オブジェクト指向の現象学
Object-Oriented Phenomenology
解説:池田光穂
オブジェクト指向のプログラミングというのがある。この場合における、オブジェク トとは、その内部で相互作用している〈データの場〉と〈方 法〉から構成されるデータの構造のことを意味する。もともと、プログラミングでは、システム分析という方法を使って、構造化したり、モジュール化したり、 データそのものの傾向を分析したりして、プログラミングをおこなった。それに対して、オブジェクト指向は、データ構造の中の下部構造を——それは分析可能 な〈方法〉と〈データの場〉という性質をもつユニットとして認知される——オブジェクトとみなし、分析や構築と、プログラミングを繰り返すことである。
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この発想から、オブジェクトは現実世界における〈物象化した存在〉として考えることが できる。iTune はデータとして取り込んだ音楽を「演奏」する機械である。iTune にはユーザーがどのように考えようと、ユーザーに容易に「演奏」してもらうような、独自のハードとソフトウェア回路と、快適なユーザーインタフェイスを兼 ね備えている。ユーザーは、そのような回路やメカニズムのことを知ることなく(別に知ってもよいので、それとは無関係に)、そのインタフェイスが提供する 手順に従ってユーザー自身の学習プロセスを構築してiTuneが操作できるようになる。この学習プロセスは、多かれ少なかれ試行錯誤を伴うものであるが、 よりよいインターフェイスであるためには、ユーザーがそれまで使ってきたインターフェイスのメタファーを利用することで、その(学習の)効率化を図ってい る。例えば物理的スイッチや、可変ボリュウム、音量や選曲の切り替えの際の多様なクリック音——さらには、それらの自己チューニングを可能にする余地も含 めて——などである。
それぞれのユーザーがオブジェクトとの相互作用をもつ時には、現場力や熟練の技や知恵(プロネーシス/フ ロネーシス)などが介入している。このような現場を みる研究アプローチは、オブジェクト指向の現象学と見なしてよいのではないだろうか?
" Every reduction, says Husserl, as well as being transcendental is necessarily eidetic. That means that we cannot subject our perception of the world to philosophical scrutiny without ceasing to be identified with that act of positing the world, with that interest in it which delimits us, without drawing back from our commitment which is itself thus made to appear as a spectacle, without passing from the fact of our existence to its nature, from the Dasein to the Wesen. But it is clear that the essence is here not the end, but a means, that our effective involvement in the world is precisely what has to be understood and made amenable to conceptualization, for it is what polarizes all our conceptual particularizations. The need to proceed by way of essences does not mean that philosophy takes them as its object, but, on the contrary, that our existence is too tightly held in the world to be able to know itself as such at the moment of its involvement, and that it requires the field of ideality in order to become acquainted with and to prevail over its facticity. The Vienna Circle, as is well known, lays it down categorically that we can enter into relations only with meanings. - Maurice Merleau-Ponty, "Phenomenology of Perception," 1962 (orig. 1945).
「フッサールは、あらゆる還元は超越論的であると同時に、必然的にエイドス(形相)的であると 言う。つまり、私たちは、世界を措定する行為や、私たちを限定する世界への関心と同一化することなく、また、こうしてそれ自体が見世物として現れるように された私たちのコミットメントから引き下がることなく、私たちの存在の事実からその自然(nature)へ、Dasein(現存在)からWesen(本質 存在)へと移行することなく、世界の認識を哲学的な精査に委ねることはできないのである。しかし、ここで本質(essence)が[最終的な]目的ではなく手段であることは明らかであり、世界における私たちの効果的な関与こそが、まさに理解され、概念化に従順でなければならないものであり、私たちのあらゆる概念的な特殊化を両極化するものだからである。本質(essence)によって前進する必要性は、哲学が本質(essence)をその対象としていることを意味するのではなく、逆に、私たちの存在は、その関与の瞬間にそれ自身をそれとして知ることができるには、世界の中にあまりにも強固に保持されており、その事実性を知り、それに打ち勝つためには、イデア性の場が必要であることを意味する。よく知られているように、ウィーン学団は、われわれは意味によってのみ関係を結ぶことができる、と断言している」『知覚の現象学』
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