構造調整までの長い道のり
Long journey of Structural Adjustment of economy and political systems
世界の人びとの苦悩
バランスを欠いた世界:1日1ドル以下の貧困12億人:2ドル以下では40億人
ハンディの印:非識字者、女性、安全な水にアクセス不能
貧富格差の増大
人口増加:69億(2010)、92〜95億(2050)/都市人口50億
開発とは?
「開発は,貧困とそれに伴う病理を撲滅するための世界的な努力を記述するために使われる用語である」p.30
「開発が成功するためには,それを計画し実行する人々が,自らのものとは異なる文化世界について多くのことを学び,その知識を利用する必要 がある。つい最近まで,開発業界はこの「学ぶこと」の必要性を認識していなかった。しかも,基本的に白文化中心主義的な進歩観を他の国々に押しつけようと するあまり,そのことに伴うさまざまな結果を招いてきた。」p.30
開発史
先行事情:植民地主義・帝国主義
枠組み:ブレトンウッズ体制:IMF、世銀
第三世界(Alfred Sauvy)
"[C]ar enfin, ce Tiers Monde ignore, exploite, meprise comme le Tiers Etat, veut lui aussi, etre quelque chose" - Alfred Sauvy, 1952
今日の開発産業
1. 多国間援助機関(multilateral agencies)
2. 二国間援助機関(bilateral agency)
3. 非政府組織(Non-Governmental Organization, NGO)
4. 民間コンサルタント会社(Private Consulting Firms)
世界銀行グループ
国際復興開発銀行(IBRD, International Bank for Reconstruction and Development)
国際開発協会[第2世銀](IDA, International Development Association)
国際金融公社(IFC, International Finance Corporation)
多数国間投資保証機関(MIGA, Multilateral Investment Guarantee Agency)
投資紛争解決国際センター(ICSID, International Center for the Settlement of Investment Disputes)
USAID
Agency for International Development, USAID
1950 Technical Cooperation Administration, by the Act for International Development, USA
1959年創設、米国国務省:米国議会に説明責任を負う:提供情報量はCIA報告の次に匹敵
議会の年次割り当てに迅速に対応する
開発援助 Development assistance, 安全保障を含む経済支援基金 Economic support found, 食糧援助 PL480
平和部隊 Peace Corps や諜報機関なども含む
援助ビジネスの問題点
農業や小規模ビジネス開発のような生産活動に焦点をあてるものと,健康・教育のような社会サービスを中心とするもの、に二分される。
「USAID の契約を勝ち取るには,企業は,スタッフがUSAID の規則に詳しくそれに応じる経験をもつような,会計,契約管理から雇用や海外での兵站援助に至る支持部門をつくる必要がある」
「連邦政府にとっては得なビジネスかもしれないが,プロジェクトが現場で実際にどのように動いているかをUSAID が理解することを妨げ,開発アプローチにおける革新と冒険に水をさし,プロポーザルの準備と入札に勝つことに関連した手順や手続きばかりに注意を向けるこ とになる」p.39
Beltway Bandits
ワシントンDCを中心に沿岸に南北に分布する会社
アメリカだけでも,開発業界に技術援助サービスを提供する膨大な数のコンサルタント会社が存在する。たとえばUSAID は推定3.500 社もの民間コンサルタント会社と取引し, USAID の助成金,契約の80% は直接コンサルタント会社か個人,もしくはNGO/ NPO に与えられている。p.38
開発契約は大きなビジネスである。1996 年には,アメリカの開発コンサルタント会社上位25 社が20 億ドル以上の契約を得た。概して大規模開発援助機関は,毎年約40から50 億ドルの契約をコンサルタント会社ないし個人コンサルタントに与えている。これに加え,推計300 億ドルの契約が,大機関から援助資金を借りる側の国々によって与えられる。
初期開発概念
ブレトンウッズ体制(1945-1973)
「西洋古典派経済理論は低開発を単純かつ明解に説明する。すなわち,低収入から低貯蓄率が生じ,低貯蓄率であるがために低投資率が生じる。 そして,抵投資率は生産,雇用,そして究極的には収入の成長を阻害するというものである。それゆえ初期の開発思想は,資本の利用すなわち資本をどこに投入 し,どう用いるかということに集中していた。さらに,開発資本は外部から来る必要があった。ゆえに「外国援助(foreign aid) という語がある。資本によって融資された技術も,多くの場合外来的なものである。生産を増大させるための経営(管理)システムは,西洋の成功したモデルに 由来する」pp.41-42.
