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ものづくり・創造性教育のためのPBL入門

Introduciton to the Problem-Based Learning for Manufacturing Creative Education in Faculty of Engineering

池田光穂

■ タイトル・クレジットが書かれている

■ アウトライン:配付資料の章立てで、この内容にしたがって発表されることになる

■ 理解するだけでは不十分だ、やってみることが大切だ

 私の子供向けのウェブページに「べんきょうしただけではなにもわからない、うごいてみ ることがだいじです」 と題したものがある。当初、全文は平仮名で書いていたが、読みにくいために、最近のヴァージョンアップでは通常の文章に直してみた。

「私たちの身の回りの大人を見てみましょう。大人は勉強しなさい、憶えなさいと言います。たしかに、憶えることは大切です。かけ算の「九九」の ように憶えることは便利で役立つことです。だけど、もっと重要なことは、私たちが何かを思い出すとき、それは身体から出てきたり、心の中のイメージと深く 関連づけられているということです。さらに、もっと大切なことを言います。皆さんは、分からないことがあると「図書室に行って調べてみよう」と先生はおっ しゃいますね? 図書室の司書の先生は、調べものをお願いすると「子供用の百科事典をまず調べましょう」と教えてくれます。図書室や子供用の百科事典は、 私たちのかわりに、ものを憶えてくれる、もうひとつの身体です。

「図書室や子供用の百科事典がないと困りますねぇ。だって誰も図書室の百科事典のように物知りではないからです。昔、図書室や百科事典が無い 時、学校の生徒は先生や大人、あるいは物知りのおばあさん、おじいさんが頼りでした。今は、図書室や子供用の百科事典があります。そしてコンピューターや インターネットがあります。大事なことは、物事を知るということは、単に知識を頭のなかに詰め込むだけでなく、どこにその知識の在処があるのかというこ と。そして、憶えるということは、憶えた時の動作や場所にも関係するということです。どこに、その知識があるか、誰がその知識を知っているのか、私たちの 身体を使ってよく探すことです。このような見方によれば、身体(からだ)は知識をさがす道具であると同時に、知識そのものなのです」。


■ 私から子どもへのメッセージ
 さて、私が子供たちに伝えたかったことは次のことである。(i)知識を仕入れるだけが能じゃない。使ってみてナンボ、つまり、そうして初めて 知識の本領が発揮される。あるいは、(ii)我々がある知識を学ぶのは、現場で使われたり、応用発展されるためであり、知識のために知識があるのではな い。さらに、(iii)〈理解にもとづく理論〉と〈応用にもとづく実践〉とは、そもそも根っこは深く繋がっているものであり、あたかも別々ように取り扱っ てはならない、という主張である。

■ 私から皆さんへのメッセージ

 21世紀日本のふつうの大学人——特に工学・医学・農学とそれらの複合分野に属する——ならば、これらの主張に概ね同意がいただけることだろ う。ここでは〈理解にもとづく理論〉と〈応用にもとづく実践〉の相互の関係がどのようになっているのか、またこれからどのように推移するのかということが 関心の焦点になる。ものづくりに関わる創造性教育に携わる専門家に対して議論すべき論点を整理すれば次のような問題としてまとめることができる。

(1)大学・大学院において〈理解にもとづく理論〉と〈応用にもとづく実践〉は、いかに教授されるべきか?

(2)〈理解にもとづく理論〉と〈応用にもとづく実践〉の順序や配分の方法はいかにするか?

(3)大学・大学院で学んだ〈理解にもとづく理論〉と〈応用にもとづく実践〉が身についたということをどのような観点から判別することができ、 また組織教育の効果と本人の努力による成果をどのように峻別するのか?

