実践知の世界
El Mundo de la practica
田辺繁治『生き方の人類学』講談社・現代新書[→文化人類学、はじめの一歩;人類学の最前線]ノート(→読みづらい方はこちらへ)。実践知とは、人が与えた現場で適切な判断をくだ すことができる認識と能力の総体のことである(→「実践知とはなにか?」)。池田光穂>総 合案内所>授業案内>文化人 類学はじめの一歩/人類学の最前線>生き 方の人類学>このページ
彼らはそれを知らない、だが、実際に彼らはそれをおこなっている——カール・マルクス(Karl Marx, 1818-1883)
【第一章】実践知の系譜
【1】この章では......
・まず三分類(アリストテレスの——)
〈プラークシス〉:実践:それ以外の仕方においてもありうる 〈テオリーア〉:学問的観想:真理*に関わる[真偽に関わる知] 〈ポイエーシス〉:技術的・技芸的な制作活動:それ以外の仕方においてもありうる |
1.実践知のルーツ
- 〈プラークシス〉:実践:それ以外の仕方におい てもありうる
- 〈テオリーア〉:学問的観想:真理*に関わる [真偽に関わる知]
- 〈ポイエーシス〉:技術的・技芸的な制作活動: それ以外の仕方においてもありうる
*真理=真理とは、「それ以外の仕方ではありえない」もののことである。
*それ以外の仕方でもありうる=さまざまな選択や思慮をめぐらして行われる活動。それ が、 〈ポイエーシス〉と 〈プラークシス〉の領域である。
・ポイエーシスとプラークシス
〈ポイエーシス〉:制作する人の好意自体の中に目的はなし
〈プラークシス〉:それをおこ なう人の人格と一体となったもの:倫理的な卓越性(アレテー)が込められる。
※【質問】ところで、人格とは人にやどるものなのか、それとも人が生み出した結 果なのだろうか?
■自由な市民【7】
・〈プラークシス〉=一切の労働から解放された自律的で 自由な市民が、言説と討議をもっておこなう都市国家(ポリス)の公共的な活動であり、政治的活動そのもの。・〈ポイエーシス〉=建築、錬金術、醫術、占い、 呪術/〈キネーシス〉に属する技能(テクネー=技術知)
テクネーは、西洋近代的技術のことではない。
・「テクネーは西欧近代の技術概念とは正反対であり、あくまで自然あるいは素材 に潜在する力を巧みに引き出して利用する、限界をもった活動」(p.33)。
※古代ギリシャの自由人は、自然に働きかけて力を引き出すというこのテクネーと いう行為を蔑んでいた(→近代における〈労働〉の概念と著しく対比をなす)。
■メティス(策略知=狡知[こうち])【10】
まず、プラトニズム批判をとおしての〈知〉のあり方の復権という学問的文脈が登場す る。
(→煎じ詰めれば、ヴィーコやヘルダーが主張した知のあり方へと繋がる)
・醫術、航海術、軍事戦略、修辞学、職人の技芸、政治戦術
・メティスは「巨大な力に対抗して変転する状況に繊細かつ機敏に対応し決断する知性 であり、最小をもって最大を支配し圧倒するソフィスト的能力でもある」(p.34)。
[→技能巧みなサーファーを想起せよ。サイバネティクス、サイバーパンク]
・論理的な推論ではなく、勘やコツによる近似的な推論行為
■プロネーシス(知慮 practical wisdom)=本書では〈実践知〉としている【13】
・『ニコマコス倫理学』第6巻に登場。(→「ニコマコス倫理学」Nicomachean Ethics)Book VI: Intellectual virtue
〈プロネーシス〉=「「人間にとっての諸般の 善と悪に関しての、ことわりを具えて真を失わない実践可能の状態」にある知的構え」(p.36)。
"Book VI of the Nicomachean Ethics is identical to Book V of the Eudemian Ethics. Earlier in both works, both the Nicomachean Ethics Book IV, and the equivalent book in the Eudemian Ethics (Book III), though different, ended by stating that the next step was to discuss justice. Indeed, in Book I Aristotle set out his justification for beginning with particulars and building up to the highest things. Character virtues (apart from justice perhaps) were already discussed in an approximate way, as like achieving a middle point between two extreme options, but this now raises the question of how we know and recognize the things we aim at or avoid. Recognizing the mean means recognizing the correct boundary-marker (horos) which defines the frontier of the mean. And so practical ethics, having a good character, requires knowledge." -Nicomachean Ethics .
