テクノアニミズム批判
Poverty of Takuji Okuno's the concept of "Techno-Animism"
もし奥野卓司(2002:45)のいうテクノアニミズムが、下記 のようなものであれば、それは連子符テクノがついたアニミズム概念の革新でもなんで もなく、単なる非西洋的な機械(非人間)と人間(動物)の一体感を表現するだけの非心身二元論を言い換えているだけにすぎないものになってしまう。奥野は それで満足なのだろうか?
「マクルーハンにしても、ウィーナーにしても、ドーキンスにしても、一方で強引なまでに「人間機械論」を主張しておきながら、最終的には、
人間が機械とはぎりぎりのところで「決定的に違う」と必死で言いたがる。おそらくそれは、彼らが西欧の近代的価値観にとらわれているからだろう。
ぼくたちに必要なことは、その西欧近代主義の価値観から、人間と他の生物、あるいは機械との違いを強調することではなく、遠いぼくたちの祖先がほかの動
植物と交わしていたアニミズムの世界を、近未来の情報環境に取り返すことだ。
かつて、東アジアに住む人々が、自分たちの周りの動物や植物、草木虫魚とあまねく話をしていたように、今日、この地域で電子機械が環境化するとともに、
そこに生きる若者たちは、クルマやケータイ、コンピュータ、ロボットなどと親和的な関係をもっている。これを、今日のアニミズム、つまり「テクノ・アニミ
ズム」と名づけることができるだろう」(奥野
2002:45)。
「(1)マクルーハンにしても、ウィーナーにしても、ドーキンスにしても、一方で強引なまでに「人間機械論」を主張しておきながら、最終的 には、 人間が機械とはぎりぎりのところで「決定的に違う」と必死で言いたがる。(2)おそらくそれは、彼らが西欧の近代的価値観にとらわれているからだろう。 (3)ぼくたちに必要なことは、その西欧近代主義の価値観から、人間と他の生物、あるいは機械との違いを強調することではなく、遠いぼくたちの祖先がほか の動 植物と交わしていたアニミズムの世界を、近未来の情報環境に取り返すことだ。(4)かつて、東アジアに住む人々が、自分たちの周りの動物や植物、草木虫魚 とあまねく話をしていたように、今日、この地域で電子機械が環境化するとともに、 そこに生きる若者たちは、クルマやケータイ、コンピュータ、ロボットなどと親和的な関係をもっている。(5)これを、今日のアニミズム、つまり「テクノ・ アニミ ズム」と名づけることができるだろう」(奥野 2002:45)。
【批判】
(1)マクルーハンは人間機械論など展開していません。ノーバート・ウィナーは「人間機械論」という著作がありますが、日本で訳本を販売す るみすず書店のタイトルで、人間の人間的利用だと思います。OPACでご確認ください。ドーキンスは、自己の遺伝情報を伝えるマシーンとして人間をとらえ ましたが、これは生物のことで、これすら、利他遺伝子や血縁選択など、「自己を超えた実体」の遺伝現象や、またエピジェネティクな形質発現からみれば、 ドーキンスの主張は完全にナンセンスです。人間と機械を、デカルトは人間と機械と同じようなものだと表現したり、人間のなかに機械的メカニズムを投影して 解説していますが、決して頭の中に鈴がありそれが松果体に伝令を伝えるなどとは書いていないのは、デカルトの「人間論」を読めば猿でもわかります。「必死 で言いたがる」のは、奥野先生のほうでしょう。頭を冷やしたほうがいい。
(2)マクルーハンにしても、ウィーナーにしても、ドーキンスは、西洋人ですので、皮相的な本質主義の立場をとればそうでしょう。これは前 の文章の誤りを同語反復しただけなので、なんの意味もありません。
(3)ここは素直に、俺たちは西洋人じゃないのだから、東洋の伝統のアニミズムで行こうという暴論です。アホとしか思えない。奥野先生、 (西洋近代の学術用語である)アニミズムをきちんと学説してから、叫びましょう。
(4)ここは、奥野先生が依拠した、岩田慶治『草木虫魚の人類学:アニミズムの世界』をじっくり読もう。松岡正剛先生が同書の解説をしているが、そちらのほうが、岩田先生 が、フンボルトなど、西洋の思想に深く学識があり、西洋がだめなら東洋で行こうという奥野先生のような安直な発想の持ち主でないことがわかります。