 この発表ではこれらの問題意識を共有している人たちに対して「問題にもとづく学習」が、いかなる実施形態をもつものなのか、運営にまつわるさ まざまなエピソード、そして現代社会生活におけるPBLの意味とは何かについて解説し、PBLの可能性と限界についてシンポジウムの参加者と共に考えてみ たいと思う。


■ 問題にもとづく学習(1/2)
学習者じしんが中心となり、反省的反復の作業をともないながら、実践される少人数グループの教育手法ことを、「問題にもとづく学習」とよぶ。 PBLとは, Problem Based Learningのアクロニム(頭文字による略記法)である。問題にもとづく学習は、一種のブランド あるいは確立された手法として理解されることが多いので、英語によるアクロニムにより、PBL(ぴー・びー・える)と簡略ないしは、ジャーゴン、すなわち 内輪で流通する専門語彙でよばれることがある。

 PBLという教育手法をよきものとして唱道する人たちは、PBLに対立的な教育手法のことを「系統的学習」と呼び、批判的ニュアンスをこめて 解説することがある。後者、すなわち系統的学習とは、これまでの教育の現場で長年採用されてきた手法のことである。  医学領域におけるPBLによる教育の牙城であったカナダ・オンタリオ州ハミルトンにあるマックマスター大学ではPBLを意味深に次のように定義してい る。

「PBLは、学習を引き起こす問題の中にある、あらゆる学習環境のことをさす。すなわち、学習者たちがいくつかの知識を学ぶ前には、すでに彼/ 彼女らにひとつの問題が与えられている。学生は、自分たちが問題を解くことができる前に、いくつかの新しい知識をまなぶ必要があるということを学生自身が 先に発見できるように問題が仕向けられているのである」 。


■ 問題にもとづく学習(2/2)

 私の理解にもとづいてPBLを4項目にまとめて言い直してみよう。つまり、(i)問題にもとづく学習(PBL)は、学生が問題をとりくんでい る学習行為の全体のことであり、それには学習環境なども含まれる。(ii)PBLの文脈の中では、我々は知識を習得しようと思う前にすでに何か解き明かす べき問題認識をもっている。(iii)人は「〜とは何であるか」という命題化された問題に到達すれば、それを解くために新しく具体的な知識を仕入れなけれ ばならない。学習者がそのように自覚化している環境(=「知的な文脈」)それ自体がPBLに他ならない。(iv)PBLの学習観では、〈解かれるべき具体 的問題〉の自覚と〈問題解決にむけた行為実践〉を切り離して考えることできないという立場をとる。

■ 小グループ学習(SGL)
 また、このマックマスター大学による定義を引用をしたウェブページでは、PBLによる教育実践の理念的特徴を次の3つにまとめる。すなわち小 グループ・自発性・自己評価による問題にもとづいた学習(Small group, self-directed, self-assessed PBL)である。わずか3つの標語だが、そのことが学習者の行動理念を見事に表現している。すなわち、(1)学習の単位は少人数のグループである(実際に は、これにチューターという積極的な介入をしないと命じられている教員格の監督者が加わる)。

■ 自発的学習(SDL)
(2)チュートリアルという資料以外には資源が与えられないために、学習者はチーム内で分業し収集した知識や情報を発表し、協働で考え、さらな る情報収集のために自発的に討論に参加しなければならない。(3)チームという学習環境の中で自己の立場を明確に打ち出すことが期待されているので、学習 の成果は適確な結論に到達したかという観点よりも、自分が協働作業にどのように関わりチームによる知識探究にどれだけ貢献したのか(リーダーシップだけで も縁の下の力持ちだけでもダメ)を自分で表明(証明)しなければならない、ということにある。  ウェブページでは、この理念を成就すべく、マックマスター大学における学生中心の具体的な学習法を、SGL、SDL、PBL(小グループ学習・自発的学 習・問題にもとづく学習)という三大スローガンにまとめている。したがって、PBLと我々が呼ぶ場合、(I)理念としての大きな意味と、(II)具体的な 学習法としての狭い意味のPBLの定義があることをここで明確にしておこう。

■ 問題にもとづく質問?(1/2)

