戦争機械論
On Warrior-Machine Interface/Interactoon: あるいは、異種なるものの共存/接合
解説:池田光穂
まず、次の2つの絵を見比べてください。
※拡大するには、それぞれの画像をクリックしてください
みなさんは、この絵についてどのような感想を持たれるでしょうか?
最初の絵は、ロックグループであったエマーソン・レイク・アンド・パーマー(Emerson, Lake & Palmer)のアルバム『タルカス(Tarkus, 1971)』のジャケットです。戦車のようなものとアル マジロらしき動物が合体し、その砲身はこちらを向いています。
次の絵は、日本の怪獣映画であったウルトラセブンに登場した「恐竜戦車」です。後にソフトビニール(通称:ソフビ)になった模型の写真で す。こちらは、「邪悪な」宇宙人のせいで、太古の恐竜と戦車という機械と合体させられた「生物兵器」であるとドラマの中では説明されます。
戦車という玩具は、かつて(あるいは現在においても?)男児のおもちゃの代表でした。戦車はピストルとならんで男性性器や性的活動の隠喩とみなされることもありました。砲身はペニスを表象し、突撃は性行為におけるペニスの 挿入を意味する——もちろん砲弾の発射は「射精(ejaculation)」のことになります——という解釈をされたこともあります。
他方、より一般的には戦車は、あらゆるものを踏みにじる(性的力と結びつく)力強さを象徴すると同時に、さまざまなものを暴力的に破壊する (それでいて自身はびくともしない)ものでもあります。こちらは、戦車と自己を同一化する見方ではなく、戦車を外部より、それも対峙するものとしてみる見 方に由来します。
たとえば、テレビ映画『コンバット』におけるアメリカの歩兵に立ち向かうドイツ軍の戦車、プラハにおけるソ連軍の戦車、インティファーダに おけるイスラエルの戦車に投石するパレスチナの人たちの情景を浮かべてみましょう。
戦車という戦争機械という隠喩の問題を、この奇妙な合体物と関連づけて 考えてみましょう。
そして最後に「機械論」というメタファーあるいはイメージは、時代や社会を通して決して普遍的なものではありません。東洋の身体論などを生
半可
に聞きかじった人が吹聴する「デカルト心身二元論への批判——それも俗流の——」に耳を貸してはなりませぬ。次の哲学史家のアドバイスのほうがよっぽど示
唆に富み
ますよ。
「17世紀は「機械論」の世紀であった。が、ただの機械ではない。機械的な存在が自生し、産出し、ものを言うのである。それは「合理主 義」という名から想像される以上に不気味な、「存在論的機械論」とでもいうべきものの出現であったと私は思う。機械的な存在が主観の対象の側に客体として 仮構されてある、というのではない。むしろ、自分は別なふうに存在しているのかもしれぬという隔たりをわれわれ自身のただなかに開く、そういうものとして 機械的なものはある」(上野修『デカルト、ホッブス、スピノザ』講談社、p.18、2011年[オリジナルは1999年に発行])[→タチコマ問題:機械の中の幽霊]
もちろん、言うまでもなく、ガン ダムでもヱヴァンゲリヲンでも、パワースーツを使って戦争をしようという、格闘技パラノイア思考は、アニメや劇画のなかの常套的な表現手段であり、また身 体改造の顕在的欲望の見事な表現である。
■ゴルゴ13
のパワースーツ兵[訳者解説]
「ゴルゴ13の「装甲兵SDR2
」(リイド社SP
コミックス『ゴルゴ13』第一四八巻)にはパワードスーツの重装備歩兵が登場する。日本企業が開発した二足歩行ロボット技術をベースにした半ロボット兵で
ある。重火器を装備した戦車なみの装甲だが、スーツが搭乗者の歩行で、連続十時間の行軍も疲労なくこなせる。戦場にあっては、スーツから送られたデータを
もとに、司令部のスーパーコンピュータが最適な戦略を瞬時に判断して命令を出しさえすればよい。搭乗者の血圧や脳波などのデl
タも司令部に送られるので、必要に応じて、興奮剤や鎮静剤を投与することも可能だ』(訳者・西尾香苗による[御本人の記述であることを確認しています:池
田追記])』(モレノ 2008:374)。→引用は「ジョナサン・モレノ
『操作される脳』
ファンサイト」]
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