和田寿郎移植事件:生命倫理と医学的判断の検証
Surgeon Dr. Jyuro WADA's heart transplant incident on August
8, 1968
池田光穂・村岡潔
このページは、1968年8月8日におこった和田寿郎(Jyurou WADA, 1922-2011)心臓移植手術を、生命倫理と医学的判断の歴史的検証としておこなうページである。時間軸の流れとしては、和 田寿郎個人のこと、臓器移植と生命倫理の歴史、そして、術前・術中・術後のながれのなかで考える。その資料は、インターネットにおける情報、関連文献情報 などの2次情報にもとづく総合的なものであり、また、この資料は、教材として、その後の人々が、生命倫理と医学的判断を、この歴史から実践的に学ぶ材料と して取り扱い、なるべく道徳的判断から価値自由になり、検証できうるところまで検証し、価値判断は各人にゆだねるものとする。敬称は(引用以外は)省略し た。
池田光穂「臓器移植における文 化概念を使った「抵抗」の隆盛と挫折そして再生について」第30回日本生命倫理学会(京都府立医科大学)、公募シンポジウム「「和田心臓移植」に生 命倫理学はどう向きあったか:50年後における課題をめぐって」における個人発表文の原稿、2018年12月8日
臓器移植と生命倫理の歴史(村岡潔による※データが古いため改訂を予定しています。池田まで改訂案をお寄せください) |
和田寿郎(ウィキ日本語による) | 事件の経緯(出典:「和田心臓移植事件」ウィキ) |
札幌医科大学(ウィキ日本語による) | クリスチャン・バーバード(Christiaan Neethling Barnard, 1922-2001) | |
術前までの歴史 |
1902-1905 イヌを用いて、初の腎臓移植実験・心臓移植実験が試みられる 1936 急性腎不全患者に死体腎を大腿部に移植、48時間後死亡 1950 慢性腎不全患者に死体腎を同所性に移植、52日間移植腎機能する 1954 一卵性双生児間で腎移植、長期生存例を報告 1956 日本初の腎移植 1959 拒絶反応対策として、腎移植患者に全身放射線照射が試みられる 1960 同所性心移植実験で長期生存犬を得る 1961 免疫抑制剤としてアザチオプリンが使用 1963 初の肝臓移植、3才の先天性胆道閉鎖症の男子に施行 1964 同所性心移植、初の臨床例(異種移植:チンパンジ-からヒト)/日本初の肝臓移植 1966 初の膵臓移植施行 1967 同所性心移植、初の臨床例(同種移植:ヒトからヒト)、18日間生存/同所性心移植、無脳症児から心臓奇形児へ。術後6時間で死亡 1968 心肺同時移植、生後2カ月の乳児に施行 |
1922 3月11日誕生(父は和田禎純(?-1954)・北帝大教授・国際法) 1944 北海道帝国大学医学部卒業(首席)、北海道帝国大学医学部第二外科(柳壮一教授)入局、同大特別研究生。 1947 北海道大学医学部第二外科講座講師(この年の3月22日学校教育法により新制大学誕生)(国立八雲病院外科医長) 1949 北海道大学 医学博士 論文の題は「低温の生体に及ぼす影響に就ての実驗的研究 : 薬剤による凍冱の治療及び予防 」 1950 (国立八雲病院外科医長、北大講師を辞職)ガリオア留学生としてアメリカ合衆国へ留学[※GARIOA , Government Appropriation for Relief in Occupied Area] 「ミネソタ州立大学、オハイオ州立大学胸部外科、ハーバード大学などで研鑽を積む。ミネソタでは、世界初の心臓移植を執刀した南アフリカのクリスチャ ン・バーナードと知己を得、さらに犬を使った動物実験で画期的な成功を収め、その後も世界の心臓移植を牽引し続けたノーマン・シャムウェイともここで知り 合」う。 1954 父・禎純の死去を期に帰国。 