健康を希求する旅のゆくえ
Where is our health and medical tourism destiny and destination?
目次
大学紛争の嵐のなか、1968年に東大総長を辞職した経済学者の大河内一男(Kazuo Ōkōchi, 1905-1984)は、その六年 後に、来るべき日本人 の余暇にかんする一冊の書を著わしている(『余暇のすすめ』中公新書)。彼によると、余暇にはふたつの種類がある。(1)労働や社会生活から本来の「人 間」を取 り戻す余暇と、(2)社会からの本能的な反発である逃避としての余暇である。戦前・戦後の日本の労働と経済活動を見据えてきた大河内にとって、当時の日本 人の余 暇は退廃と傍観に満ちたものであった。言うまでもなく彼は「働く」意味を取り戻しそれを活性化させる前者の余暇を高揚している。
50年近くたった現在の我々の余暇が、大河内の言う本来的なものなのか、退廃をさらに突き進んでいるの か、意見の分かれるところだ。しかしながら、その余暇に支えられた「新しい観光」という社会現象そのものは、確実にそしてドラスティクに胎動している。
本稿では、健全さや安寧さを保証する「何か」が未知の空間にあるという信念に裏付けられた実践、すなわ ち「健康を希求する旅」について紹介し、この現代の多様な観光のあり方の一端を担う現象について考えてみる。
人びとが旅行したり、遠隔の場所に居住地を変えたりしたとき、その旅人や新参者はしばしば身体の不調に 悩まされる。下痢や便秘などの消化における不調から、頭痛、呼吸の障害、あるいは神経症から精神の変調まで、そのあり方は多岐にわたる。
例えば、一七六三年の暮れにコンサート・ツアーに出かけたモーツァルトは、その書簡において、パリの飲 料水の不潔さを訴え、ほとんどの旅行者が下痢になると述べている。このような下痢が、パリの水の不潔さに由来するか否かは問題となるところだが、医療者は このような経験に「旅行者下痢」という名を与える。旅先の病気は、観光地のマイナスイメージも賦与されて、例えば「デリー胃痛」「メキシコ下痢」などと名 づけられてきた。だが、それだけではない。旅行者の下痢と観光の間には、じつに多様な社会的側面を垣間みることができる。
近代医学的に診れば、それは細菌感染症、食事内容の変化、食べ慣れないタンパク質の摂取、水の硬度の違 い、あるいはストレスが原因と考えられるが、事後的にそれらのうちどれが主要因であったのかを特定するのは難しい。下痢の原因のうち、多くの旅行者にとっ てまず最初に疑われ易いのは細菌感染症である。その場合、施策者にとって観光開発を考える際に、その衛生環境の整備は欠かせない政策的課題となるだろう。 他方、観光地の人たちは、下痢のネーミングを通して「不衛生」とラベルされることをたいへん嫌うし、その正確な因果関係について調査するよう異議を申し立 てるだろう。
もっとも人びとは、そのような近代医学的な説明を完全に受容しているのではない。例えば、旅先で下痢に なったとき、それはむしろ「水があう/あわない」として説明されるたほうがしっくりいくことが多い。なぜなら、同じツアーの仲間なのに、生水を飲んで平気 な人もいれば、沸かした水しか飲まない人だけが犠牲になることもあるからだ。
長期に逗留する若者が多く投宿している途上国の観光地の安ホテルでは、下痢止めの知識に精通している先 輩格の旅行者が、その処方を新参者にアドバイスしている情景をしばしば見かける。時には、下痢を「新参者への洗礼」と称して病人に言い含めることもある。 下痢になることを通して「土地に馴染んだ真正な旅行者」である彼らの仲間入りするを果たすわけだ。
未知の土地は、猖獗(しょうけつ)の地、つまり悪いことがはびこる空間であった。その代表格は、いまま で述べてきたように病気である。蚊が媒介するマラリアの語源は、「悪い空気」であるが、これはマラリアが猖獗する土地、とくに沼沢地では、病原である悪い 空気——語感としては空気というよりもむしろ「気」に近い——が漂うという考えに由来する。
