かならず 読んでください

なぜシステムはバロック化をとげるか?

Why do the systems become baroquenization?

池田光穂

バロックは何らかの本質にかかわるものではない。むしろ、ある操作的な機能に、線 にかかわっている。バロックはたえまなく襞を生み出すのであり、事物を作りだすので はない。東洋からきた髪、ギリシャ的、ローマ的、ロマネスク的、ゴシック的、古典的 ……といった様々な襞がある。しかしバロックは襞を折り曲げ、さらに折り曲げ、襞の 上に襞、襞にそう襞というふうに、無限に襞を増やしていくのである。バロックの線と は、無限にいたる襞である。そして何よりもまずこの線は二つの方向にそって、二つの 無限にしたがって、襞に差異を与える。あたかも無限は、物質の折り目(replis)と、 魂の襞(pils)という、二つの階層をもつかのようである。下の階では、物質が第一の 種類の襞にしたがって集積され、ついで第二の種類にしたがって組織される。物質の部 分は「異なる仕方で折り畳まれ、いろいろな程度で展開される」器官として組織される からである(ライプニッツ『実体の本性と実体相互の交渉ならびに心身の結合についての新たな説』著作集8)。上の階では、魂が神の栄光をうたいあげる。魂は自分自身の襞の中をかけ めぐるが、襞をすべて展開することはないからである。「襞には際限がないからで ある」(『モナドロジー』第61)。一つの迷宮は、語源からしても〈多〉と呼ばれてよい。迷宮にはたくさんの襞を もつからである〈多〉とは、単にたくさんの部分をもつものではなく、たくさんの仕 方で折り畳まれるもののことである。まさにおのおのの階層に、一つの迷宮が対応する。 すなわち、物質とその部分におげる連続的なものの迷宮、そして魂とその述語における 自由の迷宮である。デカルトがこれらを解明することができなかったのは、連続的なも のの秘密を直線的な経路の中に求め、自由の秘密を魂の車線に求めるだけで、魂の勾配 にも、物質の曲線にも目をむけなかったからである。自然を数え上げ、魂を解読し、物 質の折り目の中をのぞき、魂の襞の中を読むための、一つの「暗号解読法」が必要なの である」(ライプニッツ『結合法論』『人間知性神論』)——(ドゥルーズ『襞』宇野邦一訳、Pp.9-10、1998年)。 

"And compounds are in this respect analogous with [symbolisent avec] simple substances. For all is a plenum (and thus all matter is connected together) and in the plenum every motion has an effect upon distant bodies in proportion to their distance, so that each body not only is affected by those which are in contact with it and in some way feels the effect of everything that happens to them, but also is mediately affected by bodies adjoining those with which it itself is in immediate contact. Wherefore it follows that this inter-communication of things extends to any distance, however great. And consequently every body feels the effect of all that takes place in the universe, so that he who sees all might read in each what is happening everywhere, and even what has happened or shall happen, observing in the present that which is far off as well in time as in place: σύµπνοια πάντα, as Hippocrates said. But a soul can read in itself only that which is there represented distinctly; it cannot all at once unroll everything that is enfolded in it, for its complexity is infinite. " - Gottfried Wilhelm LEIBNIZ, The Monadology. #61


軍事技術のバロック化とは、バロック芸術(Arte barocca)のように、軍事技術は、その当時のイノ ベーション(そのものよりも思想)を受け入れて、次々と「効用」以上の肥大化を遂げてしまうこと、をさす。第二次大戦中の戦艦大和Japanese battleship Yamato, Aug.08, 1940-Dec. 14, 1945)の建造などは、そのバロック化の際たるものである。

The baroquenization of military technology refers to the fact that, like baroque art (Arte barocca), military technology embraces the innovations of the time (ideas rather than the technology itself) and successively expands beyond its "utility."

Yamato near the end of her fitting out, 20 September 1941 at Kure Naval Base, Japan. Interno della chiesa del Gesù, Roma (la volta è del Baciccio)

バロックという用語と概念を一番最初に軍備に関して 導入し たのは、ハーバート・ヨーク(Herbert Frank York, 1921-2009)という核物理学者である。彼は元・リバモア放射線研究所(Lawrence Livermore National Laboratory)の所長で、政府高官も務めたことがある(カルドー 1986:9)。

ヨークの略歴にはこうある。

" After leaving the laboratory in 1958, he held numerous positions in both government and academia, including the first Chief Scientist of the Advanced Research Projects Agency, and the first Director of Defense Research and Engineering.York was a professor of physics at the University of California, Berkeley. He was the founding Chancellor of the University of California, San Diego (1961–1964, 1970–1972). He later served as U.S. ambassador to the Comprehensive Test Ban negotiations in Geneva, Switzerland (1979–1981). York was Director Emeritus of the Institute on Global Conflict and Cooperation at UC San Diego and served as chairman of the university's Scientific and Academic Advisory Committee, which oversees activities at both Livermore and Los Alamos National Laboratories. He also served on the board of the Council for a Livable World, a nonpartisan arms control organization in Washington, D.C. York occasionally guest lectured for UC San Diego and other institutions" - Herbert Frank York, 1921-2009

バロック化する要素は、システムそのものの自己目的化、自己増殖肥大化、内向的完成(の自己目的)化な どによることが指摘されている。

このバロック化を核戦争の武器開発のみならず、兵器 一般の開発競争に敷衍したのが、メアリ・カルドー(Mary Kaldor, 1946- )のいう「バロック的兵器廠」(1981)である。

