The divine punishment is a kind of polular ethics
1972年(財)民族学振興会から出版された『沖縄の民族学的研究:民俗世界と世界像』に収載されている巻頭論文「本島——祭祀的世界の反映 としての集落構成」のなかで、沖縄諸島の村落とは「愛と信頼の村落」である、という驚くべき概念規定からはじまる。 もともと共同体は、本源的な紐帯つまり仲松のいう 「愛と信頼」をもって生まれたものだが、それが歴史的にみて、内外からの政治組織化の影響をうけて変化する。しかし、それにもなお、レジリエントな本源的 紐帯組織を維持するために、村落は親族単位を実践単位とする祭祀的世界を構成する。そのイデオロギーを「オソイ」と「クサテ」という2つの表裏をなす信仰 がある、というのが仲松の主張である。
オソイは「親である神は、自己の子である村落民を常に愛し、これを護り育ている」ことに代表される信仰についての語 彙である(仲松
1972:4)。またオソイはシーとも発語される。クサテは、腰宛(kusati)という漢字があてられて、神のオソイ(先の定義から愛であろう)を心か
ら信じることであり、それを渇望することだ。依り添うとも表現している(仲松 1972:9)。
仲松の論文は、それを、村落構造と、語彙の語源的解明から論証しようと試みるものである。しかし、島津の琉球征伐(1609)や現代化の波のなかで、オソ
イとクサテという2つの「思想」(評者はイデオロギーと表現)の崩壊を、仲松は嘆いている。
仲松の論証には、歴史実証主義的手続きからみると、1)愛や信頼の定義不足や、それが「理想的な」琉球社会に存在していることの証明の欠如、 2)オソイとクサテという2つの「思想」を、村落構成原理として抽出することの妥当性、3)2つの「思想」にもとづく実践を永続的に維持してきた唯物論的 な根拠(ベース)や可能性の指摘、などが欠けており、非常に不満が残るだろう。 しかしながら、仲松の論文を、琉球のユートピアを支 える思想や神話という哲学の分析、あるいは、ユートピアの崩壊後に、ユートピアないしはユートピア的社会構成原理を回復するための、設計図あるいはグラン ドデザインの思想だとすれば、足元のデータしかみない下手な実証主義的イデオロギーに凝り固まった論文よりも、はるかに、未来を見据えている思想あるいは 哲学の提唱であると言えるだろう。事実、この論集はさまざまな角度から沖縄の民俗事象が検討されているが、それに比肩する密度と思想の解明に取り組んでい るのは、伊藤幹治「神話儀礼の諸相からみた世界観」を見るだけである。伊藤は同論文の脚注(1972:255-256)において仲松の2つの文献を引用し て、クライナーや比嘉とは異なる、折口・柳田の系譜につながる他界観・神概念の系譜に位置付けている(→「仲松弥秀の琉球ユートピア思想について」)。
この論文が書かれる2年前の1968年、仲松は「御嶽(うたき)の神」という短い論文を琉球大学沖縄研究所刊『神と村——沖縄の村落』に書いている。これは、その後、二度ほど異なる書 肆から出版される。ここでも、二元論、おそて(おそう、と表記)とクサテが表現されている。これは、御嶽(うたき)神とのパトロン-クライアント関係を表 現したものであるが、鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』に、氏祖と氏子の契約関係として御嶽を捉えたのに対して、親子関係のように契約原理を超えた拘束力の つよいものだと批判している。仲松がマイルドな沖縄伝統原理主義者(エミック主義者)だとすると、外来の鳥越憲三郎の解釈はユニヴァーサリスト(エティク 主義者)になり、両者の対比がよくわかる論文になっている。