1954 10月1日札幌医科大学外科学講座助教授(初代学長大野精七の招きによる) 1954 12月10日僧帽弁狭窄症の手術に国内二番目に成功(1番目は東京女子医大の榊原仟) 1958 札幌医科大学第二外科(胸部外科初代)教授。人工弁「ワダ弁」を自身の考案。弁置換術での実績をあげる。「ワダ弁」は、後にバーナードによる世界初の心臓移植手術にも用いられた。 ・このころ、柳壮一北大名誉教授死去 「人工心肺の心内直視下手術(開心術)における使用時間の向上とともに、心臓外科における未知の領域を開拓」 1968 「大血管完全転移症に対する根治手術のひとつであるマスタード手術に日本で初めて成功」。胸部外科10周年(和田 1968:175) |
1948 山口義政生まれる 1951 宮崎信夫生まれる(父:武夫、母、トミ)。出生地は不明だが、死亡時に家族は恵庭市に在住(吉村 1986:140) 1962 宮崎小学5年生の秋のリウマチ性関節炎が原因で以降「心臓病」(心臓弁膜症)を患う(吉村 1986:185) 1963 宮崎君、恵庭中学に入学 1966 北海道産業短期大学附属高等学校入学。 1968 5月28日札医の宮原内科に入院(和田が「数年間寝たきり」という表現は吉村(1986:186)によると誇張すぎると批判) 1968 6月渡辺淳一、心臓移植をテーマにした「ダブルハート」を執筆。掲載時期に心臓移植がおこわなわれる。 |
1950 北海道総合開発の一環で北海道立女子医学専門学校(1945年創設)を前身とする道立大学として開学。医学部を設置。初代学長は大野精七(1885-1982)。 1968 和田寿郎らにより日本初の心臓移植が行われた(和田心臓移植事件)。 | 1922 11月8日ケープ州のビューフォート・ヴェスで生まれる n.d. ケープタウン大学医学部で医師資格を取得後、研究員として勤務 1956 心臓外科の先駆者的存在だったクラレンス・ウォルトン・リレヘイ(C. Walton Lillehei, 1918-1999)の下で研鑽を積む 1958 帰国 1967 12月3日ケープタウンのグルート・スキュール病院で心臓移植手術を行い成功する。これは交通事故によって脳死状態となった24歳の女性の心臓 を55歳の男性ルイス・ワシュカンスキー(1913年 – 1967年12月21日)に移植したものだが、術後18日目に肺炎で死亡。1968年1月2日にはフィリップ・ブレイバーグ(1909年5月24日 – 1969年8月17日)に対して2回目の心臓移植手術を実施し、術後19ヶ月間(593日)の生存に成功 |
移植手術前後 |
「和田心臓移植を告発する会」が指摘する22項目の疑念(和田心臓移植を告発する会 1970:282-286) 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. |
・1968年8月7日「午後8時、山口君
は救急車で札幌医大に運び込まれ、午後10時10分、瞳孔が散大し、脳波が停止したため脳死と認定された。医師団は山口君の両親に心臓の提供を申し出て承
諾を得た。そして翌8日午前2時5分、和田教授の執刀で心臓移植手術が開始され、宮崎君の肥大した心臓を取り出すのに13分、山口君の新しい心臓を宮崎君
に移植するのに45分かかり、手術は午前5時に終了」(→「和田寿郎教授心臓移植事件」) ・「8日午後2時20分、札幌医大付属病院で緊急記者会見が行われ、日本初の心臓移植が行われたことが発表」同上) ・「宮崎君の両親から心臓移植の同意を得る段階、正確には山口君が札幌医大付属病院に搬送される前の時点で、宮崎君用の輸血が大量に注文されていたことが 日赤の記録から分かっている。さらに山口君の両親が移植に同意したのは、山口君の胸部が切開された後であることも明らかになった」 ・「最初に疑問を持ったのは、宮崎信夫君の主治医の札幌医大内科・宮原光夫教授であった。