カルドーのアイディアも、やはり核兵器の開発戦争 の、インヴォルーション(内旋化)の現象から来ていることは、彼女のこの書物が書かれた彼女のアカデミックキャリアーから推察できる。

"Before the LSE, Kaldor worked at the Stockholm International Peace Research Institute (SIPRI) and now serves on its governing board.[4] She also worked at the Science Policy Research Unit at the University of Sussex,[5] where she worked closely with the English economist Christopher Freeman. She was a founding member of European Nuclear Disarmament, editing its European Nuclear Disarmament Journal (1983–88). She was the founder and Co-Chair of the Helsinki Citizens Assembly,[5] and a founding member of the European Council on Foreign Relations" - Mary Kaldor, 1946-

●イノベーションが起きてバロック化が終焉するケー ス

ドナルド・ノーマン『インビジブル・コンピュータ』 (邦訳260ページ)に飛行機のコックピットは、さまざまな計器がどんどん付加される傾向にあったのが、ビデオモニターの登場で少なくなっていったという アピソードが紹介されている。計器が複雑さを極めたのがコンコルドConcorde, 1969-2003)だという。

左)コンコルド;右)ボーイング777Boeing 777

●戦争の技術論(「大艦巨砲主義」を事例に)

「大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、艦 隊決戦による敵艦隊撃滅のため大口径の主砲を搭載し重装甲の艦体を持つ戦艦を中心とする 艦隊を指向する海軍軍戦備・建艦政策および戦略思想[1]。巨砲大艦主義、巨艦巨砲主義、巨砲巨艦主義、大艦大砲主義とも言う。 英国海軍戦艦ドレッドノート (1906年)が各国間の建艦競争を大艦巨砲主義に走らせる契機となった[2]。しかし、タラント空襲や真珠湾攻撃、マレー沖海戦の戦訓により、適切な航 空援護なしに戦艦を戦闘に参加させてはならないことが認識された[3]。19世紀末ごろから主に蒸気機関の発達によって、大型で高速の艦艇が作れるように なった。 同時に艦砲は大型化するほど射程も伸び、威力も大きくなる。そこで、大型の軍艦に大型の砲をより多く搭載しようという考え方が大艦巨砲主義であり、19世 紀末から20世紀前半まで主要海軍国で支持されていた[4]。 日本海軍でも、日露戦争時の日本海海戦で大艦巨砲と「艦隊決戦」を至上とする考え方が確立された(海 戦要務令)。その後も太平洋戦争後半期まで軍令・戦術上の主流となった。長駆侵攻してくる敵艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その 際の主役は戦艦とされ、航空母艦・巡洋艦・駆逐艦などは脇役に過ぎないという思想があった。[要出典] 大艦巨砲主義の進展は、方位盤をはじめとする射撃管制装置の発達とも関連し ている。射程の長い砲があっても、遠距離で敵艦に命中させられる技術がなければ無意味だからである。 「ドレッドノート」が画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とする射法の完成あってのことである。1940年頃まで各国の戦艦は光学式測距儀と方 位盤射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。しかし米英では1941年以降レーダーの実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりもレーダーを使 用した電測射撃に移行していった。これに対し、日独は米英に電子兵装で格段に後れを取り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用し た。なお、フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したもののその効果は不明である。イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみだった。 光学式の測距はとくに遠距離射撃では誤差が大きく、近距離でも夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にレーダー管制に劣っていた。そのため、水上艦艇同士 の戦闘において電測射撃が行えることはかなり優位だった。ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの方位探知角が不足しており、時には光 学観測射撃に後れを取ることもあった。[要出典]。他国より大型の戦艦に巨大な主砲を搭載するという、文字どおりの大艦巨砲主義は1936年のワシントン 海軍軍縮条約明け後には終焉を迎え、 前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。 第一次世界大戦中の1916年に生起したユトランド沖海戦において、イギリスとドイツが弩級戦艦・超弩級戦艦を含む艦隊で衝突し、長距離砲撃戦の重要性が 再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まり[5]、速力と防御力の向上を追求したポスト・ジュットランド艦(高速戦艦)が建造されたが、必然的に 排水量も増えてしまい主砲口径の増大を諦めざるを得なかった為である。 この反省から、速力・防御力のバランスが戦艦の設計で重要視されるようになった。これまでの戦艦は速度を、巡洋戦艦は防御力を妥協して排水量を抑えていた が、そのような設計の問題点が明らかになった。 そして、航空機の発達により第二次世界大戦中に航空機の優位が確立、航空主兵論の台頭が戦艦時代の終わりを告げることとなった。 アメリカで計画されていた、大和型戦艦(72,800t 45口径46cm 9門)と同等のモンタナ級戦艦(71,922t 50口径16インチ砲 12門)全5隻が1943年に建造中止されたことをもって戦艦は終焉を迎えた。 その後竣工したアイオワ級戦艦やヴァンガードやジャン・バールなどはそれ以前に起工したものであり、以後戦艦の新造は行われていない」大艦巨砲主義)→「戦争の文化人類学的研究」より)。

リンク

文献

その他の情報


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2017-2019

Do not copy and paste, but you might [re]think this message for all undergraduate students!!!

九〇式大聴音機(Pre-World War II photograph of Japanese Emperor Shōwa (Hirohito) inspecting military acoustic locators mounted on 4-wheel carriages)

tecolote