 さて、マックマスター大学で編纂された教科書(ウッズ 2001)には、PBLと系統的学習の対比の例が面白おかしく描かれている。すなわちPBLの問題はこうである:「ここに故障したトースターがあります、 これを直してください。でなければ、少しばかり要求を譲歩して、ちょっとでも使えるようにしてください」。これに対して系統学習ないしは系統的学習はぶっ 壊れたトースターの修理は、あらゆる学習の最終局面に理念的に現れるかもしれない。しかし現実にはトースターのことはお構いなく(確かに私たちのなかで トースターの修理について授業で学んだ人などは皆無であろう)、物理の授業で、電気に関する一般的説明があり、それが熱エネルギーにどのように変換される かの学習をして、電気一般の勉強のあとに、実用的な電気機器に関する説明があり、家庭の電気製品がどのような規格化されているのか、またテスターのメー ターの読み方の講釈があり・・・という、体系的な勉強をマスターすることに主眼が置かれている。

 これら2つの学習に対するビジョンすなわち学習観は、まさに水と油ほどの違いがある。系統的学習に馴染んだ私たちには故障したトースターの修 理は、知的行為と実践のロマンに満ちた蜜月の比喩すなわち牧歌的な譬え話のように思える。しかし、理論と実践は容易には結びつかない。なぜなら実際の電気 製品の裏蓋には「感電の危険性がありますので絶対に開けないでください」と書いてあるからだ。あるいは皮肉屋なら、トースターならかまわないが電子レンジ と書けないだろうと揶揄を言ってみたくなる。


■ 問題にもとづく質問?(2/2)
 しかしながら、PBLにおける問題提示はこれ以下でもこれ以上でもなく、まさにこれそのものである。ハワイ大学にある医学校——米国の医学教 育は学部ではなく専門大学院でおこなわれる——では、PBLの第1回目の授業では、たとえば次のような問題が出される。「高校生の女性シンディは、下腹部 の痛みが数日続いていた。彼女はいつもはファミレスでバイトしているが痛みがひどく、大学病院の外来を訪れた」(原文を大幅に改変している)。ただ、それ だけである。またネバダ大学医学校PBLのチュートリアル・ケース『ゲロ吐き少年!のケース』では、11項目の情報が盛り込まれているが、最初の解説は 「1.ランディ・ミルバーンは10歳の男性で、母親に連れられて君のオフィスにやってきたが、彼は虚弱、喉の渇き、そして継続する嘔吐発作を訴えている」 という一文のみである。

■ チュートリアルの意味

 ここでチューターならびにチュートリアルの用語法についてさまざまな留意が必要である。チュートリアルには複数の意味があるからだ。すなわ ち、(a)チューターを利用する少人数教育の形式そのものを指すことがある。そして(b)文書や画像、データなどから構成されるチュートリアルという資料 体を使うようなケーススタディを指す場合。そして、(c)チュートリアルを用いてかつチューターが授業に参加するPBLのスタイルからの連想されるPBL の同義語としての用法である。

 学習者は5,6名からなる小グループ班を作り、このチュートリアルにもとづく学習課題がつづく限りチームで問題解決に取り組む。この患者にま ず何をすべきか? 患者が病院に訪れる前はどのような状態だったのか? 病院ではどのような観察やデータが必要なのか? どのようなインタビューによって 患者のことを適確に知ることができるのか? チュートリアルには、これらに関する状況説明、生物医学的データ、その後の医学的処置、さらに処置後の状況説 明や、生物医学的データの変化などが、臨床の現場で手に入るような形で提供されている。チュートリアルの多くは事実に基づいた資料をベースにしているが事 実そのものではない。

 学習者は次にどのような資料を集めるのかを相談する。また、その授業の集まりで必要とされるような学問上の理論などを次回にまでにどれだけ学 んでくるのか課題を設定する。そしていつごろ、どの程度の集まりをもつのか、チューターの都合はどうかなど、スケジュールを調整する。チューターの助言は 必要かつ最低限なものであり、具体的な学習内容を指示することは控えている。


■ PBLにおける人間観

 PBLの教科書やマニュアルを読むと、いかにも良いことずくめの記載が多い。そしてPBLと聞いたり、そのことについて多少なりとも理解する と流行りものの最先端のようなブランドを身につけるような幻想に囚われる。