・「プロネーシスこそはプラークシスを支える実践 知である。・・・・プロネーシスは正しい目標をめざす倫理的卓越性とその目標に臨機応変に到達する技法の 結合である」(p.36)。
"Practical Judgement (Phronesis). This is the judgement used in deciding well upon overall actions, not specific acts of making as in techne. While truth in techne would concern making something needed for some higher purpose, phronesis judges things according to the aim of living well overall. This, unlike techne and episteme, is an important virtue, which will require further discussion. Aristotle associates this virtue with the political art. Aristotle distinguishes skilled deliberation from knowledge, because we do not need to deliberate about things we already know. It is also distinct from being good at guessing, or being good at learning, because true consideration is always a type of inquiry and reasoning." -Nicomachean Ethics .
・倫理的卓越性(アレテー)という徳: プロニスモ=知慮ある人
※「プラトニズムによって過度に純化されたプラークシスを修正し、メティス的な プロネーシスが実践の核心にあるという考え方を導入していた」(37頁)という発言は、田辺の勇み足か?
・メティスとプロネーシスの関係についての田辺の見解(p.37)。
・〈ソープロシュ ネー〉(節制):よく生きること=正しくおこなうこと。後期フー コー流に言うと、「節制をわきまえ、自らを統治できる自由状態をそなえた主体の一つの存在形式である」(田辺の表現、p.37)。
【コメント】
アリストテレスによる徳の二分法
- (1)知的なもの(→ソフィア、プロネーシス)
- (2)倫理的なもの(→正義、節制、気前よさ)
日本語で実践知とは何かを考えてみる(→リンク先)
アリストテレスの 実践知入門(池田光穂)
Side Story: Justice in Nicomachean Ethics, from Wikipedia
■実践知の衰退【19】p.38
まず藤沢令夫の「実践と観想」論:近代の科学技術はプロネーシスを排除することによ り成立する。ん〜ん? この主張はどこまで正当性をもつのか?
・アリストテレス的プロネーシス復権の2つの契機:
- (1)デカルトの主知主義
- (2)ヴィーコの〈プルーデンチア〉(知 慮)
- (3)フッサールの現象学
・〈実証主義〉=自然科学的な法則性(論拠:鷲田清一『人称と行為』)
■ 機械の中の幽霊
・デカルトの、内的に省察する自己のドグマ(身体=機械から切り離された内省する自 己=幽霊)批判(G・ライル)『心の概念』1949年。
・幽霊の知=内省する知性という批判とは、すなわち、身体から峻別される特権的 な知の存在を批判するということなの?
・日常言語学派の批判:知るという言葉の用法には、少なくとも以下の2つの用法があ り、それらはお互いに同じ行為を指し示すのではない、という指摘(批判)である。
・やり方を知ること(方法知 knowing how)/事実や真理を知ること(事実知 knowing what)、の峻別。
方法知:やり方、方法、手続きに関わる知識
事実知:事実や命題、規則などの知識
・方法知=理知的で実践にかかわることがら。
「ライルにとって、実践とは理知的に行われる行為であり、それはある規準を満た しているのみならず、それを自ら適用し、さらに自らの行為を規制しながら行うことである」(p.41)。