(5)前の文書を受けて、奥野先生は、我々(少なくとも私は含まれない)は、身の回りにある機械やモノにもアニミズム思考があるから、これ を「テクノ・アニミ ズム」と呼ぼうと提唱されておられている。これではワイゼンバウム(Joseph Weizenbaum, 1923-2008)先生のイライザ(ELIZA)の ようなものに人間性をみる「メディア等式」のような洗練さもないし、たんな る、我々(少なくとも私は含まれない)は、アニミズム中毒患者なんだから、アニミズムで満足すべきだと言っているのではないかと、僕は下衆の勘ぐりをして しまう。つまり、冒頭に述べたようにテクノという連辞符などはいらず、単なる「日本人はアニミズムだぜ」と言っているにすぎないことになる。理論用語とし ては失格だ。
機械の中の幽霊とは、デカルトの、内的に省察する自己のドグマ(身体=機械から切り離された内省する自己=幽霊)に関 するギルバート・ライルによる批判の表現である。(G・ライル)『心の概念』1949年。つまり、デカルトは心(res cogitans)と身体(res extensa)をわけ、前者に、直観、自由、分割不能、破壊不能そして自由意志という特権的な立場を与え、自己としての同一性の根拠も心にある ものとし て扱われる。にもかかわらず、我々は心と身体の両方をもつ存在としてある。あるいは、他方で、私というものは、私の身体と関連づけられてはじめて意味をも つ。つまり、デカルトのこのような相矛盾した人間の身体観あるいは霊魂観を嘲笑して、ギルバート・ライルは、我々は機械(身体)の中に住む幽霊(心)なの だと(皮肉として)表現した。
しかしながら、完璧なマシーンとしての生物——映画『エイリアン』のなかの医療担当アッシュの言葉——このようなアニミズムを導出する考え方を 人間——そ して奥野——は棄て切れない。デカルト的身体観——身体と心の二元性が特色で、それぞれの属性を対比的に描いたために合理主義者がしばしば夢想するファン タスマ(幻影)の例にしばしばあげられる——の問題を的確に言い表した重要な比喩である。士郎正宗(1961-)原作のマンガ・アニメ作品『攻殻機動隊』 の英語タイトルは ghost in the shell だが、これはギルバート・ライルのこの表現に由来する(ユダヤ人ジャーリストであるアーサー・ケストラーの同名の評論(1967)がある)が、ネットワー クのゴーストは、明らかにデカルト的でオカルト的な心の概念を隠喩するテーマと議論がさまざまなところで登場する。
このようなサイバー時代における(アニミズムを良しとすれば)闇雲な多幸感ないしは(ア
ニミズムを無知蒙昧とすれば)ペシミズムに対抗できるのは、サイバーパンクをお
いて他にはない。
【上図の解説】
イライザを意識す
る「私」=人間(動物)には他者とコミュニケーションする社会的能
力が備わっている(=生得的に組み込まれている)ために、そのスイッチが容易に入り[なぜ?]、イ
ライザを人間ないしは人間的能力を持っているものと錯認
する。これは、他者を理解したつもりでも、後から誤解であったことを自覚することと同じメカニズムを説明している。ただし、この能力は人間の両眼からの
データを大脳上で立体像として構成する能力に似て、我々の身体知覚を手掛かりにして〈過激に〉対人コミュニケーションの範囲を拡大する能力と欲望を、我々
自身に与えてくれる。イライザを誤解することは、その能力の拡大に伴う代価なのであった
ことがわかる。彼女の父親の怒りと裏腹に、この種のエピソードが認
知科学の可能性を拓いてくれたと同時に、その限界を明らかにすることに貢献したのではないだろうか?
旧クレジット:テクノアニミズムという概念の貧困、あるいは端的に「テクノアニミ ズム批判」
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文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099