 しかし、医学校の例で理解できるように、ごく普通の専門家がその社会の中で専門性を発揮した仕事をはじめる際のごくごく当たり前の事例が用い られるPBLは、具体的な問題解決に日々取り組んでいる専門家の現場での知識習得そのものである。そして専門家の育成教育において、このようなプロの感覚 がいったいどのように身につけることができるのか。マニュアルによるインストラクションや、最初から答え(=診断名)が提示されてあるレントゲン写真をみ て病巣を確認するような従来の教育に限界があることは明白である。日常の診療のように教科書に載っていないようなあいまいな病像や、未経験のケースに直面 しながら、専門家として鍛えられてゆくからである。


■ 現代実践家の資質

 そのように考えるとPBLがなぜ日本の多くの大学で、とくに医学教育においてもっとも最初に取り入れられたのかがよくわかる。PBLが重要視 されるのは、人間の病気をトースターの比喩で見るという不遜にあるのではなく、現場では病人の不安を和らげ、そして治療しなければならない現実的方法論に 叶っているからである。医学教育では、疾患に関する知識の増大に比べて治療のパフォーマンスはそれほど上がっておらず、さらに医療資源の配分の不均衡など から、深刻な社会問題に直面しているからである 。

 医学教育においてPBLが重要視されるようになった背景にあるのは、EBM(証拠にもとづく医療)にみられる医学的実践の科学化や正確化への 社会的要求と、社会と患者のニーズに適切に応えることという内部的な要求という、2つの要求がある。ではなぜ、PBLがどうして重要な教育手法になりうる のであろうか。

 生物医学的知見の急速な変容(innovation)により、臨床医学的実践には常に新しい知識と技法がもとめられるようになったこと。これ により、医療者に対する期待される人間像は、家父長的権威者でも、また実験的科学者でもなく、つねに学習と研鑽を積む一方で患者との良好なコミュニケー ションをもちうる患者の対話者になったということである。


■ PBLの弱点

 他方、少し立ち止まって考えてみると、PBLの弱点には以下のようなことがわかるはずだ。

1.チューターなどのマンパワーが必要。PBLの教育現場はかなり労働集約的なところがある。

2.系統学習に比べると学習者へのプレッシャーをかけないので、様々な学習集団に対して均質な学習効果を予想することが困難。

3.学習者がもっている価値観や文化的背景がグループ学習の形成や運営にどのような効果を及ぼすかが不透明。もちろん、それはチューターがおこ なうべきであるので、質の高いチュートリアルの開発が急務。

 PBLという教育手法はたいへんすばらしいものかもしれないが、PBLという方法の独自性から、その教育に携わる人たちの養成が急務である し、またそのための教育法の開発、さらにはPBLが受け入れられるための社会的制度の整備など、さまざまな課題が山積している。


■ PBL誕生の社会的背景
PBLが発達する背景には当時の、北米の社会経済文化的要因が絡んでいる。すなわち(1)医学校[大学院]における臨床医学教育が徹底してお こなわれ、(2)教育において認知心理学の知見が導入されはじめ、かつ(3)社会科学での事例研究から、それをビジネスレベルで応用し経営システムを洗練 した形で教授するビジネススクール[これも大学院]という教育制度が先行してあり、それが一定の社会的成果をあげていたことである。PBLのその後のヨー ロッパやアジアでの展開は、その「中心地」からの影響を受けたものであると考えることができる。あるいはPBLが置かれた社会的文脈のなかに共通する歴史 経済的要素がある。このことは、PBLを説明する実践家や理論家が表明し、また彼/彼女らが執筆する文献にもみられる。

 PBLのプロトタイプは、1969年カナダのマックマスター大学にいたハワード・バロッズ(Howard Barrows)、1970年代のオランダのマーストリヒト大学、1980年ハーバード大学のNew Pathway構想という、それぞれの医学校でおこなわれた教育に起源をもつ。マックマスターの教育システムはほとんどがPBLのみのもので、ハーバード のものは講義とPBLを組み合わせたもので、後者はしばしばハイブリッド型PBLと言われることがある。前者はPBLの正統性を主張するゆえに、当事者た ちは「ほんもののPBL[authentic PBL]」と呼んでいる。