フィードバックと繰り返しによって可能にしている知、常に状況に応じて変化する 知・・・などなど。
■慣習化された行為(ライル)【25】
・自分の行為に反省的ではなく、反射的であり、以前行われた行為の反復にすぎない。 (opp. 方法知に導かれた理知的な実践)
■慣習と方法知を区別せよ
方法知の例としての〈訓練〉:「自分が何をしているのかを考えながら行為を遂行する ことを学ぶ」(p.43)。
「方法知とは、正しく行う規則が何であるかを頭の中で考えることなく、しかしその規 則を遵守し、かつその場にふさわしい論理的な推論に従いながら作業を首尾よくこなしてゆくことである」(p.44)。[→モードゥス・オペランディ]
L・Wはこのような二分法には執着しない(ppp.54-5)。
※参考:マイケル・ポラニーの暗黙知[→仮想医療人類学辞典「暗黙知」]
■傾向性(disposition)
行為のやり方に習熟しているひとは性格のような傾向性をもつ。
・ライルは、この慣習化された行為/理知的な実践の二分法に陥る。実践知を方法知と して特権化する必要はないということである(cf. p.55)。
※英単語を覚えること:
反復的な暗記(=慣習化された行為)、読解や作文で覚えた英単語を使うこと(= 慣習化された行為+理知的な実践)、実際の会話の現場で覚えた英単語を使ってコミュニケーションする際に用法を覚えること(=理知的な実践)、覚えた単語 が自然に出てくること(=慣習化された行為)、違う用法に出会ったり用法を他者から修正されたときに新たに学習すること(=理知的な実践)。
・上記のようなプロセスは、単に慣習化された行為から理知的な行為を峻別するだけで は、現実の生活実践をより深く理解することはできないことを示唆。このことはL・W(そして田辺)により批判。
・ライル批判についてはpp.45-47に列挙(ライルの方法論的アリストテレス主 義批判)。さらに慣習的反復行為/訓練による理知的行為の二分法は54-55頁あたりで批判される。
- ・批判(1)
- ・批判(2)
■ modus operandi :方法知の本質【35】
・modus operandi(やり方, operational mode?)は「作業の手順やスタイルに関わる様式であり、完成された作品(opus operatum, operated works?)を生みだすまでにとられる方法の集合」(p.45)。
■L・Wの後期哲学【43】48ページ
なぜか、冒頭にL・Wの伝記の紹介がある。
・前期哲学(1918構想、1922公刊):「言語にはただ一つの本質的論理がある ことを証明するために、言語と世界、命題と事実とのつながりが〈表示関係〉にあり、ある言葉(名)の意味はその言葉が表示する対象であること」を提示した (p.48)。
・35年後の死後公刊『探究』(1953)■治療のメタファー
・〈哲学による治療〉 というメタファーは、日常言語学派のもの? で、L・Wはその系譜に 入れられない(なぜ?)。
・単一の本質的論理に統合された前期の言語観の放棄。■言語ゲームの解説【47】50ページ
・(狭義の)言語ゲームとは?:「子どもが本や椅子があるということを学ぶとき、そ れは同時に本を取りに行ったり、椅子に座ることを学ぶという活動であり、それが言語ゲームである。すなわち、語(発話)と行為が一体となった活動の全過 程」(p.50)がそれである。
・(広義の)言語ゲーム:「言語と、言語の織りこまれたさまざまな活動の総体」 (p.50)。
「言語ゲームとは、語とその対象といった固定された対応関係から解放された概念であ り、それ自体に多義性を含んでいる。しかし、しばしば批判されてきたその多義性、あいまいさそのものが、根源的に本質主義の対極にある人間の実践の多様な 場面をとらえるのにふさわしいのである」(p.51)。
LW「教える人が 石を指したら、教わる人が対象の名を呼ぶ、すなわち、語を話す、という過程だ。いや、さらに単純な練習もある。教師が発した単語を生徒が復唱する、という ものだ。 —— どちらの例も言語使用に似た過程だ。またこう考えることもできる。第2節の言語使用の全過程は、子供たちが彼らの母語を習得するための手段とするゲームの 一つである、と。このようなゲームを、私は「言語ゲーム(Sprachspiel)」と名付けよう。そして時に、原初的な言語についても、言語ゲームとし て語るだろう」LW『哲 学探究』より)
