忘れる人のための国際関係論00:緒言
忘れる人のための国際関係論:目次(Index of virtual class
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国際関係[論]関係の学問が、文化人類 学関係の学問より、我が国では隆盛している理由のひとつに、「上級(ならびに中級)公務員の試験に、国際関係の試験科目はあるが、文化人類学の試 験科目はない」というものがある。
試験科目には「暗記」という問題がつきまとう。つまり(学問を研究するのはともかく)その学問を 学ぶには、理屈を理解よりも項目を暗記することが重要である、という畏るべき事態がある。
それゆえ、試験科目があり、またマニュアル化した暗記すべき補助教材がある「国際関係論」と、文化相対主義という実践的理性が中心にあり、時間をかけた理解を声高に謳う理想主義の「文 化人類学」との学問の影響力に関する勝負は決まったようなものである。
おまけに、文化人類学者の多くは、ナショナリズムで規定されるような「国際関係」論については概 ね無関心ないしは、無意識的に避ける傾向がある。なぜなら、生きた生活に焦点を当てる文化人類学者にとって、国際政治や紛争などの活動はきわめて国家概念 に呪縛されており、また生きた生活からほど遠いものと理解しているからである(グローバル化した状況において、もはや国家政治が市民生活にとって無視し得 ないほどの影響力をもっているものだとしても、「それ以外の重要な人間活動」はあるのだと、文化人類学者はあくまでも信じたがる)。
したがって文化人類学者が、国際関係「論」を講じるのをためらうのは、それができないからではな く、文化人類学者のエトスに反する、つまりそれを講じたくない心情が働くからであると思われる。
このようなハンディを背負っても、国際関係論には文化人類学が必要であると、私は主張したい。ま た、国際関係論の枠組みを、文化人類学の知見によって、脱構築ないしは、組み直すための提言をおこなうことで、文化人類学と国際関係論は、相互に批判的な がらお互いのよき面を補完的に保障しあえる学問になるのではないかと思う。
それが、今回、私が文化人類学者でありながら、国際関係論を講じることになった理由である。
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なお、参考書である梶田孝道編『新・国際社会学』(2005)の利用については以下のページを参 考にしてください。
課外授業:北朝鮮を どのように民主化すべきなのか?
■ 本ページの写真はムルロア環礁でのフランスの核実験の実写写真をもとにフォトショップで加工したイメージ写真です。