そのような、未知の土地が旅行者に病気を引き起こすという発想は、人類が短期間で大規模に移動するよう になるにつれて社会問題化する。そしてそれは、また医療による介入という事態を生ずる。例えばノスタルジーがそれにあたる。一七世紀後半にJ・ホッファー によって報告されたこの「病気」は、ヨーロッパ各地に分散していたスイス人傭兵のあいだで見られた抑うつや食欲不振を基調とする、今で言えばホームシック である。だが、当時ノスタルジーは正真正銘の病気だった。その百年後も、フランスの偉大な精神医学の改革者であったP・ピネルがこの病気を記載している が、それは相変わらずの精神の病いであった。ノスタルジーが病気と見なされなくなったのは、十九世紀も終わりになってからである。
旅の動機として、癒しを求めたり、身体を快適にしたいということはひろく世界中にみられる。
古代ローマにおいて公衆大浴場を利用する習慣は、ローマ人がその領土を広げるにつれてヨーロッパ中に広 まった。そして浴場は、病気療養のための場であると同時に、くつろぎの場でもあった。現在のヨーロッパにおける温泉の利用を見ても、それは飲泉、水治療、 日光浴などの施設、病院、公園や劇場などの文化施設を含む総合的な空間となっており、魅力ある旅の目的地となっている。 他方、山村順次教授によると、わが国の温泉地の起源は、七世紀の舒明天皇の有馬への行幸と入湯、八世紀の僧である行基(ぎょうき)による病人療養のため の湯治場の整備あたりにある。一二世紀の終わりには、すでに薬湯の方法が知られ、それを湯治に応用することが僧侶たちによって考案されていた。江戸時代中 ごろには漢方医の後藤艮山(こんざん)とその弟子たちが入浴法について説いており、湯治は民間療法としても、かつ漢方の正統的な治療としても一定の支持を とりつけていたと思われる。その時点では名声の確立した温泉が各地にいくつもあり、広く人びとの関心を引きつけていた。
また、癒すということをより広義に解せば、世界各地で古くから行なわれている巡礼も、健康を希求する旅 として位置づけらよう。さらに、宗教的な動機と治療的な目的が一致する巡礼の形態もある。古代ギリシャのエピダウロスにあった医神アスクレピオスの神殿で は、巡礼にきた病人たちが神殿の背後にあるお篭り所で宿泊し、夢見のなかで神の恩寵を受け治癒を授けられたといわれる。発掘調査から神殿の周りには病室や 鉱泉浴場などが整備されていたことがわかっている。南フランスのルルドでは一九世紀半ばに、洞窟内にいた少女に聖母があらわれ、病気治療の聖なる水がわき 出たと言われている。そしてルルドは現在では、年間二百万以上の病気治療を願う巡礼者の信仰をあつめている。信仰を同じくする病人を受け入れるルルドの環 境そのものは、宗教的治癒を可能にする立派な空間なのである。
癒しを求める旅は、まさに病気の治療という切実な動機に裏付けられていた。しかしながら、旅行先の土地 に対する人気が上がり人びとが集中するようになると、病気治療という主目的は徐々に後退し、日常性からの解放や快楽を求めることに人びとの関心が移り変 わってゆく。
例えば、イギリスのバスはローマ時代から知られた温泉地であるが、一六世紀の末から一七世紀ごろには、 各地から病人たちが集まり活況を呈した。このような、温泉のある内陸の保養地が一七世紀のイギリスではいくつも発達したが、この隆盛の背景として、医師た ちが温泉(または鉱泉)療法を喧伝し、それが人びとの間でブームとなったことが挙げられる。しかしながら、次の一八世紀になるとイギリスの内陸の温泉地 は、上流階級の社交場あるいは歓楽地と化してゆく。では、療養のためのリゾートがなくなったかというと、そうではない。その場所が変わったのである。次の ターゲットは海岸であった。
その好例がイングランド南岸の町ブライトンだ。海水療法(ウオーター・キュア)を人口に膾炙させたリ チャード・ラッセルは、一七五四年ここに居住し、その療法にもとづいた療養所を開設した。ここでは、それに先立つおよそ二〇年前ごろから病気療養として海 水浴が行なわれていたが、ブライトンを一躍有名にしたのはラッセルの名声による。またもや、「医療的効果」が人を夢中にさせたのである。この海水療法と は、海浜の空気を呼吸し、海水を飲み、また海水につかることによって何らかの医療的効果を期待することである。フランスの医師ラ・ボナディエールは、一八 六九年にギリシャ神話で海を表わすタラサと治療(テラピ)を合成したタラソテラピ(海治療)という用語を提唱している。