宮原教授は心臓移植が行われたとき、移植を受けたのが自分の患者 とは知らなかった。宮崎君は僧帽弁だけが悪く、弁置換術のために内科から胸部外科に転科しただけで、トイレにも歩いて行けたし、心臓移植を受けるほどの重 症ではなかった。和田教授は移植が必要なほどの心臓弁膜症と述べたが、宮原教授は「そもそも心臓手術が必要な状態ではなかった」として、内科専門誌(内 科、昭和44年5月号)に宮崎君の術前状態を掲載し、和田教授の診断を正面から否定」(→「和田寿郎教授心臓移植事件」) ・「宮崎君の遺体を解剖した札幌医大病理学の藤本輝夫教授も、心臓に関して宮原教授と同様の見解を発表した。その内容は、「剖検所見からみた心臓移植」の 題名で内科論文誌・最新医学3月号に書かれている。解剖の結果、腹部には緑膿菌感染による膿瘍が大量に貯留していて、この膿瘍は免疫抑制剤の副作用による 感染によるものとした。宮崎君の心臓は1080gと通常人の4倍に膨れあがり、心膜に癒着を認め、これを移植の拒絶反応の所見とした。藤本教授は免役学的 な基礎研究もしないで、いきなり宮崎君に心臓移植を実施したことは「結果的に人体実験だった」と和田教授を批判」同上) ・「このように札幌医大内部から和田教授を非難する声が上がったため、札幌医大学長は「心臓移植の検討会を持ちたい」と定例教授会で提案した。移植手術に 関する臨床データは学内ですら公表されていなかった。これを検討しようという学長の提案であったが、反対意見が続出した。「やれば内容がマスコミに漏れ、 十大ニュースになるはずの心臓移植の名声が失われてしまい、大学に汚点を残す」などの意見が大勢を占めた。居並ぶ教授陣のほとんどが和田移植への疑惑を持 ちながら、その大勢は疑惑隠しに傾いていた」 ・「宮崎君は本当に移植手術が必要だったのか。この疑惑が渦巻く中、宮崎信夫君の切除された心臓が3ヶ月間行方不明になる事件が起きた。病理学の藤本教授 は「宮崎君の心臓が行方不明となり、3か月後に見つかったが、何者かによって心臓の3つの弁が根元からくり抜かれていた。ばらばらになった3つの弁と心臓 の復元を試みたが、明らかに大動脈弁だけは宮崎君の心臓と切り口が合わなかった」と述べた」同上) |
・1968年(昭和43年)8月8日日本
初、世界で30例目となる心臓移植手術を実施。ドナーは同年8月7日の正午過ぎ、21歳の小樽市の蘭島海水浴場で溺水事故を起こした男子大学生(山口義
政、駒沢大学[経済学部]4年生)。山口は、救急車の中で息を吹き返すが、意識不明のまま小樽市内の野口病院に収容。蘭島(らんしま)はアイヌ語で「ラノシュマナイ」(下り入るところ)の意味。 ・レシピエントは心臓弁膜症の18歳の男子高校生で[1][2](僧帽弁閉鎖不全症、三尖弁閉鎖不全症、大動脈弁狭窄症を診断された、宮崎信夫18歳)、和田によれば、多弁障害を抱え人工弁置換術では根治できないとされる患者. ・「山口君の治療に当たった上野冬生医師は自発呼吸と瞳孔反射認め、 命に別状はないと判断して帰宅。ところが容体が急変したため、野口暁院長は高圧酸素治療ができる札幌医大へと転院」「山口君が札幌医大付属病院に転院した のは上野医師が帰宅したあと、午後7時に野口病院の野口暁院長の判断で札幌医大への搬送がなされた。野口院長は以前から和田教授と親しく、かつて結核病院 で和田教授と一緒に結核の手術を100例以上行っていた。その関係で、院長は以前から心臓提供者を頼まれていた、つまり和田教授が心臓提供者の網を張って いたとうわさされた」(→「和田寿郎教授心臓移植事件」) ・午前2時5分執刀開始(池田加筆) ・手術は約3時間半をかけて明け方、終了した。レシピエント(宮崎信夫, 18歳)は意識障害がなかなか回復しなかったが、やがて意識回復。山口の遺体は検視ないしは病理解剖されずに火葬に付される。 ・8月8日午後2時20分、札幌医大付属病院で緊急記者会見 ・8月9日午前NHK「スタジオ102」に出演。 ・8月11日黄疸などの症状が出て意識混濁が続く。 ・8月12日和田、米国の教授に「拒否反応抑制剤」について国際電話にて質問。この間、朝に定例記者会見がつづく。 ・8月14日意識回復の記者会見発表。山口君の初七日に和田が訪れる。 ・8月15日宮崎君「180時間ぶり」に起き上がる。 ・8月16日気管切開のチューブを抑えると「痛い」と発語。 ・8月17日鍋焼きうどんを食べる ・8月19日はじめてベッドから降りる ・8月20日天皇皇后から容体を心配する報道がある。 【この間の宮崎君の容体はTV等で放送されて、国民の衆目と関心が注がれていたと思われる】 ・8月29日には屋上で10分間の散歩をし、その回復振りをマスコミに披露した。その後、一般病棟に移ったが、9月に入ると徐々に食欲不振に陥る。検査の結果、輸血後の血清肝炎と診断された。 ・術後においても発症が現れていたという、意識混濁の症状も進みはじめたレシピエントは、10月に入って一旦、小康状態を発表される。 ・手術後83日目の1968年10月29日13時20分に食後に痰を詰まらせ長時間にわたる蘇生術の甲斐もなく急性呼吸不全で死亡したと医師団により発表された[3] ・「札幌医大付属病院における山口君の容体についての証言は大きく分かれている。和田教授は限りなく脳死に近い状態だったとしているが、救急隊員や山口君 の父親、手術に駆けつけた麻酔科医・内藤裕史(後の筑波大学教授)は、体動や自発呼吸があり、血圧は落ち着いていたと証言」(→「和田寿郎教授心臓移植事件」) ・死亡後の和田はTVではしばしば涙してインタビューに応じていた姿が放映されている。 ・10月29日には特別番組が放映され、和田寿郎に対する「評論家・医師」の批判が放送されていたという(和田 1968:226) |
1968 9月23日吉村昭、南アに向けて出国。翌日着、バーナードは出張で不在だが、グルート・スキュール病院にて関係者に取材。(10月22日帰国) |
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その後 |
1970 年代:成績不良のため、心臓移植の症例数は増加せず * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 1979 免疫抑制剤としてサイクロスポリンAが応用 1982 米国、世界初の永久型人工心臓の埋め込み 1984 6月までに、米国で568例、ヨ-ロッパで428例の肝臓移植施行。また、485回(患者454人)に膵臓移植が行なわれた。筑波大学、膵臓腎臓同時移植. 1984 年末、腎移植、約10万例施行 1985 1月までに、世界で1280例の心臓移植が報告 1986 世界で2042例の心臓移植が報告 1988 6月までに、国際膵臓移植登録、1549例 1988 フランスで「脳死」患者に笑気ガス吸入実験/米国で「脳死」患者を生体材料とするモノクローナル抗体注入実験。年末、心臓移植、世界で通算1万例越える。 1989 島根医大で、生体肝移植( 285日間生存) 1990 米国で、世界初の生体肺移植(母から娘へ) 1992 米国でヒヒの肝臓を35才の男性に移植 1994 英国で移植用臓器生産のための遺伝子改造ブタ生まれる。(異種移植) 1996 12月第139回国会衆法第12号として中山太郎議員他によって、議員立法として提出。 1997 4月24日に衆議院で可決され参議院に送られた。参議院では、1997年6月17日に一部修正の上可決され、衆議院に回付された。衆議院では、参議院からの修正回付案に同日同意が与えられ、成立した 1997 10月16日s臓器移植法(臓器の移植に関する法律)が施行される。 1999 2月28日大阪大学チームによる心臓移植(31年後):「高知赤十字病院臓器摘出事例:22日、40歳代女性、脳卒中、十分な脳外科処置を行われぬまま、脳死判定され6日後に本邦初の「合法的ドナー」からの臓器の収穫[ハーヴェスト]となる」 2009 「臓器の移植に関する法律」が改正、いわゆるA案が通過。 |
