はじめによんでね!

松田道雄

Michio MATSUDA, 1908-1998

池田光穂

茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家 に[1:君たちの天分を生かそう, p.146]生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった[2:幸運な医者, p.5]。父は京都で小児科医を開業していた[3:天分を生かそう, p.146]。
京都市立明倫小学校[4]、京都一中[5]、旧制第三高等学校、京都帝 国大学医学部卒業[6]。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが[7]、共産党に入党する決心はできなかった[8]。 1929年には太 田武夫(8代目典礼, 1900-1985)が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた[9]。
・1924年1月金関丈夫は、 解剖学教室の足立文太郎(1865-1945)教授門下となる。足立は金関を病理学教室教授、清野謙次(1885-1955)に引き合わせ、清野は京都帝 國大学考古学教室の濱田耕作(1881-1938)教授にひきあわせたという(松田道雄「金関丈夫先 生のエッセイを身をすくめて読む」毎日新聞1980年12月2日)。金関は、人類学と考古学への興味が拓かれる。以降、濱田の「カフェ・アーケオロジア」 に出入りするようになる(金関恕 199:72)。
1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎(いくたろう, 1865-1945)らの影響で小児結核を研究対象とする。1937年から中京区西ノ京の健康相談所、1942年から京都府衛生課結核予防係、のち和歌山 県衛生課長[10]。その間、1940年に初の著書『結核』を刊行。1943年に「小児の慢性肺結核の発生に関する研究」により医学博士の学位を授与され る[11][12]。
平 井毓太郎(いくたろう, 1865-1945)は、東京帝国大学卒業(エル ヴィン・フォン・ベルツより教育を受ける)京都帝国大学教授。1924年 授乳中の乳幼児に見られた脳膜炎様病症の原因を、母親が使う含鉛白粉による鉛中毒であることを発見、日本小児科学会で報告している。
太平洋戦争中、召集されて軍医となりビルマに派遣を命じられるが、父の友人の京都市衛生局長の助言により [13]、内地の陸軍の結核病院に転属となる[14]。戦後、県(?)に辞表を提出し、大阪府の民間病院小児科に勤務、その後京都に診療所 を開く。

小児科の医師として診療する傍ら、久野収の勧めもあって1949年に平和問題談話会(1949-1958)に参加[15]、末川博、恒藤恭、田中美 知太郎、桑原武夫らの知遇を得る。1960年に京都大学人文科学研究所の共同研究「革命の比較研究」などに参加する。1978年には武谷三男、野間宏、水 上勉らとともに安楽死法制化を阻止する会声明発起人となった。
平 和問題談話会(1949-1958)は解散し、1958年6月憲法問題研究 会に継承されて、最終的に1976年6月に解散した(奈良本辰也『師 あり友あり』思文閣, p.138)
1967年に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念。1967年に出版した代表作でベス トセラーの『育児の百科』(岩波書店)をはじめ、数多くの著作があり、主な著作はシリーズ『松田道雄の本』(筑摩書房・全16巻)に収められた。また、ロ シア語史料に基づくロシア革命史研究の開拓者としても知られ、その分野の著書も多数ある。

1949年に『赤ん坊の科学』で毎日出版文化賞、1963年に『君たち の天分を生かそう』で児童福祉文化賞をそれぞれ受賞[16]。死後、個人蔵書は「松田道雄文庫」として熊本学園大学に収められた。
・松田の没後、北海道大学のスラブ研(現:スラブ・ユーラシア研究 センター)の関係者(氏名不詳)は、松田の蔵書から、自分たちの欲しい蔵書を恣意的にピックアップして、北海道に運んだという話を、関係者から 2022年に聞いたことがある。
『結核』 弘文堂 1940
『人間と医学』 中央公論社 1947
『からだとこころ おばけ退治』 大雅堂 1948(新少年文庫)
『医学の誤謬』 白東書館 1948
『結核とのたたかいの記録』 白東書館 1948
『赤ん坊の科学』 創元社 1949
『新しい育児百科』 羽仁説子共編 日本評論社 1950
『結核をなくすために』 岩波新書 1950
『あられ療法』 創元社 1953
『療養の設計』 岩波新書 1955
『宛名のない見舞状 療養者のために』 六月社 1956
『常識の生態』 河出新書 1956
『育児日記』 文藝春秋新社 1957
『現代史の診断』 拓文館 1957
『はじめての子供』 中央公論社 1958
『社会主義リアリズム』 三一書房 1958
『私は赤ちゃん』 岩波新書 1960
『私は二歳』 岩波新書 1961
『君たちの天分を生かそう』 筑摩書房 1962
『京の町かどから』 朝日新聞社 1962
『小児科医の眼』 文藝春秋新社 1963(ポケット文春)
『こんなときお母さんはどうしたらよいか 暮しの手帖の本』 暮しの手帖社 1964
『巨視的しつけ法』 筑摩書房 1964(グリーンベルト・シリーズ)
『日本式育児法』 講談社現代新書 1964
『母親のための人生論』 岩波新書 1964
『私の幼児教育論』 岩波新書 1965
『日本知識人の思想』 筑摩叢書 1965
『おやじ対こども』 岩波新書 1966
『往診・宅診・休診 幼児をもつ母親のために』 立風新書 1966 改題「愛児の診断書」
『育児の百科』 岩波書店 1967 のち文庫 のちレーザーディスク、のちビデオ付書籍
『あなたの家庭はそれでよいか』 日本放送出版協会 1968
『恋愛なんかやめておけ』 筑摩書房 1970(ちくま少年図書館)のち朝日文庫
『世界の歴史 22 ロシアの革命』 河出書房新社 1974 のち文庫
『革命と市民的自由』 筑摩書房 1970
『私の読んだ本』 岩波新書 1971
『われらいかに死すべきか』 暮しの手帖社 1971 のち平凡社ライブラリー
『きみはなにがこわい? おばけとたましいの話』 少年少女講談社文庫 1972
『現代への視角』 五木寛之、久野収共著 三一新書 1972
『わたしの保育指針』 新評論 1972
『市民として 家庭時評』 毎日新聞社 1972
『洛中洛外』中央公論社 1972
『お母さんは心配しすぎる 2-3歳児』 中央公論社 1972
『人生ってなんだろう 正続』 筑摩書房 1973-74
『自由を子どもに』 岩波新書 1973
『わたしの育児教室』 文藝春秋 1973
『人間の威厳について』 筑摩書房 1975
『花洛 -京都追憶-』 岩波新書 1975 「明治大正京都追憶」と改題、岩波同時代ライブラリー
『一年生の人生相談』 筑摩書房 1976
『在野の思想家たち 日本近代思想の一考察』 岩波書店 1977
『私の教育論』 筑摩書房 1977
『松田道雄の本』1-16 筑摩書房 1979-81
『女と自由と愛』 岩波新書 1979
『本の虫 「ハーフ・タイム」53・1-55・12』 筑摩書房 1983
安楽死』 岩波ブックレット 1983
『日常を愛する 「ハーフ・タイム」56・1-58・9』筑摩書房 1983.11 平凡社ライブラリー
『わが生活わが思想』 岩波書店 1988
『町医者の戦後』 岩波ブックレット 1988
『私は女性にしか期待しない』 岩波新書 1990
『安楽に死にたい』 岩波書店 1997
『幸運な医者』 岩波書店 1998
《翻訳》
哲学の人間学的原理 チェルヌィシェフスキー 岩波文庫 1955
レーニン レフ・トロツキー 竹内成明共訳 河出書房新社 1972、中公文庫 2001
養生訓 貝原益軒 中公文庫 1973、改版2020
大和俗訓・和俗童子訓 貝原益軒 中公文庫 1974
人間 受胎から老年まで D・W・スミス、E・L・ビアマン 松田道郎共訳 岩波書店 1977
太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日[2])は、日本の産婦人科医、政治家。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業[3]。京都帝国大学大学院産婦人科専攻 (大正15年)修了[3]。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊器具の草分けのひとつである「太田リング」を考案した[4]。優生保護法の制定に尽力。日 本安楽死協会(のち日本尊厳死協会と改称)を設立。