■ PBLに関連する医学教育改革
 さて医学教育ではPBLのみの有効性について焦点が当てられることが多いが、実際の医学教育においては、この教育手法の他に、複数選択問題形 式(Multiple Choice Question, MCQ)、客観的構造化臨床試験(Objective Structured Clinical Examination, OSCE)、ならびに臓器系統別統合カリキュラムなどの技法が同時に開発されて、今日に至っていることを忘れてはならないだろう。

■ 「知識と実践」の悩み

 現代社会において医学教育のみならず、工学領域におけるものづくり教育や創造性教育も「知識と実践」において同じような悩みを抱えている。す なわち、その分野における基礎的な知識や技法の習得に加えて、つぎのような新たな課題や問題を現代科学教育が抱え込むようになったのだ。すなわち、先端技 術(バイオ・ナノ・サスティナビリティという御三家)に関する知識量の爆発的増加、「最先端領域への研究費の重点配分」という研究トレンドの人為的操作が もたらした偏った人気科学領域の登場、研究における不正(misconduct)がもたらした内部者へのモラルハザードと学問の社会的威信の後退、インパ クトファクターによるラットレース[不必要な過当競争]化、大学のCSR(組織の社会的責任)や社会へのアウトリーチという名で語られる研究活動の「営業 化」。このような苛烈な研究教育状況のなかで、いままで通りの方法として「系統的学習」の賞味期限が切れているのではないかという不審感が大学内外に醸成 されたのであると考えられる。

 PBLのパフォーマンスに関しては賛否両論あるが、PBLで教育を受けた学生のほうが授業の満足度が高いことでは、両者の主張は一致してい る。


■ PBL派内部の分裂

以上のことをまとめると、現在の大学・大学院教育におけるPBL手法の導入やその定着維持の立場をめぐっては、次の3つの見解があると思われ る。

(1)大学・大学院教育をPBL中心におこなうべきだと考える根本派ないしは原理主義者(radical-fundamentals)

(2)PBLに多くの可能性を信じながら従来の古典的系統学習も併存すべきと考える折衷派ないしは妥協派(eclectics)

(3)PBLの学習への改善効果に懐疑し、PBLの導入に異議をとなえる反対派ないしは保守派(oppositionist- conservative)

 これらの対立は、ただたんに大学ならびに大学院における世俗的な勢力分布について指摘しているだけではない。これらの意見を表明する人たちが PBLをどのように理解し、またそれによって今後の医学教育がどのように変わろうとしているのについて、立場や行動を通して、PBLがいったいどのような 教育であるのかを示唆しているのである。


■ 系統的学習とは?

 PBLを内在的に理解するためには、その批判の対象になり、また長い間PBLの仮想敵と思われてきた「従来の学習」に関するモデルについて 知っておく必要がある。その従来の学習のモデルとは、ひとことで言うと「系統的学習(systematic learning)」と呼べるものである。  系統的学習に関してはいくつかの認知的フレーム——PBL業界の〈常識=コモンセンス〉——がある。それは、理論と実践の対比、基礎と応用の対比、であ る。系統的学習が生起する世界では、知識は時代の経過とともに累積し、また洗練化をとげていくものとされている。実践に対する理論の優位性、応用に対する 基礎の優位性はここからくる。またそれらは、相互に補完的であるので、それぞれの逆の側の賞讃という事態も生じることがある。これらの優位性がどちらのも のになるかは、系統的学習をどのような社会的文脈の中に表現するかによって、おもに決定するものと思われる。

 科学者は研究や実験を通して、この世界に「新しい知見」を提供しようと努力し、また世間は、知識の蓄積と発展は善き物であると信じている。ま た、知識とは、教師、教科書、実験室、実験機材、ひいては科学者集団が構成する学会/学界など、目に見えるかたちで外在化されるものとしてたちあらわれて いる。

