はじめに よんでください

現代不老不死論——脳死・臓器移植問題を考える(1993)

"We do not need eternal life, but mindful one"

池田光穂

臓器移植と脳死をめぐる論争において、‘文化’とい う用語がいささか抽象的な装いで頻繁に使われるようです。しかし、‘文化’とは個々の人間集団の行動や思考におけるいろいろな事例を通して考察されてきた ものであり、常にこの原点にかえる必要があるのではないでしょうか?

そこで私は、臓器移植という技術とその思考が私たち に及ぼした影響を‘身体観’という視点から考えたいと思います。身体観とは、人間が‘からだ’というものを、どのように感じ、どのように取り扱い、どのよ うに考えているのか、ということをまとめたものです。その際に注意しなけばならないことは‘身体観’というものの多様性です。ある特定の個人に由来するも の、ある社会で共有されているもの、人類のかなりの部分で共通といえるもの、などの広がりがあり、個人の発達段階や経験を経たもの、さらには時代の変遷な ど、身体観には考えられる限りのものがあります。

私は、‘臓器移植を成り立たせている身体観‘と‘そ うではない身体観’を対照しながら考察しますが、このような発想はお互いには共存することができないというわけではありません。現実にはこのあいだに多く の人々はいるわけですし、多様な身体観が共存しているからこそ、今日のような身体観の見解の違いについての論議もでてくるのだといえます。

‘臓器移植を成り立たせている身体観’とは、端的に いうと‘臓器を生体の部品としてみる’機械論的な身体観です。その発想の今日的な基礎をつくった思想家の名にちなんでデカルト的な身体観ともよばれます。 ある病気には必ず特定の原因があり、それが因果性をもって証明されるという「特定病因論」や病気の原因を臓器レベルで考える「臓器還元主義」はまさに、臓 器移植や人工臓器には無くてはならない発想です。つまり、壊れた機械の部品を交換するように(同種、異種、人工の)他の臓器を代替として使用するもので す。このような身体観は医療従事者の共有する独特の考えではなく、臓器を‘血液をつくる工場’‘栄養を吸収する機械’といったイラストで表現されるような 子ども向けの書物にもみられ、一般にも広く知られています。

臓器移植はしばしば「臨床的に確立された技術」と解 説されますが、現実の身体はそのような技術を成り立たせている発想である<臓器=部品>という取り扱いに完全になじんでいるわけではありません。事実よく 話題にのぼるように、移植臓器の定着を促す免疫抑制剤の使用が、免疫という生体の防御反応を破壊するという現象があり、それらは言わば‘あちらをたてれ ば、こちらがたたず’というトレードオフの関係にあります。また医療システム全体のことを考えず移植技術そのものが自己目的化するという現象(これを‘バ ロック的技術’と称します)に対する反省もでてきました。

他方、‘移植の発想がない身体観’として、中国の伝 統的な医学にその例を求めることができます。中国医学(その日本的展開は‘漢方’と称されますが)の中心概念は‘気’であり、人はそれぞれに‘気’をもっ ているものとされています。また、臓器をふくめたからだ全体に経絡という通路が張りめぐらされており、からだ全体に‘気’が充実すべく循環していると言わ れます。経絡には切れ目がなく、鍼灸ではツボを刺激しますがそれは出発点であると同時に終点でもあると見なされます。つまり個々の臓器は単独で存在するの ではなく、全体を構成している部分であると同時に、全体と通じている点でからだそのものであると、言うことができます。この論理は、臓器=部品観からする と容易には想像できない考え方ですが、この医学の体系における思考法からみるとあながち奇妙な発想とは言い切れません。この中国医学における全体性を強調 する見方は、診察の際に患者の全体像をいかに把握するかということに関しての詳細な観察(例えば、望・聞・問・切という四診など)が要求されることと無縁 ではありません。

鍼灸医療に携わっている人たちに質問したことがあり ますが、治療としての臓器移植を想像することは‘想像もつかない’異質なことだと言われました。もし仮に中国医学的な発想でそれを理解すると、はたして移 植した臓器(人工臓器も同様)に‘気’がめぐるだろうか?と、いうことが問題になるということです。また、近代医学のいう究極的な臓器不全という考え方に も馴染にくいようです。なぜなら臓器の完全な不全状態は、臓器すなわち全体の崩壊を意味するからです。ここで強調しておきたいのは中国医学が西洋医学に比 べて‘臓器移植’について、決して遅れた発想ではないということです。‘移植’という発想が生まれなかったのではなくて、中国医学の理論においては論理的 に有り得ないことなのです。