このような発想は、もともと海を生命力の源泉とみなす神話や民話などに由来する。しかしながら今日で は、生物の起源としての海という考え方が受け入れられ、人間の体液と海の組成の類似が指摘されるといった、科学の権威づけによって、海の治癒効果がひろく 信じられるようになったのだ。
どこでも最初に療養地としてのリゾートにフォーカスが当てられるが、やがて宿泊所や社交場といった受け 入れ環境の整備が行なわれてゆく。一九世紀のイギリスは、そのようなリゾート利用者の幅を王侯貴族といった上流階級から新興富裕階級の人たち、すなわち産 業革命で富を得たブルジョアジーの間に広げていったのである。さらに「健康を希求する旅」を大衆のもとに開放させたのは、産業革命後に起こった余暇時間の 利用に関する一連の社会運動、あるいは交通機関や旅行業の発達といった「余暇文明を担う下部構造」の変化による。このようにして、一九世紀の最後の四半世 紀には、イギリスの労働者階級までがリゾートにおける保養を享受できるようになった。
健康を希求する旅のみならず、観光そのものが大衆化してゆくと、それぞれの階級の人たちは、時を同じく してワンランク上の階級のリゾート体験を指向する傾向が高まるようだ。そして、労働者階級に普及した健康を希求する保養への指向も、ほどなくして彼らのワ ンランク上の階級が夢中になっていた娯楽や歓楽へとシフトしてゆく。リゾートの大衆化は、それがもともと担っていた療養や保養の機能を奪い、むしろリゾー トを非日常的な歓楽を主とする空間に変えてしまった。このような傾向は、イギリスだけでなく、日本の温泉保養地の発達にも指摘できる。
わが国の温泉湯治の歴史の古さは先に指摘したとうりだが、それを近代的な意味で保養地=リゾートとして 意味づけるようになったのは明治時代以降である。東京医学校(後の東京帝大医学部)にお雇い教師として招かれた内科医E・フォン・ベルツは、草津、伊香 保、熱海などの温泉の効果について研究し、それをヨーロッパに紹介している。彼の母国ドイツでは、すでに温泉の科学的分析が化学者R・フォン・リービッヒ らによって行なわれており、温泉の科学的効用は広く認められていた。近代日本における保養地は、まさに近代医学による保証と権威づけによってスタートし た。
その後、昭和初期の一九三一年に公布された国立公園法において、内務省衛生局がそれを所轄することに なったが、その法の意義も公園の自然環境が国民にとって「保健的」であることに重点がおかれていた。ところが、第二次大戦後は、四九年の国際観光ホテル整 備法などを通して、観光がさらに大衆化するなかで、その中味は湯治・保養から歓楽に大きく移り変わる。とくに、大都市近郊において比較的大きな温泉地とし て名声を確立していたものに、そのような傾向がみられ、現在でもその伝統を引き継いでいる。温泉は、その効用を近代医学からお墨付きをもらって出発した が、交通の整備が進み温泉地に湯治客が集中するようになると、その効用は娯楽の提供といったものに変わる。この現象は、湯治客が病人から一般の人びとに大 きく広がっていったことの、当然の帰結であると言えよう。
近代社会成立のなか病気が病院で取り扱うものと見なされてゆき、土地が病気を引き起こしたり、反対に土 地が病気を癒したりするという考えは次第に薄れていった。しかし、それは旅そのものの「癒し」の機能が完全に失われたことを意味するのではない。目的地そ のものには治癒力こそないが、旅をすることは、それ自体で「楽しみ」となろうし、精神衛生における治療効果があると言えないこともない。失意から逃れる 旅、気分一新の旅における効用は、誰しもが認めることなのだ。人びとは、土地そのものに潜んでいたと思われる治癒力の信仰は捨てたが、旅の治癒効果への信 頼を完全に捨てたわけではない。
失意の猫(本記事の内容とは関係ありません:イメージ図)
現代では健康の象徴的な地位が向上するとともに、観光における<歓楽>指向の傾向から<健全さ>あるい は<快適さ>へとシフトしつつある。実際、リゾート地で健康なスポーツに興じたいと希望する人口は増加している。ただ、それはかつて人びとが旅に希求した ように、療養や治療が主眼になっているのではない。むしろ、健康の維持促進やレクリエーションとしてのスポーツが望まれている。また都合のいいことに、ス ポーツが健康維持のために役立っていると、現代医学の基本的な意見は一致している。そのようななかで、いったいどんなことがおこっているのだろうか?
