はじめによんでください
臨床コミュニケーション教育
PBLから対話論理へ、対話論理から実践へ
池田光穂・西村ユミ
大阪大学コミュニケーションデザイン・センター
過去3年半にわたり大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)では、全研究科の大学院生を対象とする全学共通科目である「コ ミュニケーションデザイン科目」を40種類以上提供してきた。演者たちは臨床コミュニケーション関 連科目群とよばれる5種類の授業(臨床コミュニケーション I と II、ディスコミュニケーションの理論と実践、現場力と実践知、医療対人関係論)を担当している。
本発表は、
(1)この経験にもとづく「臨床コミュニケーション授業」の概要の紹介、
(2)医学教育における対話型教育といえる「問題にもとづく学習」 (Problem-Based Learning, PBL)についての簡潔な紹介とPBL教育に関する技術的な問題点、
(3)弁証法と対照される対話論理(dia-logic, dialogic reason)を授業のなかで十全に展開するための理論的課題、および
(4)以上の考察から引き出される大阪大学臨床コミュニケーション教育の将来の課題について紹介する。
以上の検討により演者たちによる総括は次の2点にまとめられる。
1.授業を動態的(dynamic)にするためには、受講学生が抱くこれまでの授業観を変更(deconstruction)する必要がある。 授業参加者(=学生と教員集団)全員がその手順に馴染むことにより対話型の授業が円滑に進む大きく2つの促進要因がある;ひとつは学習者の授業参加への自 発性の強化であり、他のひとつは教員がもつ旧い教育に対する固定観念の解体である。これは予習・本習・復習を含めた学習の時空間のみならず、学習がおかれ ているより大きな社会文化的文脈への介入(=挑戦)が持続的におこなわれる必要性を示唆している。
2.コミュニケーション教育では授業参加者が対話論理を経由して、その 成果を日常的実践に結実させることが求められている。臨床コミュニケーションの授業における言表(utterance)が、説明責任と応答責任 (accountability and responsibility)を発話行為のなかで発生させない限り、実践はうまれないだろう。したがって現時点における臨床コミュニケーション教育の目 標(=理想的状況)は、授業という場が社会空間であることを対話的他者である学生と共に認識し、あらゆる対話が私たちにしむける説明責任と応答責任を、授 業のなかに具体的なかたちで呼び起こすことにある。
レクチャー(発表)の内容
臨床コミュニケーション教育:PBLから対話論理へ、対話論理から実践へ
On Dialogic Relevance between Utterances and Praxis in Japanese Postgraduate Educational Course, "Human Care in Practice"
大阪大学コミュニケーションデザイン・センター
池田光穂・西村ユミ
Center for the Study of Communication-Design, Osaka University, Mitsuho Ikeda and Yumi Nishimura
第1回日本ヘルスコミュニケーション研究会 東 京大学医学部 July 10, 2009[→ヘルスコミュニケーションの定義と紹介]
◆ 発表要旨(プレゼンテーションの比率)
大阪大学の大学院生に対しておこなっているCSCD提供の対話型教育「臨床コミュニケーション授業」の概要紹介(60%)
医学教育におけるPBLの簡単な紹介と問題点(20%)
対話論理を授業の中で展開するための理論的課題(10%)
大阪大学臨床コミュニケーション教育の課題(10%)
※ハンドアウト〈資料編〉の2つの論文をご参照ください。
◆ 臨床コミュニケーションとは?
