社会福祉とネオリベラリズム政策
Social Welfare and Neo-libreal regime : A Japanese case
解説:池田光穂
【緒言】
武川正吾「ネオリベラリズムの彼方へ」『社会政策の社会学』ミネルヴァ書房、Pp.405-443、2009年、は我が国における社会福祉 といわゆるネオリベラル政策との関係を俯瞰するのによい好著である。武川の所説を引用・整理することで、このことに関する基本的知識を吸収しましょう!
■ 本に入る前に
(1)社会保障の強化は、市場原理に対して効率性を犠牲して抑制的に働くという大原則があります。
(2)福祉国家という政府が市場原理に対して何らかの犠牲を強いる政策を嫌い、最低限の保証すら必要ないという極端な主張は夜警国家(論) といいます。つまり夜警国家(night watchman state)とは、国家 の仕事は、外敵に対する防衛と、国内治安の維持だけに専念すればよいという国家運営理念のことです。
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社会福祉とネオリベラリズム政策についての見取図
時代区分
1950年〜1975年
1975年〜2000年
■福祉元年
「田中角栄内閣は1973年を福祉元年と位置づけ、社会保障の大幅な制度拡充を実施した。具体的には、老人医療費無料制度の創設(70歳以 上の高齢者の自己負担無料化)、健康保険の被扶養者の給付率の引き上げ、高額療養費制度の導入、年金の給付水準の大幅な引き上げ、物価スライド・賃金スラ イドの導入などが挙げられる」(ウィキ/日本語)。
「日本における福祉国家の形成が本格化して社会政策が新しい段階を迎えた一九七〇年代に、経済学者だけでなく社会学者の間でも社会政策に対 する関心が芽生え、……”社会政学の社会学”の形成が始まったのである。その意味で一九七〇年代の半ばは、日本の”社会政策の社会学”にとっての”第一の 転機”であった」(武川 2009:407)。
「欧州諸国は二〇世紀の半ばまでには福祉国家へと離陸し、「戦後の黄金時代」(Maddison 1989)と呼ばれる一九五〇年から一九七三年の間に、社会政策を順調に発展させることができた。ところが日本が福祉国家へと離陸した一九七〇年代前半と いう時期は、ちょうど世界経済の「戦後の黄金時代」が終了した時期と重なる。金とドルの兌換が停止され戦後の通貨体制が大きく変更を余儀なくされた一九七 一年のニクソン・ショックに追い打ちをかけるかのように、一九七三年には第四次中東戦争に端を発した石油ショックが勃発して原油価格が大幅に高騰し、世界 経済は物価上昇と経済停滞が同時に進行するスタグフレーションの時代へと突入した。そして先進諸国は一斉に「福祉国家の危機」と当時呼ばれた事態へと陥る ことになる。一九七三年の「福祉元年」とはまさにこのような状況の真つ只中での出来事だった。日本の福祉国家は、第3四半期に飛躍的な発展を遂げた欧州諸 国の福祉国家の場合とは異なって、第4四半期の国際環境によってその順調な発展が大きく妨げられることになったのである(武川一九九九b 一五章)。このため日本の福祉国家は、離陸はしたものの、ただちにジェット気流に巻きこまれたようなものである」(武川 2009:408-409)。
■日本型福祉とネオリベ
「日本の場合、一九八〇年代には固有企業の民営化が進んだが、(社会支出の抑制が「国民負担率」の問題として争点化されるものの)社会政策 における民営化は重要な争点とはならなかった。イギリスで年金の民営化を政府が構想し、そしてそれが挫折するのは一九八〇年代の半ばのことである(武川一 九九九三a)。ところが日本で 公的年金の民営化が話題に上るのは、イギリスで年金民営化に関する議論の熱気が冷めてから約一五年後のことである。小測内閣の下に設置された経済戦略会議 がその答申のなかで、「報酬比例部分(二階部分)については段階的に公的関与を縮小させ、三O 年後に完全民営化を目指した本格的な制度改革に着手する」ことを提案したのが一九九九年であった(経済戦略会議一九九九)。ただし日本の場合は、イギリス の場合と違って公的年金民営化が法案になることもなかった。そして一二世紀初頭には日本でも年金民営化論は鎮静化した」(武川 2009:411-412)。
「二〇〇一年の「骨太の方針」(「経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」)では、「聖域なき構造改革」がうたわれ、「医 療、介護、福祉、教育など従来主として公的ないしは非営利の主体によって供給されてきた分野に競争原理を導入する」ための「民営化・規制改革プログラム」 が提案された。そして、税収の増加のための「年金税制の見直し」や、「医療費総額の伸びの抑制」「老人医療費の伸び率の設定」など社会保障費抑制のための 提案がなされた。/二〇〇二年の「骨太の方針」でも、年金、医療、介護の見直しをつうじた国民負担率の抑制が再確認され、二〇〇三年の「骨太の方針」で は、社会政策におけるネオリベラリズムの方向性がさらに濃厚に打ち出された。そこでは「民間の活力を阻む規制・制度や政府の関与を取り除き、民間需要を創 造する」ために、「規制改革・構造特区」を導入することが決められ、社会政策を中心とする12の「重点検討事項」でネオリベラリズムの改めることとなっ た。ここでいう12の重点検討事項とは、以下を指しており、その多くはまさに絵に描いたようなネオリベラリズムの政策であった。
