忘れる人のための国際関係論08:中東情勢
International
Relation for Japanese Dummies: War and Peace in the Middle-East
中東戦争
パレスチナ問題(Israeli–Palestinian
conflict):הסכסוך הישראלי-פלסטיני
القضية الفلسطينية
1915年 フセイン-マクマホン協定(McMahon–Hussein Correspondence)により、英国はオスマン帝国内にアラブ人国家建設を約束。
1916年 サイクス・ピコ秘密協定により、第一次大戦後のオスマントルコの分割についての国際間のとりきめ(ぶんどり案)。これ によるとエルサレムを含むパレスチナは国際管理下におくことになっていた。
1917年 バルフォア宣言により第一次大戦後にパレスチナに ユダヤ人国家の建設を英外相バルフォアが約束。
1947年 英国パレスチナ委任統治を放棄、国連に委ねる。国連総会はパレスチナ分割決議を採択
し、イスラエルの建国がはじまる。
1948年 イスラエル建国宣言と第一次中東戦争勃発
「1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。翌5月15日にはイスラエ
ル独立に反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)がパレスチナへ進軍し、パレスチナ人側に立っ
てイスラエルと戦闘を始めた。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する
形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間
の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そし
て、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。イスラエルでは、この戦争を独立戦争と呼ぶ。この戦争によって、イスラエル
は独立を確保し、領土も国連による分割決議以上の範囲が確保された。ただし聖都であるエルサレムは西側の新市街地区しか確保することができず、首都機能は
海岸部のテルアビブに暫定的に置かれることとなった。パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西
岸がトランスヨルダンに、地中海沿岸のガザ地区がエジプトに、それぞれ分割された。
この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心
のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になって
しまった。アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかったため、イスラエルに対する敵意を募らせた。終戦後
も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた。また、この戦争によって主にイスラム系のパレスチナ人が多
く国を追われ、大量のパレスチナ難民となって周辺各国へと流入した。イスラエルは首都をエルサレムへと移転させたが、この移転は世界各国から認められず、
各国大使館は旧暫定首都であるテルアビブに置かれたままとなった。」- http://bit.ly/37ZRco2
1956年 エジプト・ナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言、イスラエルはエジプトに軍事侵攻する(第二次中東戦争)。運河の 利権に関与する英仏は軍事介入しイスラエルを支援。米国の調停で三国はシナイ半島より撤退。
「1956年にエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、当時のエジプト大統領ナセルは7 月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フラ ンス両国はこれに反発した。そのため、10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入した。 戦争は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島 の大半は、イスラエル軍が占領することとなった。イスラエル軍が進撃中の、11月5日イギリス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸した。しか し、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリス・フランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こり、11月6日 に国連の停戦決議を受け入れることとなった。これがPKOの起源である。12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受 け入れた。エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開した。 一般には「スエズ動乱」や「スエズ戦争」とも呼ばれる。この戦争においてはイスラエルは第一次中東戦争とは違い、非常に練度が高く優れた装備の軍によって 純軍事的にはエジプトを圧倒したが、アメリカやソヴィエトなどの介入により外交的に敗北し、軍事力の誇示以外には何も得るところなく終わった。エジプトは 純軍事的にはなすところなく敗北したものの、外交によって戦争目的であるスエズ運河国有化を果たすことに成功し、アラブ世界における威信を大幅に上げ、ナ セルはアラブ世界の盟主としての地位を獲得した。この戦争によってもっとも損害を受けたのはイギリスであり、アメリカ・ソヴィエトの両大国の介入になすと ころなく撤退を余儀なくされたことは世界に盟主の交代を強く印象付け、イギリスの凋落は決定的なものとなった。以後、イギリスは中東地域において能動的な 役割をほとんど果たさなくなり、1970年代初頭には残されていたペルシャ湾岸・オマーン・アデン・ハドラマウトの各保護領から撤退してこの地域から完全 に手を引くこととなった。」- http://bit.ly/37ZRco2
1967年 イスラエルはエジプト・シリア・ヨルダンへの侵略攻撃を開始し第三次中東戦争勃発。ヨルダン川西岸、シナイ半島(〜 1979年まで領有)、ゴラン高原を制圧し、領土とした。
「ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエ ルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊さ れた。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半 島・シリアのゴラン高原を迅速に占領し、6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領[2]。開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルとヨルダン およびエジプトの停戦が成立し、シリアとも6月10日に停戦。なお、6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。 この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した。イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置 いたばかりか、さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、国際 的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。日本の地図において現在はイスラエルの支配下にあるヨルダン川西岸やゴラン高原がそれぞれ ヨルダンおよびシリアの領土として表示されているのはこのためである。また、ユダヤ教徒の悲願であった嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の 支配権もイスラエルが獲得し、エルサレムはすべてイスラエル領となった。ただしこの併合も国際社会からは認められず、後の論争の火種となった。そしてこの 劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。 アラブ側においては全くの完敗であり、第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、パレスチナからアラブ側の領土 は消滅した。ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。第二次中東戦争におい てエジプトが確保したスエズ運河も、運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。このためヨーロッパ・アメリカ東海岸か らアジアへと向かう船はすべて喜望峰回りを余儀なくされることとなり、世界経済に多大な影響を与えた。スエズ運河は、第四次中東戦争が終結しエジプト・イ スラエル間の関係がやや落ち着いた1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。ただし、イスラエルの存在を認めず、敵対を続けるという一点 においてはアラブ側は一致しており、戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、アラブ連盟はイスラエルに対し「和平せ ず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した[3]。また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存 地域やゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。」- http://bit.ly/37ZRco2
1973年 エジプトとシリアがイスラエルを奇襲攻撃し第四次中東戦争勃発。イスラエルの反撃後、国連安保理決議により停戦。
「1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始され た。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅 れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイル を揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与 えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成 功した。 初戦において後れを取ったイスラエルであるが、反撃にかかるのは迅速だった。ヨム・キプールは安息日であり、予備役は自宅で待機しているものがほとんど だったため、素早い召集が可能だったのである[6]。10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵 力を投入する戦略がとられた[7]。大量の増援を受けたイスラエル軍は、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再 占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにい たり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。10月に勃発したので十月戦争、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたのでヨム・キ プール戦争(Yom Kippur War)とも呼ばれる。 この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、初戦における大敗 北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、初 戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、エジプト大統領アンワル・サダトの名声は非常に高まった。さらに緒戦においてではあるが、エジプトが勝利 し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、エジプトはイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。後のキャンプ・デービッ ド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。 なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルがスエズ運河を逆渡河しイスラエルが優勢になりはじめた10月16日、石油輸出国機構の中東 6カ国が原油価格を70%引き上げ[8]、翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁 輸を決定し、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定[9]。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、原油 価格は急騰して世界で経済混乱を引き起こした。第一次オイルショックである。これによって、もともと1970年代に入り原油価格への影響力を強めていた産 油国はオイルメジャーから価格決定権を完全に奪取し、それまでのオイルメジャーに代わり価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるよう になった。また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、産油国の経済開発が進展することとなった。」- http://bit.ly/37ZRco2
1978年 アメリカのキャンプ・デービッドにおいて米国の仲介でイスラエルとエジプト間で首脳会談。翌年、平和条約が締結され る。イスラエルはエジプトにシナイ半島を返還。サダト大統領は81年に原理主義者より暗殺。
1993年 イスラエルとPLO間で相互承認の確認。パレスチナ暫定自治合意(=オスロ合意)
1995年 ラビン首相(イスラエル)ユダヤ極右派により暗殺。96年立法評議会選挙によりファタハ第一党にアラファト大統領選出 (〜2004)。
2006年 パレスチナ選挙、ハマースの地滑り的勝利。イスラエルはハマースを認めずガザ侵攻(ガザは下の地図の赤で囲まれた部分)を強 化。またレバノンの武装組織ヒズ ボラ鎮圧を名目にレバノンに侵攻。