言うまでもなくゴルフ、テニス、スキーなどのありきたりのスポーツでは、もはや人びとは満足できない。 先進的なリゾート地では、そこでしかできないスポーツを売りものにしたり、観光とスポーツを見事にドッキングさせている。
実際、日本のみならず海外の各地で開催される市民マラソンやジョギング大会への遠方からの多数の参加 は、集客産業としての観光の新しい側面を象徴している。この「ジョギング観光」は一見特性のない印象を与えるが、路傍の風景をそのまま利用し、既存の道路 の交通を整理するだけで、その土地をジョギングに適した環境に早変わりさせる点で、どのようなリゾート開発にくらべても画期的でゲリラ的なのだ。このよう な等身大の観光開発において、より重要な点は、その開催を通して、その土地が「健全な土地」であると人びとに印象づけることに成功していることにある。
さらに、今日の交通機関を含めたコミュニケーションの世界的な発達において、きわめて異色な旅行が「開 発」されるに至った。「臓器移植ツーリズム」である。これは臓器の調達が困難な、あるいは移植そのものができない地域の人びとが、移植手術を求めて海外に 渡航する現象である。わが国では、乳幼児の肝臓を求めてオーストラリアに、成人の心臓や肝臓を求めて欧米に、そして腎臓をもとめて近隣の第三世界(?)へ と、旅立っている。もっとも、これは実数としてはきわめて僅かであり、旅行産業を形成するに至っていない。旅行という「実体」よりも、むしろ「象徴的現 象」なのである。かつて海外の国々との間に貿易摩擦ならず「臓器移植摩擦」を起こすと指摘された。
しかしながら、より高度な医療を求めて人びとが旅立つことはとくに珍しいことではない。産油国や第三世 界の上流階級の人びとが、先進国で高度医療や臓器移植を受けるこのような現象は、メディカル・ツーリズムとして、わりに以前から指摘されていた。歴史的に も王や貴族あるいは、権力者たちは、名医や良薬を求めて旅立ったり、使者を派遣してそれを求めてきたと思い起こせば、取り立てて奇異な現象ではないことが わかるだろう。
現代のリゾートにいる人間を私はこう名づけたい。船渠(せんきょ=船のドックのこと)の中の人間だと。病院の人間ドックに入ったことの ある人ならばすぐにお分かりであろうが、そこでは医療者の取り扱いはおおむね丁寧である。それは一般の定期健康診断に比べてみれば歴然としている。なぜな ら、人間ドックは健常者を対象にした健康保険の対象外の診療活動であり、収益性の高い事業だからだ。ドックを受けるのは患者の「○○さん」ではなく顧客の 「○○さま」なのである。そこでは、顧客のとり扱いは「もてなし」が基調となる。
もともと人間ドックは、代議士や財界人がゆっくり骨休めを兼ねて入院したのが嚆矢とされている。それ が、やがて一般のサラリーマンや主婦にも普及するようになった。面白いことに、健康を希求する旅行者が現在高級リゾートに期待することも、もてなしを基調 としながらも、ゆっくり骨休めできるような環境なのだ。そして、良好な環境のもとで健康を成就するようなスポーツやレクリエーションが希求されている。人 びとの願望をさらに代弁すれば、そこでは他人がするものとは少し異なったユニークなスポーツ——もっと欲ばれば「料理」や「もてなし」においてもユニーク なもの——を享受できれば、それは最高のリゾートとなる。「健康」は古くから人びとが希求する信仰のシンボルであった。そしてそれが現代の新しいの信仰の シンボルである「観光」と結びつくことによって、健康を希求する旅は、今後ますます人気を高めてゆくだろう。
冒頭に触れた大河内の「ふたつの余暇」について、ここで再び思いを馳せてみよう。「働く」意味を取り戻 すための<保養>の概念は、時代とともに衰微してゆき、やがて大学者を嫌悪させる<歓楽>が蔓延するにいたった。しかしながら、その次にやってきた<快適 さ>は、現代人にとっての至上価値である「医学に裏打ちされた健康」と密接にリンクすることによって、<保養>と<歓楽>を併せもつ空間の中に漂っている のだ。それが、現代のリゾート=船渠(ドック)なのである。だが、ドックを出たその先の航海にどのような天候が待ち受けているか、我々は未だそれを知らな い。
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文献
この論文のキーワード:観光人類学、
ヘルス・ツーリズム、メディカル・ツーリズム、健康論、身体論、民間医療
初出:池田光穂、 医療観光論序説—健康を希求する旅のゆくえ,中央公論,1992 年7
月号,pp.251-256 ,1992 年7 月