人間が社会生活をおこなうかぎり続いていく、ある具体的な結果を引き出すためにおこなう対人コミュニケーションのこと。
狭い専門領域としての臨床(clinic)のことではなく、臨床は対人コミュニケーションにおいてあまねくみられる、その現場における実践 状況(human care in practice)そのものである。
◆ 臨床の知・実践知
1990年代、哲学者・中村雄二郎が〈科学の知〉に対抗し、それに置き換わる〈臨床の知〉を提唱した。人間どうしが相互作用のうちに読み取 る、諸感覚(五感)を協働させる共通感覚と実践状況が不可分になった状態を〈臨床の知〉と呼んだ。[→臨床知・臨床の知]
1990年代、看護研究の現象学派の人たちが、アリストテレスの〈実践知〉概念などを手掛かりにして科学的認識からは捉えきれない、感性や 現場の知恵の重要性に着目した〈アートとしての看護〉実践論が生まれた。
◆ 臨床コミュニケーションは遍在する
医療者と患者でみられる相互作用、学校教育、心理カウンセリング、法律相談、友人間の悩み事の解決など、臨床コミュニケーションとよばれる 社会活動の範囲は広大である。
◆ 教育と研究
その現場は人間活動のほとんどあらゆる面で見られ、解決が求められている課題も多様で、広範囲である。人間コミュニケーションに関するさま ざまな諸分野の成果を活かしつつ、対話にもとづく現場の臨場感を反映させるような実践教育が不可欠。文理融合、学際、領域横断型の協働研究を通して、リア ルタイムでその成果を伝える必要がある。
◆ 授業の形式
20-60名の受講生に対して3-4名の教員。
教員・TAと大学院生が水平的な関係を維持し、対話を遂行する。
課題の提示→グループ討論→討論結果報告→質疑・コメント→全体討論→Reaction-Paper作成
Reaction-Paperの分析、およびそれらを教員の授業改善*に反映させる。
◆ 実績
2006(平成18)年度から全研究科の共通科目としてコミュニケーションデザイン科目11種13科目開講、400名受講
2007年度 17種目20科目、610名受講
2008年度 38種目42科目、780名(院650名、学部高学年130名)受講
臨床コミュニケーション科目は5科目:臨床コミュニケーション1&2,ディスコミュニケーションの理論と実践、現場力と実践知、医療対人関 係論を提供している。
◆ 授業テーマ(一例)
■ 授業風景など
◆ 浮上した問題
実践教育としての臨床コミュニケーション教育に携わる教員は、自分たちの狭い理論の枠組みに囚われており、その十全たる教育効果の可能性に ついては未だ信じていない。他方、社会に羽ばたこうとしている学生は最初から私たち教員に十全な教育効果など期待せず、必修科目ではないことも手伝って、 新しい形式の授業そのものを純粋に楽しんでいる。だから変わらなければならないのは、学生ではなく他ならぬ大学の体制と旧態依然としている大学教員そのも のだ、というわけだ。
◆ 90年代までの米国医学教育
1960年代
→ 行動科学・コミュニケーション教育を中心とした全人教育
→ 包括医療教育としての臓器別統合型カリキュラム
→ プライマリ・ケア医養成のための地域志向型教育
1970年代
→ PBLチュートリアル教育の構想と先行実施
1980年代
→ GPEPレポート(AAMC:米国医科大学協会, 1984)
→ ニューパスウェイ=詰め込みではない学習主体教育(ハーバード大学医学校)
→ OSCEの開発(コミュニケーション技能評価を含む)
90年以降の米国医学教育
1990年代
→ OSCEの本格化(Objective Structured Clinical Examination: 客観的構造化臨床試験→客観的技能試験)
→ PBLの世界中への広がり
2000年代
→ Outcome Based Education
→ プロフェッショナル教育
→ 多職種間コミュニケーション
→ ポートフォリオ評価
◆ 日米の医学教育比較[→リンク:Medical Education, Comprative Study between Japan and United States]
◆ チュートリアル
ネバダ大学医学校PBLのチュートリアル・ケース『ゲロ吐き少年!:ランディ・ミルバーンのケース』
◆ 問題にもとづく学習
Problem-Based Learning
反対語は、系統的学習(systematic learning)あるいは受動的学習(passive learning)
1969年カナダのマックマスター大学のハワード・バロッズが嚆矢(と言われる)
「具体的な問題提示が学習者をして勉学せしめる」
SGL(→with tutor*)・SDL・PBLの3セットメニュー
手引書(tutorial**)による「PBLチュートリアル」用語
◆ Learning View of PBL