●第四次中東戦争におけるのAshraf Marwan, 1944-2007役割, ︎Zvi Zamir
「The Israel Defense Forces (IDF) Directorate of Military Intelligence's (abbreviated as "Aman") Research Department was responsible for formulating Israel's intelligence estimate. Their assessments on the likelihood of war were based on several assumptions. First, it was assumed correctly that Syria would not go to war with Israel unless Egypt did so as well. Second, the department learned from Ashraf Marwan, former President Nasser's son-in-law and also a senior Mossad agent,[92] that Egypt wanted to regain all of the Sinai, but would not go to war until they were supplied MiG-23 fighter-bombers to neutralize the Israeli Air Force and Scud missiles to be used against Israeli cities as a deterrent against Israeli attacks on Egyptian infrastructure. Since they had not received MiG-23s and Scud missiles had only arrived in Egypt from Bulgaria in late August and it would take four months to train the Egyptian ground crews, Aman predicted war with Egypt was not imminent. This assumption about Egypt's strategic plans, known as "the concept", strongly prejudiced the department's thinking and led it to dismiss other war warnings. By mid-1973, Aman was almost completely aware of the Arab war plans. It knew that the Egyptian Second and Third Armies would attempt to cross the Suez Canal and advance ten kilometres into the Sinai, followed by armored divisions that would advance towards the Mitla and Gidi Passes, and that naval units and paratroopers would then attempt to capture Sharm el-Sheikh. Aman was also aware of many details of the Syrian war plan. However, Israeli analysts, following "the concept", did not believe the Arabs were serious about going to war.[93] The Egyptians did much to further this misconception. Both the Israelis and the Americans felt that the expulsion of the Soviet military observers had severely reduced the effectiveness of the Egyptian army. The Egyptians ensured that there was a continual stream of false information regarding maintenance problems and a lack of personnel to operate the most advanced equipment. The Egyptians made repeated misleading reports about lack of spare parts that made their way to the Israelis. Sadat had so long engaged in brinkmanship that his frequent war threats were being ignored by the world. In April and May 1973, Israeli intelligence began picking up clear signals of Egypt's intentions for war, recognizing that it had the necessary divisions and bridging equipment to cross the Suez Canal and a missile umbrella to protect any crossing operation from air attack. However, Aman Chief Eli Zeira was still confident that the probability of war was low.[93] Between May and August 1973, the Egyptian Army conducted military exercises near the border, and Ashraf Marwan inaccurately warned that Egypt and Syria would launch a surprise attack in the middle of May. The Israeli Army mobilized with their Blue-White Alert, in response to both the warnings and exercises, at considerable cost. These exercises led some Israelis to dismiss the actual war preparations, and Marwan's warning right before the attack was launched, as another exercise.[94]」- https://en.wikipedia.org/wiki/Yom_Kippur_War