1968 12月大阪の漢方医らによって刑事告発される。:「大阪の東洋哲学医学漢方研究会(増田公孝代表)の6人が、大阪地検に和田教授を「未必の故意による殺人罪」と「業務上過失致死
罪」で告発した。刑事告発は大阪地検から札幌地検へ送られ、札幌地検が捜査をすることになった」同上) ※増田公孝は、生没年不詳。大阪文の里の漢方医で「昔の御典医の家系でその治療所は古文書であふれかえっていました。治療はお灸や鍼の治療の後、漢方薬の処方という段取り」という鍼灸師であったように思われる(出典は、引用下線部からリンク)。 ・「札幌地検は、刑法上の殺人罪は構成しないとしながら、業務上過失致死が問えるかどうかの検討に入った。札幌地検は和田教授から事情を聴取、捜査に乗り 出すことになった。参考人として154人が聴取され、山口君の心臓やカルテなど物的証拠は553点に達した。担当したのは札幌地検刑事部長・秋山真三だっ た。捜査は長期化し、当初2カ月とみられていた事情聴取に7カ月を費やした。誤算だったのは、検事が証拠隠滅の可能性はないとして強制捜査を行わなかった こと」同上) 1970 夏に捜査が終了し、告発された殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪のすべてで嫌疑不十分で不起訴。札幌地検はこの捜査のために、3人の日本を 代表する医学者達(→「、東京女子医大・榊原仟教授、東大医学部・太田邦夫教授、京大医学部・時実利彦教授」)に、各一人ずつ1つの項目について鑑定書作 成を依頼したが、それらは終始曖昧で決断を下しかねているような論調で、すべての鑑定人に対する再聴取が必要なほどであった。 ・1970「7月27日、「和田心臓移植を告発する会」が発足。13人のメンバーには2人の元厚生大臣(坊秀男、吉井喜実)、3人の評論家(石垣純二、松 田道夫、川上武)のほか、若月俊一・佐久病院長、中川米造・阪大助教授らそうそうたる名前が連ねられていた。この会は、「患者の基本的人権の尊重に欠け、 医師の倫理に反する」として、法務委員会、医道審議会、人権擁護委員会に和田教授の事件を調査するように働きかけた」 1970年8月25日講演とシンポジウム「心臓移植と医の倫理」を朝日講堂(東京千代田区)で開催(→『和田心臓移植を告発する』1970年) 1970 9月「札幌地検は札幌高検、最高検と協議し、「和田教授を殺人と断定する決め手がない」として、証拠不十分で不起訴処分」 ・「宮崎君の心臓は移植を必要とするほど致命的な弁膜症だったのか。それを検証するための大動脈弁が他人の大動脈弁とすり替えられた可能性があった。この 「弁のすり替え疑惑」は、後に札幌地検の依頼で東大医学部病理学・太田郁夫教授が鑑定しているが、その結果、宮崎君の血液型はAB型だが、大動脈弁はA型 であった。このあまりに恐ろしい結果に、太田教授は鑑定書では断定を避ける表現に終始」(→「和田寿郎教授心臓移植事件」) 1971 10月、札幌検察審査会は再捜査を要求 1972 8月「新たな証拠がないとして再び嫌疑不十分として不起訴」 1973 3月23日 心臓移植手術の妥当性に関して日本弁護士連合会の警告を受ける。 1977 東京女子医科大学日本心臓血圧研究所外科学教授:「木本誠二(東大)とともに戦後の日本の心臓血管外科をリードし続けた榊原仟(東京女子医大)の招きで、彼の後任として」赴任。 * * * 1987 定年退職後、和田寿郎記念心臓肺研究所を開設し同所長 1988 国際心臓胸部外科学会会頭:「「第三者の告発を受けたが、宮崎君や提供者の家族から何の批判を受けなかった、さらに手術スタッフの中で誰も傷つく者が出なかったことは幸せであった」と発言(→「和田寿郎教授心臓移植事件」) 1997 6月5日和田談「臓器移植法は日本の医の心が地に落ちたことを知らしめる、世界に恥ずべき法律だ」(共同通信社 1998:17) 1997 10月臓器移植法(臓器の移植に関する法律)が施行される。 2009 「臓器の移植に関する法律」が改正、いわゆるA案が通過。 2011 肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去(88歳) |
「レシピエントの死後、それまでくすぶっ
ていた疑惑が一気に噴出した。それは胸部外科が発表したすべての事実を否定するほど多岐にわたるものであった。同大第二内科から人工弁置換術のため転科し
てきたことを隠蔽し、さらに、多弁障害ではなく、僧帽弁だけの障害で、二次的に三尖弁の障害はあるが、これらは第二内科が依頼した弁置換術で治癒の可能性
があったため[要出典]、このレシピエントがそもそも心臓移植適応ではなかった可能性も発覚した[3][4]。第二内科の教授は、少年がリウマチ熱で弁疾
患を患っていたことは認めたが、移植の必要性については否定した[3]。転科前の第二内科による診断内容と、胸部外科による診断内容は、ほぼ同時期に診断
がおこなわれたにもかかわらず相当の隔たりがあったことも疑惑に拍車をかけた。/ドナーが小樽市内の病院から札幌医科大学へ搬送された直後、麻酔科の助手
から筋弛緩剤を借りて注射し、それに抗議した麻酔医を蘇生の現場から追い出した。さらに、この麻酔医は、移植後の拒絶反応をやわらげるため、ステロイドホ
ルモン製剤の「ソル・コーテフ」(一般名コハク酸ヒドロコルチゾンナトリウム)を、通常は1〜2筒のところ10筒も大量投与したことも目撃している。この
一連の証言から、胸部外科医師団が溺水患者に対してかならずしも適切な処置をほどこしていたわけではないことがあきらかになった[要出典]。/不可逆的な
脳死を脳波平坦という事実で証明する必要があるため、移植のためのドナーには必須であると当時でも認識されていた脳波をそもそも取っていなかったり
[3]、ドナーの検視時に心臓提供者だという事実を警察に伝えていなかったりしたために、詳細な検査を監察医から受けることなく火葬に付され、死の真相解
明は不可能となった。数時間後に和田みずから、警察に連絡を取り、事情を説明したが、時間が経過していたため病理解剖はできなかった[要出典]。後の調査
では、和田がドナーとレシピエント双方の主治医を務めていたこと、また心臓外科医である彼が、専門外の脳死判定を行ったことが問題視され[5]、ドナーが
本当に脳死だったのか疑う声も出た[4]。/一方、レシピエントの死後、彼の元の心臓が3ヶ月以上にもわたって行方不明になり[要出典]、病理解剖学者の
手元に渡ったときには、検索前にもかかわらず、何者かが心臓中央部から切断しており、さらには4つの弁もばらばらに摘出されて、心臓移植適応かどうかで問
題になっていた大動脈弁が心臓の切り口に合わず他人のものの可能性があるなど不可思議な事実が次々と明らかになった[3]」「和田心臓移植事件」ウィキ) |
