はじめによんでください
ケイパビリティ・アプローチにおける動物の範疇化の失敗について
We
cannot think as thou, the animals,
may think...
Santa Lucía de Siracusa, pintor Francesco del Cossa (c. 1430 – c.
1477)
AIU(キャンベラ)でおこなわれたタンナー(ターナー)講義の、ヌスバウム、マーサ「「同情と慈愛」を超えて」『正義のフロンティア』神島裕 子訳、 Pp.371-463、法政大学出版局、2012年は、ケイパビリティ・アプローチという観点から、「動物」の尊厳ある命(と生活)を保障すべき、人間側 への提言としては、非常に力強いものである。しかし、彼女が擁護すべき「動物」の範疇とは、ライオン、犬、ヘラジカに加えて、ミミズや蚊などが含まれる。 しかしながら、依然として、そこでケイパビリティに基づく擁護の前提になっているのは、脊椎動物のうちでも主にほ乳類がその「想定される動物」である。も しかりに、あらゆる動物が包摂されるなら、それは種の多様性を前提にする生態環境の擁護概念に結びつくだろうか?もし、そうだとしたら、今度はケイパビリ ティ・アプローチを植物にまで拡張しなければならなくなる。このような混乱が生じるのは、彼女が動物という時に、じつはどのようなものをケイパビリティ・ アプローチで擁護すべきかの前提ないしは「モデル動物」(=私の邪推では、脊椎動物のうちでも主にほ乳類)があり、それに基づいており、そのことを読者に きちんと明示せずに、御自身の議論を展開されているからである。
我々が動物という時には、さまざまな階層化(下記を参照)がなされており、彼女の議論に我々自身が隔靴掻痒感をもつのはそのことによるものなの だろう。
我々が(人間以外の)動物の思考を、彼らが思うよう(as they may think)には、考えることができない。(→「パースペクティヴィズム」)
我々の認識の範囲が、我々の思考の範囲である。――「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する(Die Grenzen meiner Sprache bedeuten die Grenzen meiner Welt)」ウィ トゲンシュタイン『論理哲学論考』5.6
それは可能だというのが:一人称知識の復権(ジョン・サール)である。
◎プロジェクト:「動物学者と動物の科学民族誌」2014年度
〜2016年度挑戦的萌芽研究(研究課題番号: 26560137)
◎ウィトゲンシュタイン『哲学探究』と動物:http: //www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
25. 人はときに、動物が話さないのは、彼らに精神的な能力が欠如しているからだ、と言う。つまり、「動物は考えない。ゆえに話さない」というわけだ。だが、動 物は [考えないから話さないのではなく] まさに話さないのである。より正確には、動物は ―― 原初的な言語形態を無視すれば ―― 言語を使用しないのである。 ―― 命令する、質問する、数える、雑談するなどの言語行為は、行く、食べる、飲む、遊ぶなどの行為と同様に、私たちの自然史に属しているのである。
495. 明らかなことだが、ある人間(または動物)がある記号に対して私が望むように反応し、他の記号に対してはそうしないということを確認できるのは、経験に よってである。例えばある人が「―→」という記号に対しては右に、「←―」という記号に対しては左に進むが、「o―|」という記号に対しては「―→」とい う記号と同じようには反応しない、等々。/そう、私はどんな事例も考え出す必要は無く、ドイツ語だけを学んだ人間は、ドイツ語を使うことでしか操れないと いう現実を考察すれば足りるのである。(なぜならいま私は、ドイツ語の習得者であるということを、ある種の影響に対するメカニズムの調節と見なしているか らである。だから、他の人がドイツ語を学んだのか、あるいは生まれつきドイツ語の文に対して、普通の人間がドイツ語を習得した場合と同じように反応するの かどうかということは、気にしなくてよいからである。)
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参考文献
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