述は常に人間にとっては不完全なままであり続けるものだ。
「わたしは、ユダヤ教学から「隠れた美点」を発掘す るショーレムの歴史的方法をカウンター・ヒストリー(counter- history)と名づけたいと思う」——ビアール『カバラと反歴史』26ページ、木村光二訳,晶文社 , 1984年。
テキスト
反歴史の立場は、デイヴィッド・ビアールによれば、ヴァル ター・ベンヤミンが「歴史哲学テーゼVII」において「歴 史を逆なでする」アプローチに酷似する.
VII Bedenkt das Dunkel und die große Kälte In diesem Tale, das von Jammer schallt. - Brecht, Die Dreigroschenoper. Fustel de Coulanges empfiehlt dem Historiker, wolle er eine Epoche nacherleben, so solle er alles, was er vom spätern Verlauf der Geschichte wisse, sich aus dem Kopf schlagen. Besser ist das Verfahren nicht zu kennzeichnen, mit dem der historische Materialismus gebrochen hat. Es ist ein Verfahren der Einfühlung. Sein Ursprung ist die Trägheit des Herzens, die acedia, welche daran verzagt, des echten historischen Bildes sich zu bemächtigen, das flüchtig aufblitzt. Sie galt bei den Theologen des Mittelalters als der Urgrund der Traurigkeit. Flaubert, der Bekanntschaft mit ihr gemacht hatte, schreibt: »Peu de gens devineront combien il a fallu etre triste pour ressusciter Carthage.« Die Natur dieser Traurigkeit wird deutlicher, wenn man die Frage aufwirft, in wen sich denn der Geschichtsschreiber des Historismus eigentlich einfühlt. Die Antwort lautet unweigerlich in den Sieger. Die jeweils Herrschenden sind aber die Erben aller, die je gesiegt haben. Die Einfühlung in den Sieger kommt demnach den jeweils Herrschenden allemal zugut. Damit ist dem historischen Materialisten genug gesagt. Wer immer bis zu diesem Tage den Sieg davontrug, der marschiert mit in dem Triumphzug, der die heute Herrschenden über die dahin führt, die heute am Boden liegen. Die Beute wird, wie das immer so üblich war, im Triumphzug mitgeführt. Man bezeichnet sie als die Kulturgüter. Sie werden im historischen Materialisten mit einem distanzierten Betrachter zu rechnen haben. Denn was er an Kulturgütern überblickt, das ist ihm samt und sonders von einer Abkunft, die er nicht ohne Grauen bedenken kann. Es dankt sein Dasein nicht nur der Mühe der großen Genien, die es geschaffen haben, sondern auch der namenlosen Fron ihrer Zeitgenossen. Es ist niemals ein Dokument der Kultur, ohne zugleich ein solches der Barbarei zu sein. Und wie es selbst nicht frei ist von Barbarei, so ist es auch der Prozeß der Überlieferung nicht, in der es von dem einen an den andern gefallen ist. Der historische Materialist rückt daher nach Maß gabe des Möglichen von ihr ab. Er betrachtet es als seine Aufgabe, die Geschichte gegen den Strich zu bürsten. |
テーゼ VII 不幸に響くこの谷の闇と大寒を考えてみよ。- ブレヒト『三文オペラ』。 フュステル・ド・クーランジュは歴史家に、ある時代を追体験したければ、その後の歴 史の流れについて知っていることをすべて頭から消し去るべきだと忠告している。史的唯物論が断ち切った手続きを特徴づけるのに、これ以上の 方法はない。それは共感のプロセスである。その起源は、心の惰性であり、一瞬閃いた本物の歴史的イメージをつかむことに絶望するアケディアである。中世の 神学者たちは、これを悲しみの源と考えた。彼女と面識のあったフローベールはこう書いている。「カルタゴを蘇生させるために悲嘆に暮れなければならない理 由など、誰一人として思いもよらない」。この悲しみの本質は、歴史主義の歴史家が実 際に誰に共感しているのかという疑問を投げかければ、明らかになる。答えは必然的に勝者である。しかし、それぞれの支配者は、これまで勝利 してきたすべての者の後継者である。したがって、勝者への共感は常に支配者の利益に なる。史的唯物論者にとってはそれで十分である。今日まで勝利してき た者は誰でも、今日の支配者たちを先導する凱旋行進で、地面に倒れている人々の上を行進する。凱旋行進には、昔からそうであったように、戦利品が運ばれる。それは文化財と呼ばれるものだ。 彼らは、史的唯物論者という遠くの観察者を考慮しなければならない。というのも、文 化財という観点から彼が調査するものは、彼が恐怖を感じずには考えられないような下降のものばかりだからである。その存在は、それを創造し た偉大な天才たちの労苦に負うだけでなく、同時代の無名の前線にも負っている。 それは、同時に野蛮の文書でなければ、決して文化の文書ではない。そ して、それ自体が野蛮と無縁でないのと同様に、文化が一方から他方へと移り変わって いく伝達過程もまた、野蛮と無縁ではない。それゆえ、史的唯物論者 は、可能性の尺度に従って歴史から離れる。彼は、歴史を逆行させることが 自分の仕事だと考えている。 |