Rostow’s Take-Off model
「開発の問題は,第1 に,いかにして速く大規模で持続的な成長を刺激するかの問題とみなされるようになった。こうした成長は国全体に利益を与え,その利益は比較的合理的で平等 なやり方で分配され,その分配が全体的福利を促進するものと仮定された。計画立案者は,投資が増大し,製造部門が成長・繁栄し,それを支える国家機関がさ らなる成長を支持するような,「離陸 Take-off」を望んだ」p.42
冷戦期, 1945-1991
「開発援助は,アメリカにとって世界の新興諸国においてソビエトの脅威(現実のものであれ,認識上のものであれ)に対抗する手段とみなされ るようになった」
「1950から60 年代に多くのアメリカの援助が台湾,韓国,フィリピン,南ベトナム,エジプト,イスラエルに供与された理由は,まさに超大国間の対立であった」
援助ルールの形式化
ドナー donor/レシピエントrecipient
プロジェクト融資は,さまざまな利子率をもっ借款(loan) か,通常返済の必要のない無償援助(grant)の形
互恵(reciprocal)、ひもつき援助(tied aid)、政策改革と構造調整セットによる援助
Marshall Plan期の援助(1945-1955)
Marshall Plan そのものは1949〜1952年
1948年まで世銀はラテンアメリカ諸国に貸付
ポイント・フォー:トルーマン大統領就任演説「ポイント・フォーは,第1 に,とくに東アジアにおける巨大インフラ・プロジェクトへの技術支援供与に集中した。1950 年にポイント・フォー計画を権威づけた「国際開発法」(Act for International Development)はまた, USAID の前身である「技術協力庁」(Technical Cooperation Administration) を創設した。」
Tech-Fix, 1955-70
「開発業界は急速に成長した。アメリカでは, 「相互安全法J (MutualSecurity Act) (1953〜61 )とそれに続く「外国援助法J (Foreign AssistanceAct, 1962-72 年)が,開発援助を推し進めるための権限と手段を提供した。農業貿易開発援助法(U.S.Agricultural Trade Development and Assistance Act,通常PL480 として知られる)は,「平和のための食糧」計画をうち出した。そして1960 年代初頭には,平和部隊が誕生じた。」p.45
Limit of Foreign Aid, 1970-80
「1968 年にロバート・マクナマラが世界銀行総裁に就任すると,極貧層のニーズに焦点をあてることと並んで,開発事業lこおける公平性の問題がクローズアップされ た。USAID 内部でも,同様の思考の変化がおこっていた。1973 年に合衆国援助法は,人々に最低限のレベルのベーシック・ヒューマン・ニーズ(食糧,住居,仕事,医療,清潔な水など)の充足を目指す,「新しい方向」 (New Direction) をうちだした。貧困と剥奪にこれまで以上に焦点をあてることで,計画立案者は経済成長のための諸条件をつくり出し,同時に成長の利益分配において公平性の 観念を広めようとした」p.49
Rural development
「1970 年代は草の根開発ヘ向かいはじめた時代であった。統合的農村開発(integrated rural development,あるいは今では地域計画とよばれるもの)という考え方が試された。サービスと政策決定の分権化が多くのフロジェクトの特徴であっ た。「計画と実施へのコミュニティ参加」が合言葉となった。そして,開発と女性に関わる問題への関心,および計画のあらゆる側面において環境への配慮が強 調された」p.49
債務危機 Debt crisis
IDAは、貸付の譲歩条件を1/4に軽減していたが、利率は市場金利並み→当然として借款の「焦げ付き frozen credit loan」を招来(1960年代末)
1973年10月第四次中東戦争により、OPEC原油価格の急騰、世界的なエネルギー危機(日本語でオイルショック, Energy crisis)を招来。他方で産油国の金余り現象。
Debt & Energy Crisis
「1970 年代のオイル・ショックEnergy crisisがもう1 つの引き金である。豊富な余剰資金を抱える石油輸出国機構(OPEC) 諸国は,巨額の資金を欧米の銀行に移した。そしてこれらの銀行は,その資金を運用する必要が生じた。銀行は,部分的には,返済する能力もその意思も疑わし い国々に,疑わしいプロジェクトのための資金を貸し付けることで,融資を実行した。そして, 1982 年までに,メキシコ,アルゼンチン,ブラジルが債務不履行に陥り,債務危機が公になった。1970 年に第三世界諸国は,輸入で稼いだ1 ドルのうち約10 セントを債務支払いに充てていた。しかし, 1986 年までにこの割合は2倍になった。その年,第3世界の債務は約1 兆ドルに達した。やがて,債務支払いで欧米に流入する金額が,融資と投資で第3 世界ヘ向かう金額よりも大きくなった。」p.50
構造調整
「構造・部門調整融資(Structural adjustment)は, (債務)支払いのバランスを是正するために,国々の経済政策・構造を矯正することを目的とする。構造・部門調整融資の目的は,事実上,ある国の経済構造を 変え,収支を均衡化し,それによって発展のために用いることのできる資源を国内で解放することである」p.52