「ネオリベラリズムは、システム統合と社会統合を分離して、前者はもっぱら市場メカニズムに委ね、後者は放任するか伝統的な家族と地域(コ ミュニティ)に委ねるといった姿勢を貫いてきた」(武川 2009:412)。
■武川の「タイムラグ説」(引用者はこの所説を完全に信じるものではないが:reminding the fate of the Culture gap theory)
「このように日本の社会政策におけるネオリベラリズム的改革が本格化したのは、21世紀の初顕であった。日本は二〇世紀の第4四半期に福祉 国家の形成と危機を同時に経験したが、後者の契機に随伴するネオリベラリズムの影響が社会政策の分野にまで及ぶためには一五年以上の時間差を要したのであ る」(武川 2009:414)。
「ネオリベラリズム先発国イギリスでは、社会政策に対するネオリベラリズムの影響がいち早く現れ、社会統合の危機もその分早く問題化され、 したがって社会政策の調整もやはり早く始まった。このためシステム危機が発生する前に、すなわちマクロ経済の成果が比較的順調ななかで、社会政策の調整を 一定程度成し遂げることができた。そして、社会政策の調整がある程度進んだその後で、システム統合の危機が到来した。/ところがネオリベラリズム後発国で ある日本の場合は、これとは違う道を歩んだ。福祉国家への離陸とネオリベラリズムの国際的な台頭の時期が重なったため、社会政策の領域にネオリベラリズム の影響が及んでくるのが(公的年金の民営化論を指標にすると)約一五年遅れ、したがって社会統合の危機の到来(の認識)も十数年遅れ、社会政策の調整の開 始も十年近く遅れた。しかしシステム統合の危機は世界同時多発的であったことから、先発国も後発国も同時に経験した。社会統合の危機にともなう社会政策の 調整がまさに始まろうとしていた矢先に、システム統合の危機が勃発したことになる。このため社会統合の危機は、そうでなかった場合に比べてさらに深刻な影 響を被った。とくに社会保障費の削減や労働市場の規制撤廃が相当進んでいたこともあって、経済危機による失業者の増加と貧困の拡大はその深刻さの度合いを 増した」(武川 2009:427)。
■社会的包摂(social inclusion)の〈起源〉
「イギリスの場合、社会政策におけるネオリベラリズムの影響も早かったが、そこからの軌道修正も早かった。というのは、一九八〇年代のイギ リスでは、住宅政策を皮切りに社会政策のあらゆる分野で民営化がスローガンとなった——イギリスにも日本の二〇〇三年の「骨太の方針」のなかで列挙された のと同様のネオリベラリズムの社会政策が追求された時期があった——のだが、一九九〇年代に入ると、その内実はともかく「人間の顔をしたサッチャリズム」 などという主張が現れて、八〇年代のような過激なネオリベラリズムの物言いは控えられるようになった。さらに九〇年代も終わりに近づくと、ブレアの率いる 新しい労働党が政権を獲得し、いわゆる「第三の道」が広く支持を集めることになり、社会政策については、八〇年代のように民営化を金科玉条の唱える教説か らの軌道修正がさらに続いた。新しい労働党は、福祉国家の民営化ではなく近代化をスローガンとして掲げた。もちろんブレア政権の成立によって一九七九年に 始まった体制が否定されたわけではなく、同政権がおこなったことがこの体制(レジーム)内での変革であったことは否定しがたい——福祉国家の民営化と近代 化との聞に水と油ほどの違いがあるようには思われない。しかし他の欧州諸国と同様、イギリスでも社会的包摂の考え方が社会政策の理念として採用されたこと の意味は大きい。少なくとも八〇年代のような急進的なネオリベラリズムの影響力が、社会政策の領域では弱まったからである。日本の方で件の「骨太の方針」 (二OO 三年)が閣議決定される頃までには、イギリスの方では、「社会的包摂に関する全国行動計画』(United Kingdom National Action Plan on Social Inclusion 2003-2005) が策定され、その冒頭で、「貧困との闘いは、イギリス政府の全社会経済的プログラムの中心である」と宣言されるまでになっていた(Department for Work and Pensions 2003:3)」(武川 2009:426-427)。
文献
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