* * 1993 札幌医科大学衛生短期大学部を改組し、保健医療学部を設置。 2002 北海道初の高度救命救急センター設置 2004 医局廃止。新医師派遣システム始動。「医学部附属病院」から「札幌医科大学附属病院」に名称変更。 2006 附属図書館と附属情報センターを統合し、附属総合情報センターを設置。附属産学・地域連携センターを設置。北日本初の性別適合手術が行われる。 2007 全国53例目の脳死判定が行われ、全国52例目の脳死臓器提供が行われた。 2007 4月地方独立行政法人法(平成15年法律第118号)に基づき、北海道公立大学法人札幌医科大学に移行した。 2008 北海道医療大学、小樽商科大学、室蘭工業大学、千歳科学技術大学、公立はこだて未来大学、北海道新聞社、北洋銀行との連携協定を締結。 2013 日本内科学会は、書類捏造を行い「認定内科医」と「総合内科専門医」を不正取得していた、犯行当時、同大学教室所属の女性医師の資格を取り消し、永久に再受験を認めないとの厳しい処分を決めた(女性医師専門医不正取得事件)。 | * * 1983 引退(49例の心臓移植手術を経験)※この間、基金を設立 2001 9月2日キプロスの派フォスで客死(心不全) |
「和田心臓移植を告発する会」 1.坊 秀男(1904-1990) 衆議院議員(元・厚生大臣) 2.古井喜美(1903-1995) 衆議院議員(元・厚生大臣) 3.細川隆元(1900-1994) 評論家 4.石垣純二(1912-1976) 評論家・医師 5.川上 武(1925-2009) 評論家・医師 6.松田道雄(1908-1998) 評論家・医師 7.中川米造(1926-1997) 大阪大学医学部助教授 8.中川善之助(1897-1975) 金沢大学学長(法学者) 9.村山 実(1901-??) 白十字会村山サナトリウム所長 10.大渡順二(1904-1989) 保健同人社社長 11.佐久間昭(1930-2016) 東京医科歯科大学助教授 12.髙橋晄正(1918-2004) 東京大学医学部講師 13.若月俊一(1910-2006) 佐久間総合病院院長 |
[1]疑惑残し停滞の時代生む 日本初の心臓移植手術、通称「和田移植」”. SankeiBiz. 産経新聞. p. 2 (2013年11月9日). [2]札幌医大で国内初の心臓移植 「死」の判定などを巡る疑いが指摘され、日本の移植医療に影響を残す ”. 朝日新聞×HTB 北海道150年 あなたと選ぶ重大ニュース. [3]“疑惑残し停滞の時代生む 日本初の心臓移植手術、通称「和田移植」”. SankeiBiz. 産経新聞. p. 3 (2013年11月9日). |
和田寿郎に関する生命倫理学/医学倫理上の問題点と課題
1.脳死判定や脳死に基づく臓器摘出に関する基準なき時代には、和田医師は、どのように医学的記録を残し、保管し、かつ弁明すべきであったか?
2.インフォームド・コンセントの手続きが未だ未確立時代に、患者擁護のために、和田医師は、何をどこまで、試みたのかについて、周囲の者の問いかけに、どのように誠実に対応すべきだったか?
3.札幌医科大学教授会は、後に問題が起きたときに、どのようにして、疑念をはらすのかについて、公明正大な事実探究をおこなったのか? また、現今の札幌医科大学医学部(あるいは医学研究科)相当の教授会は、このことについての歴史的検証をおこなったのか?
4.「不透明な」和田移植事件により、日本の臓器移植の実施の時
期が「大幅に遅れた」(吉村 1986:254)といわれるが、それはどの程度まで言えるのか?(あるいは、文化的「遅滞」として説明できるのか?)また、仮にそうであるとしたら、和田は自分の医療倫理的責任のほかに、日本の臓器移植
の「合理的推進」にまで、その科を負うべきなのか? 彼が故人になった今、彼および「宮崎君」ならびに「山口君」を墓場から召喚して、そのことを吟味する意味があるのかどうか?について(憑
在論の観点からも含めて)考えてみる。
■クレジット:池田光穂・村岡潔「和田寿郎移植事件:生命倫理と医学的判断の検証」
■心臓移植弁手術実績(1967年)
出典:(和田 1969:89)
■世界の心臓移植の現況(1968年当時)
出典:(和田 1969:101)
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