ディオニソス的ペシミズム
On Dionȳsos' pessimism
ディオニソス的ペシミズム 池田光穂:不幸について語るエッセー
「私はXX大学の教員です。
今回は幸福について議論する場に呼ばれ、その反対の不幸について語ります。
なぜ不幸について語ることが赦されるかと言うと、それはグアテマラに住むマヤ系先住民の民族誌に ついて私が研究しているからです。
グアテマラは30数年におよぶ内戦がありました。特に内戦期の後半ではマヤ系先住民の人達が多く 内戦に参加したり、戦闘に巻き込まれたりして数十万人の犠牲が出たからです。
グアテマラの現在を研究することは、内戦の不幸を語ることだと回りから期待されていますし、また 私じ しんもそれに応えるべく暴力について(すすんで)語ります。実際、私のフィールドワークには、先住民に対する国家暴力・反政府革命的暴力・象徴的暴力など についての話題に事欠きません。
また民族誌を書くときの時間的・空間的尺度を植民地時代や経済のグローバリゼーションまで展開・ 拡大してみると、人々は(私たちと同様)バイオレントな状況に曝されていると言えましょう。
しかし、なんで私がそのような暗い話題に傾斜していくのでしょうか。それは一言で面白いからで す。
不遜な言い方ですが、幸福に関するお話は「めでたし、めでたし」で結ぶとすぐに忘れられてしまい ますが、人の死や暴力に関する話は、その因果論や細部状況の再現などに関心が傾斜してゆき、どんどん研究の蓄積が増していきます。
暴力の記憶を忘却する世の流れがあると、社会正義の御旗もあり忘却を阻止する語りにもリキが入り ま す。拷問の細部の話は聞く者も話すものも唾を呑みますからね。実際は何が起こったんだ? そしてその時、君はどこにいた? この事態をどう理解している? という質問が速射砲のように出てきます。
授業も研究も同じです。もちろん「それはホントはもっと複雑だからさらなる調査が必要だ」という 学問の延命言説にも無関係ではありません。すくなくとも不幸の話にはきりがない。
それに較べると幸福の話は薄っぺらいものです。
人間は精神を病むほど暗い。人はもともと楽しい話よりも暗い話が好きなのではないでしょうか。
死んだ人は語りません、だから生きている証とは不幸を語り続けることでしょう。そして不幸に感染 すること、つまり苦悩する人になることです。
さて、私がこのようなテーマの授業を数多くやるようになって気づいた真理がひとつあります。平和 教育には戦争や暴力の記憶が不可欠であるということです。バイオレントな想像力がないと、平和を希求するパワーも不足するという訳です。
だから授業ではマッチポンプよろしく、まず紛争や暴力について延々と語り不幸を体験(共感)して もらい、その後で平和の有り難みや、その実現の手法について議論します。紛争解決学とか平和研究のいかがわしさを身をもって体験しています。
しかし、このようなやり方に私はもう飽きてきました。それはニーチェ[1993:433]のいう 「生の貧化のゆえに苦悩する」学生を育てるだけで、授業が終わった後は、自ら感染した不幸を治癒すると喧伝する癒し産業に市場を開くだけです。
「破壊や解体や否定などのあらゆる贅沢」すら享受できる未来のペシミズムが到来したことを感じる 人間、すなわちディオニソス的ペシミストに我々は生まれ変わることができるのでしょうか?」
(2005年3月11日のフィールドノートより)。
参照文献
ニーチェ、フリードリッヒ『悦ばしき知識』(ニーチェ全集8)、ちくま学芸文庫、東京:筑摩書 房, 1993年
パソコンの前で予稿原稿の作成に余念のない筆者(近影)
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