奇妙な果実
Strange fruit
水俣が私に出会ったとき(部分) ——社会的関与と視覚表象—— 池田光穂
奇妙な果実1
ビリー・ホリディの歌曲における黒人のグロテスクな死体の詩的描写が、聞く人に対して人種差別への告発の感情を喚起するものであったとしたら、 ユージン・スミスによる水俣病事件をめぐる一連の写真は、事実を伝え告発するという機能を離れ、公害犠牲者に共感し反公害闘争への共感を表象する聖画(イ コン)にまで上り詰めた作品であると言えよう。もちろん水俣病事件に関する写真は桑原史成をはじめとしたプロフェッショナルあるいはアマチュアの写真家に よって今日にいたるまで夥しい数の映像が撮られており、そのそれぞれに報道写真としても意義深く、また同時に芸術写真としても格調の高いもの数多くある。 それでもなおスミスの名前を挙げるのは、単に彼がそれまでにマグナムのメンバーとして国際的な名声を獲得していた以上に、一枚の写真により水俣の決定的な 写真になったということからだ。
ウィリアム・ユージン・スミスは、ドキュメンタリー映像作家の中では極めて芸術性(つまり演出性)が高く、彼の作品が手の込んだ芸術的加工を経 て世に出される過程については比較的よく研究されている。一九一八年生まれの彼は、二〇歳の時にはすでに写真誌『ライフ』の専属カメラマンとなり、第二次 大戦中には従軍し、南太平洋における映像作品を残している[モーラとヒル 一九九九]。
ここで言う水俣の聖画とは、ユージンとアイリーン・スミス夫妻が一九七一年一二月に上村(うえむら)良子・智子の母娘が入浴する際に撮影した際 の一枚であり「入浴する母子像」——ホルト・ラインハルト・ウィンストン社の英語版[一九七五]では短いエッセー風の解説があり、表題は見つからない (5)——と呼ばれているものである。
→(5)「入浴する母子像」というタイトルの原出典については不明である。『ミナマタ』と題された英語版写真集では「入浴する母子像」とい う表題はなく、次のような解説がある。「法廷での患者側勝訴の日、(報道の)見出しに誰かが『トモコが微笑んだ日』と記した。彼女は微笑むこと以外はでき ない。彼女はたぶん(判決のことを)知ることはできまい。一九五六年生まれのウエムラ・トモコは、外見的には健康な母親の子宮の中で水銀に侵されたのであ る。彼女が自分のまわりのことを知っているのか、あるいはそうでないのか誰にも分からない。トモコはいつも(周りから)かまってもらい、決して無視される ことはない。彼女の家族は、生を受けた者は生き続けなければならないことを知っている」[Smith and Smith 1975:138]。また岩波書店刊『ユージン・スミス写真集:一九三四−一九七五』[一九九九:七三頁と三一二頁]のキャプションは「湯舟の中の上村智 子ちゃん」となっている。
この映像表象が、スミスの死後二〇年後に、著作権者となったアイリーン・スミスが上村夫婦に「写真を夫妻にお返しする」という決定をしたという ことについては、後述するが、二〇〇〇年二月二八日の『熊本日日新聞』の記者である農孝生は、この写真を次のように描写する。
「湯ぶねの中でじっと瞳(ひとみ)を開いたままの少女。痩(や)せて硬直した体を母親がいとおしむように包んでいる」[熊本日日新聞 online]。
この作品は、本章が書かれる頃に我々のもとに訃報(二〇〇〇年一二月二八日)があったアメリカの評論家スーザン・ソンタグ[一九七九]によ り、写真の構図が一五世紀末にローマで制作されたミケランジェロのピエタ像の構図と類縁的であることが指摘されている。イタリア語のピエタはラテン語の敬 虔という意味であるピエタス(pietas)より由来し、十字架から下ろされたイエス・キリストを抱く聖母マリアが悲嘆に暮れている様子を描写した礼拝の ための図像のことである。まさに「水俣から遠く離れて」、写真の背景に史実とその哲学を読みとろうとするソンタグの描写は多少とも勇み足気味ではあるが思 想的に洗練されており、その表現は優雅である。
画像はイメージです(本文とは関係ありません)
「住民の大部分(ママ)が水銀中毒で身体障害をきたし、徐々に死に近づいているという日本の水俣の漁村で、ユージン・スミスが一九六〇年代の終 わり(ママ)撮った写真は、それらが私たちの憤りをかきたてる苦悩を記録しているから私たちを感動させもするし、またそれらがシュルレアリストの美にかな う、苦悶の優れた写真であるから私たちを遠ざけもするのである。スミスが撮った、母親の膝の上で身をよじる瀕死の若者の写真は、アルトーが現代のドラマ トゥルギーの真の主題として求める、ペストの犠牲者にあふれた世界の、一枚のピエタである。実際、一連の写真はそっくりアルトーの残酷演劇の映像になるよ うである」[ソンタグ 一九七九:一一一頁]。
前節で指摘した、見るということが生みだす社会的関与という命題に関連づけて展開させるのなら、私はアントナン・アルトーよりも、自己の想像力 の臨界を鍛え直すために残酷な処刑シーンを「座右の写真」として掲げたジョルジュ・バタイユ[二〇〇一]について比較し、考察を深めてきたい気になる。し かしながら、これら両者はあくまでも「当事者から遠く離れた」状況における行為者の観想を実践しているものであり、なぜかわれわれにとってそれほど「重 く」ない。
クレジット:奇妙な果実、あるいは見ることの倫理性について(→「見ること・知
ること・関わること(pdf)」「それが、どうした?」)
文献
◆オンライン文献
熊本日日新聞「『智子を休ませてあげたい』故ユージン・スミス氏撮影『入浴する母子像』封印」(二〇〇〇年二月二八日朝刊)(http: //www.kumanichi.co.jp/minamata/nenpyou/m-kiji20000228.html)二〇〇五年一月一一日[最終 確認日]
【ご注意】
この論文の出典は、池田光穂、『水俣からの想像力:問い続ける水俣病』丸山定巳・田口宏昭・田中雄次編、熊本出版文化会館(担当箇所:「水俣が 私に出会ったとき:社会的関与と視覚表象」Pp.123-146 )、2005年3月です。引用される場合は原著に当たって確認されることをお勧めします。
リンクBillie Holiday - "Strange Fruit" Live 1959 [Reelin' In The Years
Archives]
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099