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臓器移植における文 化概念を使った「抵抗」の隆盛と挫折そして再生について

On  Cultural Interpretations of the Obstacle of Organ Transplantation afte the Juro Wada's haert transplantation in August 1968

池田光穂

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1968年8月8日に手術が行われ10月29日のレシピエント宮崎信夫氏の死と、その後の和田寿郎に対する業務上過失致死、死体損壊、あるいは殺人の疑い の告発等がすべて不起訴として終わった1972年8月までの一連の出来事において、日本社会においては、心臓移植手術は、(1)技術の成熟、(2)手術の 適合性、(3)ドナーおよびレシピエントの人権擁護、という激しい議論と論争がおこった。
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しかし当時、臓器移植は、日本の文化にそぐわない、あるいは、日本人は臓器移植を心理的かつ文化的に「拒絶」している、という類いの説明はほとんどなかったと思われる——大阪の漢方医たちよる刑事告発も文化的抵抗ではなく現行刑法上の責任を問うものであった。

出典:和田寿郎 (1968)『ゆるぎなき生命の塔を : 信夫君の勇気の遺産を継ぐ』青河書房
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出典:和田寿郎 (1968)『ゆるぎなき生命の塔を : 信夫君の勇気の遺産を継ぐ』青河書房
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出典:和田寿郎 (1968)『ゆるぎなき生命の塔を : 信夫君の勇気の遺産を継ぐ』青河書房
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心臓移植が事実上「失敗」したにも関わらず、その後反対派が「患者の人権」という「余計な事」を言うことで「日本の臓器移植は20年遅れた」という話は、 1980年代にいわゆる「浪速大学」のニックネームを頂戴していたわが大学の医学研究科の大学院で社会医学の勉強をはじめた私の耳にも多く入っていた。臓 器移植法は中山太郎元衆議院議員らの超党派の議員立法により(参議院での修正のうえ衆議院で今度は採決ならぬ修正案の「同意」で可決成立するという)異例 の展開をとげて1997年10月16日に施行される。

出典:毎日新聞
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しかしながら、施行に先立つおよそ10数年間は、海外での脳死臓器移植を支援する市民団体や篤志家などの存在により、それに先立つ貿易収支の不均衡に由来 するジャーナリズム用語を借用して「海外臓器摩擦」と呼ばれていた。移植医療の技術的水準をマスターしていると自負する移植医たちは、臓器移植が進まない 理由を、法的な整備や、和田移植における「蹉跌」——それも倫理的透明性の欠如とインフォームドコンセント(IC)の不徹底のせいにせず——を、「無知蒙 昧」な日本社会の「迷信」として片づけて、その構造的な脳死と臓器移植に対する「抵抗」であり、身体観などの差異という文化概念による説明について深く考 えることがなかった——その意味では彼らはすぐれてデカルト的な頑迷さを持っていたのも事実だ。

出典:和田心臓移植を告発する会 編 1970 『和田心臓移植を告発する――医学の進歩と病者の人権』,保健同人社

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出典:和田心臓移植を告発する会 編 1970 『和田心臓移植を告発する――医学の進歩と病者の人権』,保健同人社
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出典:和田心臓移植を告発する会 編 1970 『和田心臓移植を告発する――医学の進歩と病者の人権』,保健同人社
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和田寿郎擁護のファンレター

出典:和田寿郎 (1968)『ゆるぎなき生命の塔を : 信夫君の勇気の遺産を継ぐ』青河書房
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しかしながら、1980年代の医療人類学という文化人類学の下位領域の北米での誕生と、日本への導入は、「なぜ日本では脳死や臓器移植が受容されないの か?」ということに、文化概念を用いてみごとに「解釈」したかのように思えた。当時の医療人類学者たちが使う——弄するというと言い過ぎであろうか——修 辞は、欧米では臓器移植が定着しつつあるのに、なぜわが国では遅れるのか?それは、身体観、病気観、死生観が欧米と日本と異なるからである。文化が違うか ら、文化に規定される身体観、病気観、死生観も当然異なる、それゆえ脳死と臓器移植が受入られないからだ、というものだった——ただし、この説明は、現在 でも定番であり、このような説明は、一時的に爆発的に「受けた!」。
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だがその直後に、すぐれたジャーナリスト立花隆の著書『脳死』『脳死再論』(1986,1988)により、立花氏が意識こそが人間の存在の根幹をなすの で、「自分は脳死概念を受け入れる」という自己決定権の行使こそがあたかも理性的な選択であるかのように主張して、状況は一転する。これは脳死臓器移植派 のあまりオツムの賢くない移植専門医のみならず自称文化人たちにとっては大いに歓迎された。
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他方、臓器の収穫(ハーベスト)が、理性的な個人の選択により可能になることはなく、(バーナードの世界初の手術のように)つねに貧者=低所得者から富裕 者へ、被抑圧民から抑圧者へ、と指摘した、初期の和田移植批判の人たちが持っていた共通の認識であるエクゾトピックな「臓器の構造的な移動の非対称性」こ そが、医療の差別構造そのものである、という学者や評論家には、立花の主張はいささか困った意見——科学的行為の合理性というレッテルがもつ粉飾性(カモ フラージュ性)——であったと言えよう。