 系統的学習の権威構造は、より知る者である教師が、より知ることが少ない学生を支配するという社会構造を正当化することにつながる。したがっ て、このような認知的フレームの中では、知識は現場にあるとか、現場において現場力から構成される、などという表現は妄言に近いものになる。系統的学習に おいて、知識と新知見の再生産を維持するシステムは、学術論文(ジャーナル)生産・流通システムである。


■ 福音としてのPBL

 これらの状況がマンネリ化し、極限まできたと思われる時、人々は、知識の増大化が加速度的に進み、それについていけない人間が最後には押しつ ぶされてしまうだろうという危惧をいだくことになる。このような状況は、学習法の福音としてPBLを迎える準備が整っているというふうに理解することが妥 当であろう。

 系統的学習への、トータルな批判と、その代替案をPBLがもつことは明らかである。系統的学習批判としてのPBLの福音とは次のようなことで ある。理論は実践状況において学ばれる必要があること(理論/実践を二分化してみない)。また、基礎は応用の現場で学ばれてこそ身に付く(基礎と応用の知 的分業作業の否定)。知識は、外在化される必要があるが、知識を使うためには、系統的学習者が想定しているような、網羅的な学習をおこなう必要はなく、そ のケースに応じた正確な知識が、適当な知的リソース(図書館、インターネット、熟達者など)にアクセスすることを通し、使えるようになればよい。知識の調 達たる学習は、教師と学生の権威主義的な構造においてのみ可能になるのではなく、さまざまな知識理解が可能である。場合によれば、代替的方法のほうが民主 主義的かも知れない、などなど。  そこでPBLの登場である。


■ PBLの顛末

 これまでしつこいほど述べてきたようにPBLは、複雑な知識と技能を必要とする専門家をホーリズムの観点から養成するため、既存の系統的学習 に対する代替的方法として生まれた。

 PBLが系統的学習という仮想的敵をどのようにみるかで、その内部の理論的洗練度には違いがでる。それゆえ系統的学習を過度に敵視しPBLの 理念を純粋に守ろうとする発想は、PBLの理論の内旋(involution)すなわち学問の正当化のための探究がしばしば過剰に様式化ないしはバロック 化することが起こった。PBLの本物派には、誕生地のマックマスター大学、のちに創始者バロウズの栄光の地をもとめた転勤の行き先である南イリノイ大学、 あるいはニューメキシコ大学などがある。これらの大学の医学校はエリート校ではないので、ニューメキシコ大学のようにPBLをプライマリーケアの専門家、 つまり臨床医学一般を幅広くカバーすることができるジェネラリストの育成主義に利用することが自己目的化する。

 他方ハイブリッド型PBL、つまり系統的学習の必要なところは温存しておくハーバード大学のような折衷派PBLは、やはり、PBL原理派には 採用できないような系統的学習の理論生産の牙城つまり研究者養成が中心のエリート校で使われている。

 この傾向は1990年代にようやく導入される日本でもおこった。それも系統的学習への信仰がきわめて厚く、かつハーバード大学のような一流ど ころの方法論を鰯の頭同様恭しく押し頂くがごとく信仰するPBLの日本への医学教育は、概ね折衷派のPBL主義者が多数派を占めた。すなわち日本でPBL を熱心に導入したのは、東京女子医科大学のような私学の医学部で教育熱心な大学か、岐阜大学や山口大学のような地方大学である(あえて地方大学という言葉 を使うのは、差別の烙印としてではなく、地域からの実情に社会的に応えているというニュアンスを強調するためであることをお断りしておきます)。教育熱心 なそれらの大学の特徴はいうまでもなく医学教育改革の先進校であり、かつ医師養成の理念の中に良質なジェネラリストを育てるという目標をもっているからで ある。

■ 方法死すとも理念は死なず

 歴史的にみれば、PBLの熱病のような流行と、結局のところ妥協の産物としてのハイブリッド派PBLの定着は、本物派のPBLがすでに「終 わっている」ことを示唆している。しかし、すでに死んでいる本物派のPBLの墓碑銘を書くとすれば、未完のプロジェクトであるPBLが我々に対してもたら そうとしていた高潔な「期待される学習像」の主張は次の3点に要約できる。なおそれに続く反論は、私が考えたそれぞれの批判(=ツッコミ)である。