「イスラエル国防軍(IDF)軍事情報総局(略称「アマン」)の調査部は、イスラエルの情報推定を策定する責任を負っていた。戦争の可能性
に関する彼らの評価は、いくつかの仮定に基づいていた。第一に、エジプトもそうしない限り、シリアがイスラエルと戦争することはないだろうという推測が正
しかった。第二に、エジプトはシナイ半島全域の奪還を望んでいるが、イスラエル空軍を無力化するためのMiG-23戦闘爆撃機と、イスラエルのインフラス
トラクチャーへの攻撃に対する抑止力としてイスラエルの都市に対して使用するスカッドミサイルを供給されるまでは戦争に踏み切らないだろうということを、
ナセル元大統領の娘婿でモサドの上級エージェントでもあったアシュラフ・マルワン[92]から学んだ。MiG-23はまだ届いておらず、スカッドミサイル
は8月下旬にブルガリアからエジプトに到着したばかりで、エジプトの地上部隊を訓練するには4カ月を要することから、アマンはエジプトとの戦争は差し迫っ
たものではないと予測していた。コンセプト」と呼ばれるエジプトの戦略計画に関するこの仮定は、同部門の思考に強い偏見を与え、他の警告を退けることにつ
ながった。1973年半ばまでに、アマンはアラブの戦争計画をほぼ完全に把握していた。エジプト第2軍と第3軍がスエズ運河を越えてシナイ半島に10キロ
前進し、装甲師団がミトラ峠とギディ峠に向かって前進すること、そして海軍部隊と空挺部隊がシャルム・エル・シェイクの攻略を試みることを知っていた。ア
マンはまた、シリアの戦争計画の多くの詳細を知っていた。しかし、イスラエルのアナリストは「コンセプト」に従って、アラブ人が本気で戦争をしようとして
いるとは考えていなかった[93]。イスラエルもアメリカも、ソ連の軍事監視団を追放したことで、エジプト軍の有効性が著しく低下したと感じていた。エジ
プト側は、整備上の問題や最新鋭の装備を運用する人材の不足に関する虚偽の情報が絶え間なく流れるようにした。エジプト人は、スペアパーツの不足に関する
誤解を招くような報告を繰り返し、それがイスラエル側に伝わった。サダトは長い間瀬戸際外交に終始していたため、彼の度重なる戦争の脅しは世界から無視さ
れていた。1973年4月と5月、イスラエルの諜報機関は、エジプトがスエズ運河を横断するために必要な師団と橋渡し設備、そして横断作戦を航空攻撃から
守るミサイルの傘を持っていることを認識し、エジプトの戦争への意図の明確なシグナルを拾い始めた。1973年5月から8月にかけて、エジプト軍は国境付
近で軍事演習を行い、アシュラフ・マルワンは、エジプトとシリアが5月中旬に奇襲攻撃を仕掛けてくると不正確な警告を発した。イスラエル軍は警告と演習の
両方に対応するため、多大な犠牲を払って青白警報で出動した。これらの演習によって、一部のイスラエル人は、実際の戦争の準備と、攻撃が開始される直前の
マルワンの警告を、別の演習であると見なすようになった[94]。」
「Zamir's concern grew on October 4–5, as additional signs of an impending attack were detected. Soviet advisers and their families left Egypt and Syria, transport aircraft thought to be laden with military equipment landed in Cairo and Damascus, and aerial photographs revealed that Egyptian and Syrian concentrations of tanks, infantry, and surface-to-air (SAM) missiles were at an unprecedented high. According to declassified documents from the Agranat Commission, Brigadier General Yisrael Lior, Prime Minister Golda Meir's military secretary/attaché, claimed that Mossad knew from Ashraf Marwan that an attack was going to occur under the guise of a military drill a week before it occurred, but the process of passing along the information to the Prime Minister's office failed. The information ended up with Mossad head Zvi Zamir's aide, who passed it along to Zamir at 12:30 am on October 5. According to the claim, an unfocused and groggy Zamir thanked the aide for the information and said he would pass it along to the Prime Minister's office in the morning.[92] On the night of October 5/6, Zamir personally went to Europe to meet with Marwan at midnight. Marwan informed him that a joint Syrian-Egyptian attack was imminent,[93] but incorrectly said that the attack would take place at sunset.[102]」- https://en.wikipedia.org/wiki/Yom_Kippur_War
「ザミールの懸念は、10月4日から5日にかけて、差し迫った攻撃の新たな兆候が検出されたことで高まった。ソ連の顧問団とその家族がエジ
プトとシリアを離れ、軍備を満載したと思われる輸送機がカイロとダマスカスに着陸し、航空写真からエジプトとシリアの戦車、歩兵、地対空(SAM)ミサイ
ルの集中がかつてないほど高まっていることが明らかになった。アグラナート委員会の機密解除文書によると、ゴルダ・メイル首相の軍事秘書官/付添人であっ
たイズラエル・リオール准将は、モサドは軍事演習を装った攻撃が発生する1週間前に、アシュラフ・マルワンから攻撃が発生することを知っていたが、首相官
邸に情報を伝えるプロセスが失敗したと主張している。情報は結局、モサドのトップであるズヴィ・ザミールの側近の手に渡り、10月5日の午前12時半にザ
ミールに伝えられた。それによると、集中力がなくグロッキー状態のザミールはその補佐官に情報を感謝し、朝になったら首相官邸に伝えると言ったという
[92] 。マルワンはシリアとエジプトの共同攻撃が迫っていることを伝えたが[93]、攻撃は日没に行われると誤って伝えた[102]。」
リンク
【練習問題】
25.第二次大戦後、パレスチナにユダヤ人国家をつくることを認めた「分割決議案」を採択したのはどの機関であるか?[ ]
26.中東和平の第一歩となったイスラエルとエジプトの1978年の首脳会談がおこなわれ、その会談の名称にもなっている場所はどこか?[ ]
27.2000年、その国家に対するゲリラ活動への報復措置として、パレスチナ自治政府の施設に空爆をおこなった国家の名前は?[ ]
文献