‘臓器提供を拒む身体観’というものも、しばしば話 題になります。つまり伝統的に遺体に対する損傷を嫌う、ということが移植を阻む思考法ではないかという説明です。中国にいた19世紀のイエスズ会の宣教師 たちは、洗練された医学体系があるにもかかわらず、解剖学がなぜ発達しなかったのかということにたいへん頭をいためました。かれらは、その答えとして、中 国では儒教と言うものがあり、両親から受け継いだ身体をそれによって損なうことを畏れていると西洋に宛てた手紙に書いています。また中国では、歴史的に刑 罰において遺体を著しく損傷する方法が発達したことにも触れ、中国人は「ひとの恐れるのは正確には死そのものではなくて、死にかたなのである」とも述べて います。

このように、移植技術の発達には移植というものを可 能ならしめる発想とどうも深い関係があるようです。しかしながら、このような極端な対比は、実はあまり現実的ではありません。特定病因論が主流であるよう にみえる西洋近代医学にも、身体をひとつの全体としてみる‘全体論’が全くなかったかというと、そうではありません。近代医学を歴史をみても、「還元論」 の論理で説明できないところには、必ずと言ってよいほど「全体論」で説明しようとする学説が登場します。‘ホメオスタシス’の発想やホルモンの考え方、あ るいは近年における心身医学の発達は、還元論と同様に近代医学におけるもうひとつの大きな‘伝統’であるといえます。

また臓器=部品観すなわち臓器還元主義を受け入れた かのように思える米国の人びと(すべての人びとではありません)においても、供与者の臓器が他人の身体のなかで「生き続ける」と感じ、脳死体の二つの腎臓 を分けあった患者どうしに「兄弟・姉妹に似た感情」が芽生え、提供を受けた臓器を「命の贈り物」として理解することなど、臓器を部品ではなく実体のこもっ た全体として見ていることが報告されています。そして、言うまでもなく現代中国では近代医療が普及しておりますし、臓器移植もおこなわれていると聞きま す。そして鍼麻酔手術と同様に、移植後の患者の血液の循環を良くするために中国医薬や鍼灸を利用するといった技術的応用を考えることは決して不自然なこと ではありません。

臓器移植という‘技術’は、それを支持する人びとや 体制のなかで‘思想’として受け入れられることによってはじめて定着するような気もしますが、技術が先にやって来て、思考や感覚があとから形成されること もそれと同様に多く認められています。従って私は、身体観の違いが移植を妨げる重要な要因であるとは思いません

しかしながら、‘技術’と‘それを支える思考’の関 係は、一方向だけに影響を与えるものではなく、むしろ相互に作用を及ぼすものだと思います。そして、この身体観について議論するときには、身体についての ‘技術’とそれを支える‘社会’の関係がしばしば問題となります。ある社会である人が置かれている‘からだ’の状態は、その人が置かれて社会関係をまさに ‘体現’するといわれます。懲罰には身体が束縛され監視されますが、そのなかに‘監視するもの’と‘監視されるもの’の権力関係を見ることができること は、しばしば指摘されています。そして、そのことは逆に世の中のいろいろな人間の諸関係のあり方を知るには、その時代・社会の‘からだ’がおかれている状 況を観察し考察することが肝要であると言えます。

そのように見ると、臓器移植をはじめ‘脳死状態’に おいて近代医療の患者が受けている処遇は、現在の医者−患者関係が最も強烈に反映される場であることは明かです。すなわち、医療者による患者への管理の強 化、情報の独占、社会的な権力関係の再確認など、今日の‘医療問題’として広くマスコミなどで取り上げられている現象が、脳死をめぐる患者の‘からだ’の 取り扱いのなかに鮮明に浮かび上がります。例えば、移植という治療手段が・・・このようなことは、通常の臨床的出会いではなかなか起こりにくいと思われて いますが、医療訴訟や移植論争といったクリティカルな場面ではしばしばそれが表面化します。

特に、移植推進派が‘患者の救命’を声高[コワダ カ]に主張するあまり、移植の失敗について十分に語り尽くしていないことは、医療者サイドの情報の独占と管理が相変わらず続いているという我々の危惧を増 幅させます。またマスメディアにもその責任の一翼を担っていると思いますが、臓器移植の成功例ばかりが強調され、失敗(もちろん失敗をどのように定義する かにも関係しますが)がどのような転帰をたどるのかについての情報が不足していると、私は感じます。それがひいては日本における臓器移植の‘リアリティの 欠如’につながっているのではないかと思います。臓器移植手術において失敗の可能性は避けられません。まして日本はその経験が少なく、最初から欧米なみの 成功率が確保できるとは限りません(もしそうなれば、それに越したことはなく、またそれ自体で研究に価するものですが)。最初のケースが成功しようが、失 敗しようが(そして、訴訟されようが、されまいが)、医療集団は手術の正当性の根拠を明白に主張できることが不可欠です。そのためには、移植がどれだけの 効用があるのかというだけではなく、どれだけのデメリットがあるのかという点も同様に強調する必要があるのではないかと思います。わが国は移植の「後進 国」であると主張し、それを嘆く声もありますが、移植の「先進国」での成功・失敗という豊かな経験を活かせないと、いつまでもその「後進性」に苦しむこと になるのではないでしょうか?