On the Concept of History, VII |
ゲルショム・ショーレム(1897-1982)
●反歴史を理解するための「反蔵書」の概念につい て……
「反蔵書とは、タレブ(=ナシーム・ニコラス・タレ
ブ)『ブラックスワン(上)』(邦訳
、ダイアモンド社、2009年)の中に出てくる言葉である。具体的にはこういうことである。ウンベルト・エーコの蔵書癖は半端なものではなく、3万冊にお
よぶ私設図書館の体(てい)をなすものだった。いたづら者の知識人は、その図書館を訪問する人間を2つにわける。まずは(1)「ものすごい蔵書ですね。一
体何冊読んだのですか?」と質問する人と、(2)蔵書は調査のために道具だと理解している人である。タレブによると情報論的価値(=経済学でいう稀少性と
いう観点に相似して)から言って、読んだ本は読んでない本よりも価値は「下がる」はずだ。齢を重ねると読んだ本も読んでいない本も増大するが、それはその
人がものについて知り得た証でもある。だから、読んでいない本の蓄積は、いまだ自分の知識として習得されていないものの蓄積である。その意味で読んでいな
い未読の蔵書は、反蔵書ということができるとタレブは言う。したがって、最初の質問すなわち「一体何冊読んだのですか?」と聞く人は、読んだ本のリスト
が、エーコの頭の中に入っている情報だと「錯覚」する人のことである。ここでの錯認とはこういうことだ。自分が勉強していないことや、(読書という)経験
を積んでいないリストを誇る「反履歴書」を売り込む人はいない。それはライバルにとって自分のウィークポイントであるということを曝け出すことに繋がると
「錯覚」をもっている。タレブは、読んだ本から得た情報をひけらかし書物を自尊心の増幅器につかう者は尊敬に値しないと考えているようだ。自分の反蔵書
——このレベルでは蔵書の中の未読の本というよりも自分が知らないこと「一般」という概念にまで昇華されているが——が何であるかということを自覚する者
が、真の学者、本物の中の本物学者——タレブは「反学者」という——なのではないかということだ」出典:CO-Design_terms2020.html#03-013
)
関連文献
カバラーと反歴史 : 評伝ゲルショム・ショーレム / デイヴィッド・ビアール著 ; 木村光二訳,晶文社 , 1984
”Nietzsche criticized "the genealogists" in On the Genealogy of Morality and proposed the use of a historic philosophy in order to critique modern morality by supposing that it developed into its current form through power relations. But scholars note that he emphasizes that rather than being purely necessary developments of power relations, these developments are to be exposed as at least partially contingent, and the upshot is that the present conception of morality could always have been constituted otherwise. Even though the philosophy of Nietzsche has been characterized as genealogy, he only uses the term in On the Genealogy of Morality, the later philosophy that has been influenced by Nietzsche and which is commonly described as genealogy shares several fundamental aspects of the insights of Nietzsche. Nietzschean historic philosophy has been described as "a consideration of oppositional tactics" that embraces instead of foreclosing the conflict between philosophical and historical accounts."- Genealogy, by Wiki
ニーチェは『道徳の系譜学』において「系譜学者た
ち」を批判し、近代道徳が権力関係によって現在の形に発展したと仮定して批判するために、歴史哲学の使用を提案した。しかし研究者たちは、ニーツが権力関
係の純粋に必然的な発展というよりも、こうした発展は少なくとも部分的には偶発的なものとして暴露されるべきであり、その結果、現在の道徳観念は常に別の
形で構成される可能性があったことを強調していることに注目している。ニーチェの哲学が系譜学として特徴づけられてきたとしても、彼がこの言葉を使ったの
は『道徳の系譜』においてだけであり、ニーチェの影響を受け、一般に系譜学として語られる後世の哲学は、ニーチェの洞察のいくつかの基本的な側面を共有し
ている。ニーチェの歴史哲学は、哲学的な説明と歴史的な説明の間の対立を排除するのではなく、それを受け入れる「対立戦術の考察」として説明されている。
反歴史は「参加と関与」(engagé)によって書 かれた 歴史である——デイヴィッド・ビアール(1984:352)
章立て
序.ユダヤ教学についての省察
1.19世紀の遺産
2.修正と革命
3.ベルリンからエルサレムへ
4.神秘主義
5.神話
6.メシアニズム
7.歴史記述の政治学
8.神学・言語・歴史
9.反歴史
エピローグ:神秘主義と現代性の間で
■拾遺
リンク
テキスト