この情報収集の副産物であるが、鳥越憲三郎は、「沖縄戦前の1942年に沖縄県の嘱託で祭祀などを調査。同年、湧上元雄と共に久高島のイザイ ホーを視察した」ウィキペディア)としている。TM(1935-2018)さんはHM学会の創設者ですが、彼の晩年は、卒中で言葉が不自由になったという ことを関係者から聞いたことがある。そして、その病気の原因の民俗学的説明が興味ふかい。つまり、八重山出身の地の地元の人たちは、彼が若い時に禁忌と なっている地元の伝統的仮面仮装の写真を撮りかつて論文に掲載したことと祟りだと噂したという。昔の禁忌の侵犯のことをよく覚えていたのである。
人類学の研究倫理が近代的な装いをもっていまや常識化しつつあるが、それ以前から、フィールドの祟りに対して、我ら同業者が、恐れを忘れたというのが、結局のところ、TMさんの晩年病気のみらならず、昨今の人類学の不人気という天罰になって今我々の上に降りかかっていると、言えば、あまりに迷信じみているだろうか。
だが、人類学・民族学は、そのような現地の迷信を聞き出すことに、専心してきたのではないだろうか?そして、現地の人が真顔で話す、そのような ホラーを法螺話ならぬ、メタナラティブとして位置付けて、記号としての語りの要素にして「構造論」的に解釈したり、共同体の禁忌とその侵犯をおこさないよ うに天罰があると「禁忌の機能」を見出すことに、まさに専心してきた。TMさんもまた、カメラの禁忌よりも「学問の真理」を同業者に伝え、また、学術的に 第一人者になるために、そのような逸脱をしたのだろうか?もちろん、現在の「フィールドワークの研究倫理」という観点から見れば、TMさんの行為も研究倫 理違反(=インフォームドコンセント取得違反ならびに禁止事項の違反)となる。だが、彼が調査した時点では、そのような禁忌の侵犯は許されることができな いと言え、当時には倫理的規定がないゆえに、責任はあるまい。だが、フィールドの人たちのうち、彼の調査に立ち会った人たちの記憶の中には、広義の《倫理 的違反をしために、将来、天罰が降るのではないか》という意識があったのかもしない。あるいは、そのような記憶の痕跡が、ほとんど半世紀ちかい後になっ て、《やっぱり天罰がくだった》《禁忌を破るのは良くない》と解釈が出てくるのは、当然の理りである。あるいは、むしろ、このような解釈には、構造主義で も機能主義でも解釈人類学でも、なにかの理由を訪ねてみたいが、現在の我々に言わせれば十戒のひとつのドグマように「他人が嫌がることを無理強いしてはな らぬ」ということに尽きるではないだろうか?
研究倫理と言えば、90年ちかい前におこった「琉球民族遺骨」の科学的目的のための「採集」(原告や控訴人に言わせれば「盗骨」)について、 2022年秋現在、調査研究を、私はしている。そこでもまた、採集がおこなわれた時点での、犯罪行為や研究倫理違反を認めることは難しく、また、仮にそれ が認定されたとしても関与者たちはすでに死亡しているために、罪を問うことはできない。だが、科学者の几帳面さもあり、現地の人たちがどのように「採集行 為」を嫌がっていたのかということは、きちんと記録に残されており、また、公刊されたノートやメモで、そのことを知ることができる。我々にできることは、 そのような先達の行為から、さまざまな恩恵を受けてきたにも関わらず、時空を超えて、その正邪を判断し、また、社会的あるいは学術的「連累(れんるい)」 にあるのなら、学者・研究者として、彼らを代弁して謝罪をし、現在の子孫に赦しを乞い、そして和解のための対話を認めてもらうことが重要であると、私は考 えている。
過去に自分たちの諸先輩たちがおこなった誤りには反省をするのは、諸先輩たちの学恵に私たちも預かっているからである。謝罪をすれば、もう遺骨 を使った研究ができなくなるというのは、頑なな恐怖言説で、現在の研究者に対して、遺骨返還などすれば自分たちの研究の自殺行為になるという、根拠のない 理不尽で不当な要求である。むしろ、研究者と現地の人たちのモラルセンスの違いを明らかにして、学問の成果が、調査に協力してくれた現地の人たちと、分か ち合う未来を構想するほうが、よっぽど楽しい企てになるのではないと、私は期待している。
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