京都府与謝郡生まれ。代々産科医で、典禮の名が受け継がれており、武夫 は八代目典禮を1942年に襲名した。京都府立第四中学校(現京都府立宮津高等学校)を卒業した後に、第三高等学校を卒業する。九州帝国大学医学部を卒業 後に医師になる。学生時代に、女性が沢山の子どもを産むことはそれだけ女性の負担になり、母体の命に危険だとして1、2程度に抑制するという産児制限の推 進者であるマーガレット・サンガー(Margaret Higgins Sanger, 1879-1966)の思想を知り、以後母体のために避妊や人工妊娠中絶の運動を行ってゆく。
・2020年に優生学運動との繋がりを理由として、全米家族計画連盟は 創立者であるサンガーの名前を全米家族計画連盟のクリニックの名称から除去することを発表(Why Planned Parenthood Is Removing Founder Margaret Sanger's Name From a New York City Clinic, TIME, BY ANNA PURNA KAMBHAMPATY
 JULY 21, 2020)
1946年、第22回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で京都全府区か ら立候補するが、落選。その後は日本社会党に移籍し、1947年、第23回衆議院議員総選挙で旧京都2区から日本社会党公認で立候補し、当選。その後、加 藤シヅエ(1897-2001)らとともに「優生保護法」(1948年施行、現・母体保護法)の制定に尽力した。その後、日本社会党から労働者農民党に参加するが、1949年、 第24回衆議院議員総選挙で落選する。1962年、第6回参議院議員通常選挙に、京都府選挙区から無所属で立候補するが落選し、政界を引退した。

また、日本の安楽死運動の第一人者としても知られる。1976年1月に は、植松正(1906-1999)らとともに「安楽死協会」を発足させる。同年6月には「日本安楽死協会」と改称、初代理事長に就任する。
・安楽死協会設立者の植松正は、法曹から法学教育は台北帝大からはじまった
しかし、太田は老人について「ドライないい方をすれば、もはや社会的に 活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」[5]と主張し、安楽死からさらに進 めた自殺を提案したり、安楽死を説く中で、障害者について「劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない」「障害者も老人もいていいのか どうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか」[6]と主張した。また『週刊朝日』 1972年10月27日号によれば、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のた めに努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉な どと言われては、たまったものではない」[7]とも述べている。むろん、太田のこうした言動には非難が起こった[8]。太田は批判に対して幾度かは反発し たものの、1983年8月には「安楽協死会」を「日本尊厳死協会」に改称している。もともと太田は「尊厳死」の用語を批判していたが[9]、にもかかわら ず「尊厳死」を採用したのは、「安楽死」が持つマイナスのイメージを払拭し、語感の良い「尊厳死」に変えることで世間の批判を和らげようとしたからである [10]。

晩年に近くでは体調を崩すこともあったがチューブに繋がれて生きるよう な姿、自分で自分すら分からなくなってる状態は生きているとは言えないとして無理な延命措置は絶対に拒絶すると述べている。そうなったら寿命だとして自身 が安楽死出来るようにすることを訴えている[11]。療養生活を送っていた1985年12月5日、死去。85歳没[12]。
・太田典礼を偲ぶ会『生き生きて八十余年』太田リング研究所、1986 年

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

Mitzub'ixi Quq Chi'j