つまり臓器移植は、「臓器の構造的な移動の非対称性」が特色とされ、それはまったく現代医療の差別構造の再生産であるという意見や、市井の人たちが持つ文 化概念による「抵抗」概念を、立花らに代表される理性的な知識人の意見がそれらを蹴散らし、あわせて当時未だ論争中であったICや患者の人権の議論そのも のも医学的議論の周縁に追いやってしまうことに貢献したのである。

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臓器移植法の最初のヴァージョンの施行まで10年間のあいだに社会医学(医療人類学)を専攻する大学院生だった私は、東大PRC(患者の権利企画委員会) の本田勝紀医師やジャーナリズムからの誘いがあり、推進派・反対派が対話する講演会討論会に呼ばれたり、またいくつかの新聞社・通信社の記事の執筆依頼に 応じた。今は廃刊された朝日新聞社刊の『モダンメディシン』(1990年2月号)に和田移植「事件」と記載したことが当時開業医であった和田寿郎から抗議 され「うちも医学界の重鎮には逆らえない」と編集者に懇願され「わび状」を私は書いたことがある——当時の私には報道を通して膾炙している「事件」の文字 を取り下げることに大きな抵抗はなかったし、晩年の和田は自分と和田臓器移植を批判的言辞するものたちに、検閲官よろしく抗議状を誰彼となく出しまくって いたそうだ——ただしそのような元権威者であった老医師を僕は愚直に非難できない。人間は誰しも過去の栄光にすがるものであり、その栄光が仮に人倫にもと るものであっても、必ず弁明するものである(例:ナチの「下等人種」を使った生体実験に関与した医師たちの法廷での証言)。

出典:北海道新聞
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だが、さらにその後の10年間に熊本大学に赴任して水俣病「問題」のフィールドワークをしたり、職場の大先達の先生方がその集まりで、「水俣病事件研究 会」に関して次のことを言われた時に、私の目から鱗が落ちた。つまり水俣病は有機水銀中毒症の病名の形をとるか、責任——つまり倫理性——を問うべき有責 企業がある以上、これは環境汚染という「傷害事件」なのであると——このことは原田正純先生の著作に何度も登場する。

■なぜピエタか?という質問には、「奇妙な果実」が答えになります!

したがって、現在では儚い「抵抗」に終わった文化概念による臓器移植の低迷の事由説明も、現在でもまだ人口比にすれば低迷(1997-2017年の20年 間で脳死下提供499件、心停止後腎臓提供1,401件:JOT-NW)を続ける「理由」に今一度再生するかもしれない。ナイーブさを遺す文化的解釈を行 う(弄する)専門家として結果的になってしまった私には、証拠に基づく(evidence-based)という科学という名で粉飾した騙りよりも、事件に ついての語りに基づく(narrative-based)理解にもとづく責任倫理の自己正当化(弁明)をこれからも続けるための教訓と語りに、この和田移 植事件は今後とも大きな意義をもつと思われるである。
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結論である。

1)私にとって和田臓器移植「事件」——五月蝿い寿郎が死去した現在では私は臆することなく限りなく反倫理的な「事件」であったと言える——は、かつては 日本で臓器移植が定着しなかった文化的理由として説明できる医療の政治的蹉跌であったが、現在では、歴史事象を題材にした生命倫理のための教訓・教材であ る。

2)和田移植を生命倫理のための教材として使う時に、現在から見れば倫理と反倫理が曖昧であった時代を、現在という時間から遡及してそれにどう立ち向かうのか、という課題に私たちに与えてくれる。

3)それは生命倫理学における歴史性というものの再考を促す重要なテーマである。私はヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」の第8テーゼの冒頭の引用を読んで、この発表を締めくくることにする。
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「抑圧された人びとの伝統は、いま私たちの生きている〈例外状態〉(非常事態)が、じつは通常の状態なのだと私たちに教えてくれる。この教えに適った歴史 の概念を私たちは手に入れなければならない。それを手に入れたときにこそ、わたしたちの課題として、真の例外状態を出現させることが、私たちの念頭にあり ありと浮かんでくるだろう」


Die Tradition der Unterdrückten belehrt uns darüber, daß der „Ausnahmezustand“, in dem wir leben, die Regel ist. Wir müssen zu einem Begriff der Geschichte kommen, der dem entspricht. Dann wird uns als unsere Aufgabe die Herbeiführung des wirklichen Ausnahmezustands vor Augen stehen....



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