構造調整の嚆矢
「構造調整融資は1980 年代に世界銀行とIMFではじまった。マクナマラ世界銀行総裁の後任であるクラウセンのもとで,調整融資は銀行債権の9% (1983 年)から1987 年には23% ヘ大幅に増加した。「政策に基づく貸し付け」ともよばれる構造調整は,受容国をグローバル経済に引きつけ,国内経済政策をこのグローパル経済の需要と目標 に適合するように調整する効果をもつ」p.52
構造調整のやり方
「政府は,その収入の範囲内で支出し,すべてではなくとも大半の助成金を廃止し,ビジネスを自由に活動させる。そして,効率の悪い国家事業 を閉鎖し,価格が市場レベルまで上がるのにまかせ,為替相場を現実に即したものに保つべき,というものである。」p.52
SAの政策介入
「政策に基づいた貸し付けは,概念上非常に単純である。ある国の国庫に現金を移転させることと引き換えに受容国政府はその経済,行政,物事 を進めるやり方において十分に大きな改革をおこなうことに合意する。プロジェクト融資は特定の事業に結びついた特定のコストのための資金を提供し,部門融 資は同様のことを同じ一般的タイプに関連する一連のプロジェクトのためにおこなうが,構造調整融資は金利,為替相場,関税率など,国家規模(あるいはたぶ ん部門規模)の変化を条件とする。金は,通常,プロジェクト費用を払うために支払われるのではなく,輸入のために支払われる。それゆえに,構造調整融資は 他の形の開発援助とはまったく異なるものである。」p.52
SAの弊害=画一化
「構造・部門調整融資は,ますます,開発財政と技術援助を方向づけ,受容国への機関の影響力にテコ入れするために使われだした。政策に基づ いた貸し付けは,原理的には個々の国がおかれている状況に見合うように実行されるものだが,緊縮経済の方策(たとえば,公務員の削減や政府支出の抑制), 国営企業の民営化や規制緩和,貿易自由化,金融政策の変更(平価切下げ,信用改革など),行政の脱集権化などを含む,非常に画一的な処方箋のセットを推進 する傾向があった」p.52
重債務国問題(p.54)
開発の理念
国内総生産のような広い指標で測られる国家経済,地域経済の成長
地域レベル,国家レベルで開発を促進するために考案された活動の管理
開発利益の配分に関わる公平性
開発の意思決定における多様なグループの関与(参加):p.53
開発のモデル再考
「これまでは公理として受容されてきた 「成長と繁栄は民主的諸制度と慣行をとおしてのみ達成される」という西洋の主張が,シンガポールやマレーシア,そして近年における中国の成功によって,疑 問がもたれるようになったそして近年における中国の成功によって,疑問がもたれるようになった」p.54
人びとの抵抗
「世界の貧困と不平等の問題が彼ら自身の経済的・政治的未来に関係している」という意識の誕生
「抗議する人々は,世界の諸問題の解決に進展がないことを見出し,その原因の一部に開発業界の政策的問題があると結論した。1994 年にアメリカでおこなわれた「50 年で十分」 ( Fifty Years Is Enough) キャンペーンは,かつてない程に世界銀行に対する一般的な注目を喚起した。同様に1999 年のシアトルにおける世界貿易機構(WTO) への抗議は,多国間援助機関がどのようなことをしているかについて,一般の関心を引きつけた」p.55
ワシントンコンセンサス
世界銀行ならびにインターアメリカン開発銀行からの国際融資を受けるために1991年以降導入している構造調整政策
初期の構造調整政 策への批判と解釈は以下の7点にまとめることができる(出典:「グアテマラ西部高地における先住民コミュニティの自治」)
1)構造調整政策の有効性の範囲の不明確さ:海外からの財政政策への介入は、国際社会と当事国との「合意」にもとづいているはずなのに、国 家 主権の侵害とみなされた。このことは政策の成否の国際的判断に混乱をもたらした。それゆえ政府の財政担当者は成功すれば国際協調した自分たちの業績とみな し、失敗すれば外国や国際金融機関の責任に転嫁できた。
2)経済効率を高めるためにとられた民営化政策への批判:経営の効率化のために最初に犠牲になるのが労働者の人員整理や解雇であり、失業率が 上昇した。
3)現地農業の市場経済化への加速:小農経営に利する点が少なく大規模経営者による買収や、アグロビジネスの参入により作物転換や農民経営へ の私企業のコントロールが増加した。
4)経済優先のための自然環境悪化:天然資源開発や観光振興など環境負荷産業が増大した。
5)緊縮財政による公共福祉サービスの低下:小さな政府による財政の緊縮が、とりわけ福祉公共サービスの予算の減少や、公共セクターの民営化 をもたらした。それゆえ経済的貧困層には、医療費や公共料金の負担増を招いた。
6)女性労働力の市場参加によるジェンダー構造の変化:マキラドーラ(関税減免などの恩恵特区における労働集約型の軽工業団地)などの女性向 けの賃労働化による、家計に対する女性労働力依存の増大をもたらした。
7)経済機会獲得のための自発的・非自発的な移住の促進:規制緩和などを通して政府が企業の自由な活動を優先したために、工場の移転や業務内 容を急速に変化させたために、労働者の雇用調整をより弾力化したために、労働者の移動・移住を加速化させた。
文献
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