"It is the appearance of some radical evil, previously unknown to us, that puts an end to the notion of developments and transformations of qualities. -Here, there are neither political nor historical nor simply moral standards but, at the most, the realization that something seems to be involved in modern politics that actually should never be involved in politics as we used to understand it, namely all or nothing — all, and that is an undeter- mined infinity of forms of human living-together, or nothing, for a victory of the concentration-camp system would mean the same inexorable doom for human beings as the use of the hydrogen bomb would mean the doom of the human race." - HR, TOTALITARIANISM IN POWER 443-444
「これまで知られていなかった根本的な悪が出現する
ことで、その性質が発展し変容するという概念に終止符が打たれるのだ。-ここにあるのは、政治的な基準でも歴史的な基準でも単なる道徳的な基準でもなく、
せいぜい、私たちがかつて理解していたような政治には決して関わってはならない何かが、現代の政治には関わっているように見えるという認識、つまり、すべ
てか無か、つまり、人間の生活形態の抑止力のない無限性、すなわち、すべてか無かである。」
"It is inherent in our entire philosophic tradition that we cannot conceive of a “radical evil”, and this is true both for Christian theology, which conceded even to the Devil himself a celestial origin, as well as for Kant, the only philosopher who, in the word he coined for it, at least must have suspected the existence of this evil even though he immediately rationalized it in the concept of a “perverted ill will” that could be explained by comprehensible motives. Therefore, we actually have nothing to fall back on in order to understand a phenomenon that nevertheless confronts us with its overpowering reality and breaks down all standards we know. There is only one thing that seems to be discernable: we may say that radical evil has emerged in connection with a system in which all men have become equally superfluous. The manipulators of this system believe in their own superfluousness as much as in that of all others, and the totalitarian murderers are all the more dangerous because they do not care if they themselves are alive or dead, if they ever lived or never were born. The danger of the corpse factories and holes of oblivion is that today, with populations and homelessness everywhere on the increase, masses of people are continuously rendered superfluous if we continue to think of our world in utilitarian terms. Political, social, and economic events everywhere are in silent conspiracy with totalitarian instruments devised to make men superfluous." HR, TOTALITARIANISM IN POWER 459-460.
「これは、キリスト教神学においても、悪そのものに
さえ天界的起源を認めているカントにおいても同様である。カントは、理解可能な動機で説明できる「根源的悪」という概念ですぐに合理化したとはいえ、彼の
造語では、少なくともこの悪の存在を疑っていたに違いない唯一の哲学者である。それゆえ、私たちは、圧倒的な現実を突きつけられ、私たちが知っている基準
をことごとく崩される現象を理解するために、実は頼るものがないのである。見分けられると思われることはただ一つ、すべての人間が等しく不要になったシス
テムと関連して、過激な悪が出現したと言えるかもしれない。全体主義的な殺人者たちは、自分たちが生きていようが死んでいようが、生きていたことがあろう
が生まれなかったことがあろうが気にしないので、より危険なのだ。屍体工場や忘却の穴の危険性は、人口やホームレスがいたるところで増加している今日、私
たちの世界を功利主義的に考え続ければ、大量の人々が絶えず不要になるということだ。政治的、社会的、経済的な出来事はいたるところで、人間を余剰にする
ために考案された全体主義的な道具と無言の共謀をなしている」
文献
その他の情報
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