PBLにおける〈期待される学習者像〉:解説文が想定される批判である。

 主張(1):永続的な自己教育サイボーグになりなさい。

 主張(2):人間関係調整能力としてコミュニケーション力を陶冶しなさい。

 主張(3):永続的学習を通してプロフェッショナリズムを内面化しなさい


■ 現実は厳しい

 反論(1):人間はそこまで根性ないし高潔さを維持し続けるのも限界があるだろう。だから、この自己教育サイボーグ化には一定の限度・限界が ある。

 反論(2):コミュニケーション能力は狡猾に生きるためにも使われており、[宗教実践化でない限り]その有用性を否定するわけにはいかない。 つまりコミュニケーション能力は多様に使われ、人間関係調整力はその一部の行使にすぎぬ。

 反論(3):市民社会ではプロフェッショナリズムは自己管理されるが、また外部の権力によって制御される必要があることは常識。プロフェッ ショナルの正義感やオートノミーを信じる人はもはや誰もいない。つまりアナクロニズム(時代錯誤)ではないだろうか。


■ それでもなおPBL万歳!

 PBLは学習の現場において理論と実践[のプラン]を、具体的な課題をとおして総合的に習得させることである。医学教育におけるPBLと系統 的学習の最終的な課題達成パフォーマンス、つまり医師検定試験の合格率に有意の差を見つけることはできない。しかし学習者の満足度は系統的学習よりも高い らしい。歴史的な事実として、系統的学習をPBLの仮想敵と見なしてきたことは、PBL手法の大学における政治的勝利、すなわち高等教育において大きな シェアを占めることはそれほど大きな成功を収めていない。最初に生まれた本物派PBLよりも、系統的学習と妥協した折衷派PBLが教育市場では優勢になっ た。PBLを唱道する教育家たちがその方法論に込めた理念は、現代における専門家の理想像との符合関係があるが、それは専門家の卵がPBLにより実際にそ のような理想的学習者になるかどうかということは別の次元の話である。

 以上が、医学教育におけるPBLの普及と定着についての歴史的吟味をおこなった時に、我々が導ける一連の結論である。


■ 結論

そして本発表における聴衆である、ものづくり・創造性教育に携わる専門家である皆様に対して先行事例である医学教育のPBLから一体何が教訓と して引き出せるだろうか。それはある歴史的経験という舞台のなかで芝居を再演(represent)する際に、前任の役者の失敗を繰り返さず、よい演技は 積極的に模倣して、そして最後はその演技そのものを自家薬籠中のものにすることである。そのためには日本のボードゲームの代表である双六にみられる「振り 出しに戻る」という命令を実行することである。

 双六では、骰子の目のように遊びのある部分は運命に支配される。PBLには内在する論理だけでは克服できない社会的な力や「偶然性」に支配さ れていた。しかし、その節目節目の問い、例えば極端な原理主義派が出てきた時にどうするか?あるいは折衷主義派との調停をどのようにすべきか?について具 体的な判断が求められる時には、双六のある局面で分かれ道を選ぶことができるように、専門家自身による意思の疎通すなわちコミュニケーション行為をとおし て「意図的に」機会を切り開くことができるのではないか。その時に先行する医学教育のPBL導入の顛末の事例は、まさにPBLチュートリアルに登場する課 題のように工学PBLの未来を占うPBL学習の教材になる。そして双六のプレイヤーは、起こりうるさまざまな可能性を広範に検討し、蓋然性のある危険要素 を上手く脇にやり、複数の参加者の合意や理性的判断をとりながら、最終的に適確な診断と治療方針という意思決定に到達することができるかもしれない。

 この最後の教訓から導きだせる唯一の結論は「理解するだけでは不十分だ、やってみることが大切だ」ということになる。これは同時に私から皆さ んに贈りたいメッセージでもある

■ 皆さんの質問と応答

・チューターとTAの使い分け

・TAをチューターとして使うメリット・デメリット



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