これはコミュニケーションの伝達の姿勢や理解にも関 与します。例えば「5年生存率は○○%」と医療者が説明する際に、一体その5年が患者や普通の人にとってどんな意味をもっているのか配慮した一般向け説明 は管見の及ぶ限りありません。また、‘脳死’患者と同様に移植後の患者の「生命の質」(QOL)がしばしば問題となりますが、移植後どのような生活が待っ ているのか、もっと具体的には「おなじ家庭生活や職場に戻れるのか?」という患者や一般の人びとにとってリアリティのある言葉で説明する努力は一層重要に なるのではないでしょうか?

脳死や臓器移植という‘技術’を受け入れるか否かと いう論争において、このような医療全体がはらんでいる問題を取り上げるのは一見奇妙にみえます。しかし、その‘技術’を運用するのは他ならない我々の社会 における医療なのですから、この際、利用者にとって都合の悪い点はどしどし改善してもらい、人びとにとって‘信頼のできる’医療を実現できるよう私たちは 要求したいとおもいます。

【主催者側が私に三つの質問をしていますので、それ にたいして私個人の見解を述べたいと思います】

Q.脳死は個体死と考えますか?

A.問いを「脳死は個体死であるという意見を支持し ますか?」と理解して答えますと‘いいえ’。

多くの人々にとって‘死’は生物学的な説明以上の意 味をもちます。死が文化的社会的な現象であるといわれる所以です。さらに、ある特定の個人の‘死’をめぐっても、その人が‘死んだ’と感じるのにも個人差 があるのではないでしょうか? 脳死を個体死と認めるか否かという調査においても、その意見は分かれていますが、現実にある人の死と直面したときに、その 人の死の定義がそれまでの見解と異なるとも限りません。医療従事者になろうとする学生たちに質問すると「自分は脳死判定で死と宣告されてもかまわないし移 植にも賛成である、しかし自分の家族にはそれを認めたくないし、臓器提供にも同意できないだろう」いう答えがよく返ってきます。このような論理上の矛盾が ある限り、脳死は個体死であるという主張を全面的に認めることはできません

質問を「あらゆる脳死は個体死ですか?」と理解する と、むしろ‘分かりません’と答えるほうが正直かも知れません。

Q.どのような形で遂行される移植であれば医療とし て良いと考えますか?

A.現在の近代医療システムにおける排外的な独善性 が<解体>されたとき、と言えば真面目に答えていないことになるでしょうか?

Q.日本人が移植を受けるために海外へ出かけている 現状をどのように考えますか?

A.ナイーブな言い方をすると‘大変ショッキング’ です。しかし冷静に考えてみますと、次のようなことに気づかされます。すなわち、

(a)日本国内には我々の利用可能な‘臓器資源’が ない。(b)我々にも利用可能な‘臓器資源’が海外にある。(c)それを望み、一定の条件[例えば、医療機関への照会、資金の調達、支援グループの存在な ど]がそろえば、それを現地で手に入れることができる。(d)入手した臓器を日本にもって帰ることができる。(e)人道的な手続きをふめば、そのことが直 接的に非難されることは少ない。

つまり、海外で移植を受けそれが社会的に容認されて いる(されたかのように見える)現状とは、このような幾つかの条件が重なってはじめて可能になったと理解できると思います。このような社会的条件が日本に そろったことが、移植の事実よりもさらに‘ショッキング’です。なぜなら、もはや移植は「国内の特殊な問題」ではなくなりつつあるからです。しかし、第三 世界に住む金持ちでも先進開発国にでかけて高度な医療や臓器移植そのものを受けることがあるわけですから、問題そのものをすべて日本の特殊事情に還元でき るとは思いません。

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現代不老不死論(このページ)
カントとヤクザと臓器移植
臓器移植における文 化概念
和田寿郎移植事件
オプト・インとオプト・アウト峻別法
オプトイン/オプトアウトの違い
健康を希求する旅のゆくえ
医療人類学の誕生
医療と翻訳の間には
ヤクザと臓器移植
よくわかる医療社会学』
デザイナー・ベイビー
コミュニケーション・モデル
医療倫理学
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