かならずよんで ね!

自我とエスの関係

Ich und Es

池田光穂

「G ・グロデック氏……はわれわれが 自我と呼ぶものは、生においては基本的に受動的にふるまうものであり、未知の統御でき ない力によって「生かされている」(同氏の表現)と繰り返し強調している。この洞察を考慮にいれて、知覚システムから発生し、当初は前意識的 (vbw)であるものを〈自我〉と名づけ、無意識的(ubw)なものとしてふるまうものを 〈エス〉と名づけることを提案する」(フロイト 1996:220)。

フロイトの原注「原注(5) G ・グロデック『エ スの書』国際精神分析出版、1923年。; 原注(6)グロデック氏自身がニーチェの例に従っているのは確実である。ニーチェは、われわれのあ りかたにおいて非人称的なもの、いわば自然必然的なものを〈エス〉という文法的な表現で呼ぶのをつ ねとしていた」(フロイト 1996:220)。

※訳者、中山元の訳注:「フロイトは原注で、グロ デック氏がニーチェに依拠していることを指摘している。フロイトとグロデ ツタの往復書簡によると、フロイトはそれまでの自我論における意識/前意識/無意識の局所論では満 足できず、それらを包括するような自我と、これと対立する〈抑圧されたもの〉という対立関係に考察 の重点を移そうとしていて、グロデックの「エス」という概念に出会ったという」(フロイト 1996:221)。

「このような名称を使うことで、記述と理解の面でど のような効用があるかは、いずれ明 らかになろう。われわれにとっては個人とは、一つの心的なエス、未知で無意識的なもの である。自我はその表面にのっているのであり、自我からその核として知覚(W) シス テムが形成される。これは図解すると次のようになる。 自我はエスの全体を覆うものではなく、肺が卵の上 にのっているように、知覚(W)システムが自我の 上にのっている範囲に限って、自我はエスを覆ってい るのである。自我とエスの聞に明瞭な境界はなく、自 我は下の方でエスと合流している。/ しかし抑圧されたものもエスと合流するのであり、 その一部を構成するにすぎない。抑圧されたものは、 抑圧抵抗によって自我と明瞭に区別されるのであり、 抑圧されたものはエスを通じて自我と連絡することができる」(フロイト 1996:221)。

「自我は「聴覚帽」をかぶっているが、脳の解剖学的な経験から、この帽子は片側だけにあることが示されている」(フロイト 1996:222)。

「フロイト理論を単純に言えばこうだ。無意識あるいは『エス』というものがあり、そこには無意識の欲望が息づいている。その場所は、 欲望にとって安全な場所であるがしかし、もしそこに収まりきれぬ場合、欲望は、われわれを戸惑わせ、葛藤や矛盾を生じさせ、問題をおこしてしまう。意識は 精神(=心:引用者)の一部分であり、そこはわれわれがアクセスすることのできる部分だ。たとえば、イマージュや感情や想念などを、自分のうちに見つける ことは簡単だ。乱暴に言えば、これを、フロイトは『自我』と呼んだのだ。フロイトは、自我を、無意識と世界との間で折衝する、外皮や外壁であると考えた」 フィリップ・ヒル『ラカン』新宮一成・村田智子訳、筑摩書房、26ページ、2007年

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●ジジェクによると、フロイトは、自我を自分の家の主人であることすら気づいていない(ジジェク 2008:16)

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