PBL is any learning environment in which the problem drives the learning. That is, before students learn some knowledge they are given a problem. The problem is posed so that the students discover that they need to learn some new knowledge before they can solve the problem.(http://www.chemeng.mcmaster.ca/pbl/PBL.HTM, 最終確認日2009年4月10日)
◆ PBLの学習観[→ものづくり・創造性教育のためのPBL入門]
「問題にもとづく学習とは、問題の提示が学習をやる気にさせるような、あらゆる[形態の]学習環境のことである。そこでは、学生たちは何か 知識を学ぶ以前に、すでに学生たちにある問題が与えられている。自分たちが問題を解くことができる以前に、学生たちじしんが何か新しい知識を学ぶ必要があ るぞ、ということを学生たちが発見するように、まさに問題が[学生たちに]し向けられているということなのだ」http://www.chemeng.mcmaster.ca/pbl/PBL.HTM, 最終確認日2009年4月10日
◆ PBL展開の3つの制限要因
チューターの資質の重要性:チューターの〈実践知〉や〈現場力〉についての考察がなされてこなかった。
系統学習に比べると学習者へのプレッシャーをかけないので、学習集団に対して均質な学習効果を予想することが困難。
学習者がもっている価値観や文化的背景がグループ学習の形成や運営への未来効果が不透明。
◆ 対話論理と弁証法
対話論理(dia-logic, dialogic reason)と言われている思考法であり弁証法(dialectic)と対比される。
弁証法は、採用する〈AかBか〉という対立項から出発して、それらの概念の葛藤からより高次の議論を生み出す論理。
対話論理とは、人間どうしにおける対話のように〈AとBと〉の2 つ、ないしはそれ以上の要素の同一性と差異の存在論的価値をそのまま認めてしまう考え方。
対話が論理として持続性をもつのは、同一性と差異という2つの矛盾する考えを内包しながらも、それを一気に解消する方向に展開しようとしな い(→対話の継続性を保障)
→ 対話論理
◆ 対話は差異の間の交通状態
対話状態とは、〈AとBと〉の同一性と差異の存在論的価値を認めないかぎり、対話の持続性が保証されない。 すなわち対話とは同一の時空間における差異の間の交流=交通状態である。
PBLが学習者の間の絶え間のない対話が現実に見られるという持続性という経験的事実に加えて、PBLという言葉が(A)「問題の提示」と (B)「学習のやる気」という継続的プロセスを生み出す学習環境(=状態や状況)と捉えている点で、対話論理とPBLという行為実践の間の構造的類縁関係 を指摘できる。
→ 対話論理
◆ 実践を引き起こすための対話状況の生成
言表(utterance)例として、現代社会を生きる私たちに要求される説明責任(accountability)がある。
説明責任が発生する論理的前提には、その発話「以前に」対話者からの呼びかけに応える実践から生まれる責任すなわち、応答責任 (responsibility)がある。
この応答責任とは対話の連鎖のなかで他者がしばしば要請するものである。
言語行為論からみると沈黙は行為を発動させない。失行[=失行為]の前に失語状況があり、失語行為の前に失対話状況がある。
→ 対話論理
◆ 大学における〈対話〉の現在
大学での授業は対話的伝統を久しく謳いながらも、その形式的継承にとどまり、対話が生み出す社会的効果についての実践をおこなってきたので は?
研究中心の大学・大学院は対話的伝統より、モノローグ的知的生産を重視する傾向が強い。つまり大学そのものが「社会」との対話を無視する伝 統を育んできた。いわんや大学教育をや。
パターリズムにもとづく「援助」や大学そのもの生き残りをかけた「社学連携」には、対話的精神は少ない。
◆ 臨床コミュニケーション教育の挑戦
EBMとコミュニケーション[→リンク]
臨床コミュニケーション教育で私たちが挑戦しようとしているのは、このような轍を踏まず、授業という場が社会空間であることを対話的他者と しての学生と共に再認識し、あらゆる対話が私たちにし向ける説明責任と応答責任を、具体的な形で授業の中で呼び起こすことである。
◆ 謝 辞
本研究は第16回ファイザーヘルスリサーチ振興財団より研究助成を受けた「サイエンスショップにおける臨床研究の可能性に関する基礎的研究 —日本における社会的・倫理的課題の検討」(研究代表者:西村ユミ)による成果発表の一部である。同振興財団および本研究の共同研究者の皆様に感謝致しま す。
■ リンク
2009年7月10日 第1回ヘルスコミュニケーション研究会予稿集 於:東京大学医学部附属病院内、中央診療棟2 B1会議室
Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2009