多義性は限界にあらず、可能性にある、という ことか。
・ソシュールの概念からの跳躍:語とその対象といった固定化された対応関係から解放 された概念(p.51)。
・実例:命令、記述、報告、推論、仮説検証、実験とその結果の提示、物語、演劇、輪 唱、なぞなぞ、冗談、算数の応用問題、翻訳、感謝、呪い、あいさつ。
・評価:「言語ゲームは言語使用に限らず、マルクスの〈労働〉に匹敵しうる、人間活 動のすべてに対して開かれた概念」(p.52)。
※なぜ、労働の概念がすごいのか?、今村仁司の本を導きとしてマルクスをよむべ し、ということか。
■規則と行動の関係
・規則と行動の間には一致も矛盾も存在しない。
・規則が行動を規定するときに解釈が必要となり、その解釈の解釈が必要となり、その・・・という繰り返し(「規則に従うことをいかに理解するかという問題 のパラドクス」(p.52))。田辺が引用する『探究』第1部201:「われわれのパラドクスは、ある規則がいかな る行動のしかたも決定できないだろう。なぜなら、どのような行動もその規則と一致させることができるからということだった。その答えは、どのような行動の 仕方も規則と規則と一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、ということであった。それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないのであろ う」(pp.52-3)。
■(つまり)我々がもつ規則概念の根本的な誤り(p.53)がある
(1)規則が強制的で、規範的なものという主観的な感覚をもっている
(2)規則が自分の外にあり、客観的な公準である、という見解がある
■慣習と訓練が規則にしたがう実践を生む(pp.54-)【59】54ページ
「規則を作りあげているのは私たちが生きている場における公共的、集合的な規則の使 用であり、規則に従うことは、そこにおける慣習や訓練によって形成されてきた実践であるといえる」(p.54)。
ここで反復による規則行為と訓練による理知的な行為を区分するライルが批判される。
◎LWの次の命題の講釈
LW「ある文相を理解するとは、ある言語を理解することである。ある言語を理解 するとは、ある技術を習得することである」『探究』第1部199、本書55頁
田辺「言語を理解することは語とそれが指示する記号的な関係を知っていることで はなく、あくまで言語を道具のように器用に使いこなす行為である。・・理解とは人があたかも心のなかで内面的におこなう過程ではなく、行為と一体となった 技法に習熟していることだ・・」55頁
※私ゃErving Goffman のPresentation of self, 1956を思い出したでぇ。
反復による慣習行為が実践を生み出す。「規則に従う実践が生みだされるのは、すでに そう行為するように慣習としてつねに訓練されているからである。規則に従って生みだされる実践は、過去から積みかさねられてきた訓練がもたらす成果 だ・・」56頁。
■ 生活様式(pp.56 -)《LW『哲 学探究』》
LWの生活様式とは?:「社会的存在としての人間が、言語や非言語的な行為を含めた さまざまな活動にともなう傾向性を共有していることである」56頁。「生活様式とは、概念図式、つまり考え方、知覚の仕方、行為のやり方を共有しているこ とである」56-57頁。
生活様式からコミュニティ概念へ!:「ウィトゲンシュタインの哲学が生活様式と言う とき、それはかならずしも社会学で言われてきたような社会関係の集合体、あるいは「共同体」を指していない」(57頁)。
■ 心的過程の否定(pp.57-)
「言語ゲームは公共性、協働性をもつ枠組みであり、その慣習に従った/訓練をとおし て言語やさまざまな活動が生みだされる・・」57-8頁
「つまり、私たちは言語ゲームを拡大適用しながら、これまで人類学や社会学があつ かってきたさまざまな社会制度あるいは階級などといった社会的枠組みを、とりあえず協働性をもって慣習としてくりかえし訓練が行われている場として見直せ ばよい」58頁。
■ 言語ゲームの多様性(pp.59-)
なにをもって社会的な現象の分析と見なすのか?
ーー具体的な実践を観察することによって、言語ゲームとしての規則と慣習的な訓練の 存在、あるいはそれを支えている概念図式の一致を証明すること(59頁)
ーー複数の言語ゲーム間の関係性と類似性(→家族類似性)という、私たちの社会性世 界を貫いている共時的な動態(59頁)
■ 言語ゲームの差異化(pp.60-)
「私たちは家族類似性という概念によって、包括的な分類に含まれる複数の言語ゲーム は同質的な規則や実践を共有しているのではなく、実は複雑に差異化する多様性に満ちている・・」60頁。
言語ゲームにおける境界性の概念:
外部決定されないと同時に外部をもつ? ここから、田辺のいうコミュニティ概念 が引き出される。
「一つの言語ゲームが外部世界の何ものにも制約されずに、その内部で自己決定す るかのように語る。つまり、協働性に基づく慣習としての言語ゲームは外部決定されない。しかし、他方では、複数の類似する言語ゲームが共時的に関/係しあ い差異化していると強調する。つまり、言語ゲームは外部性をもっていて、そこには多様な言語ゲームが連鎖している。この2つの見方は何ら矛盾するものでは ない、すなわち、言語ゲームとは、慣習の同一性と差異化を合わせもった〈コミュニティ〉にほかならない」60-61頁。
人類学的な新しいコミュニティ像!(61頁)
そのコミュティは古代の都市のように、迷路でできた複雑な路地裏であると同時 に、郊外を走る直線の道路でもある(文中では「ゲームに移行して実践を生みだす」と表現する。61頁)
このことを可能にするのは、無藤隆『協同するからだともの』で語られる、こども の遊びにみられるゲームの移行あるいはスイッチである。そこには、アバウトな論理や、移行期における2つのゲームの存在がある。
■ 言語ゲームの歴史性(pp.63-)
- おっと、ここでウィトゲンシュタイン的人類学の構想が出てくる。これまでの「共時的な 差異化と移行の視点」と「通時的な変化」見渡す必要性。後者が、この節で言われる歴史性である。
- 事例「二世紀以上にわたって形成されてきたアメリカのブラック・コミュニティや・・・ 難民の事例を考えれば、そうしたゲームの移行の考えによって文化的な移行を説明することが可能であろう」63頁。
- LWも、言語ゲームの内部で規則の変化がおきることを『確実性の問題』で構想していた ふしがあるとのことだ。だが、これは1951年の彼の死により中断(放棄?)される。したがってLWに期待するのはやめておこう。人類学が自力で考えるべ きことだというわけだ。
- 言語ゲームの本質的な一貫性について思いをめぐらすのではなく、その歴史性(時間的経 過のことではなく、行為者の実践による経時的ないしは偶発的な変化のことらしい)について配慮することが重要であると示唆して、この第二章は終わる。
資料:第6巻5章 実践知
Regarding practical wisdom we shall get at the truth by considering who are the persons we credit with it. Now it is thought to be the mark of a man of practical wisdom to be able to deliberate well about what is good and expedient for himself, not in some particular respect, e.g. about what sorts of thing conduce to health or to strength, but about what sorts of thing conduce to the good life in general. This is shown by the fact that we credit men with practical wisdom in some particular respect when they have calculated well with a view to some good end which is one of those that are not the object of any art. It follows that in the general sense also the man who is capable of deliberating has practical wisdom. Now no one deliberates about things that are invariable, nor about things that it is impossible for him to do. Therefore, since scientific knowledge involves demonstration, but there is no demonstration of things whose first principles are variable (for all such things might actually be otherwise), and since it is impossible to deliberate about things that are of necessity, practical wisdom cannot be scientific knowledge nor art; not science because that which can be done is capable of being otherwise, not art because action and making are different kinds of thing. The remaining alternative, then, is that it is a true and reasoned state of capacity to act with regard to the things that are good or bad for man. For while making has an end other than itself, action cannot; for good action itself is its end. It is for this reason that we think Pericles and men like him have practical wisdom, viz. because they can see what is good for themselves and what is good for men in general; we consider that those can do this who are good at managing households or states. (This is why we call temperance (sophrosune) by this name; we imply that it preserves one's practical wisdom (sozousa tan phronsin). Now what it preserves is a judgement of the kind we have described. For it is not any and every judgement that pleasant and painful objects destroy and pervert, e.g. the judgement that the triangle has or has not its angles equal to two right angles, but only judgements about what is to be done. For the originating causes of the things that are done consist in the end at which they are aimed; but the man who has been ruined by pleasure or pain forthwith fails to see any such originating cause -- to see that for the sake of this or because of this he ought to choose and do whatever he chooses and does; for vice is destructive of the originating cause of action.) Practical wisdom, then, must be a reasoned and true state of capacity to act with regard to human goods. But further, while there is such a thing as excellence in art, there is no such thing as excellence in practical wisdom; and in art he who errs willingly is preferable, but in practical wisdom, as in the virtues, he is the reverse. Plainly, then, practical wisdom is a virtue and not an art. There being two parts of the soul that can follow a course of reasoning, it must be the virtue of one of the two, i.e. of that part which forms opinions; for opinion is about the variable and so is practical wisdom. But yet it is not only a reasoned state; this is shown by the fact that a state of that sort may forgotten but practical wisdom cannot. - Nicomachean Ethics, by Aristotle, 350BC, translated by W. D. Ross...
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