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ヤノマミ・スキャンダル

Yanomami scandal ; A Graphic Guide 131

池田光穂

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ヤノマミ・スキャンダル

132.    ヤノマミ騒動(スキャンダル)
132.ヤノマミ・スキャンダル

ヤノマミの人びとの間でフィールドワークを行った最も有名な、あるいは最も悪名高い2人の人類学者は、ナポレオン・シャニョンとジャック・リゾーである。 前者は、アメリカ合衆国の、最もよく知られた現代の人類学者の1人であり、後者は、レヴィ=ストロースの学生だったフランスの人類学者である。

パトリック・ティアニーは、その著書『エル・ドラードの闇:科学者とジャーナリストがいかにアマゾンを荒廃させたか』(2000)において、2人に対する 次のようなを申し立て(ケース)を行う。

ティアニーのシャニョンに対する批判は、シャニョンが……
■アメリカ原子力委員会によって資金援助を受けた調査チームのメンバーであったこと。資金は、ヤノマミの人びとの血液サンプル収集に対するものであり、そ の目的は、自然界の天然放射線量(バックグラウンドの線量)の影響についての比較することだった。それもヤノマミの人びとにとって何の役にも立たない調査 であり、インフォームド・コンセントの許容範囲を超えていた。それどころか、ヤノマミの人びとを感染症に晒すという潜在的危険をもたらした。
■はしかの生ワクチンを使用した。そのことで、はしかの集団感染への治癒どころか、むしろその原因をつくり、ヤノマミの村々で大量の死者を出した。
※Napoleon Chagnon (1938-2019)は、かつての訳書では、ナポレオン・シャグノンと記されていたが、近年は実際の発音にちかいナポレオン・シャニョンと呼ばれるよう になってきた。

ティアニーによるシャニョンへの告発は、まだ続く。

■シャニョンは、民族誌的情報を集めるため、ヤノマミの情報提供者(インフォーマント)に対して、交換財や価値のある鉄鋼の斧や銃で支払いを行った。彼 は、亡き親族の「秘密の」名前を集める目的でこの方法を使うことで、ヤノマミの人びとを蹂躙した。交換財の流入により村は動揺し、村の内部ないし村と村の 間で紛争が起こった。

■効果的に演出され特別にリハーサルされた=つまりヤラセの民族誌的な映像作品(フィルム)をつくるために交換財を利用した。これらの作品としては、『斧 の争い』と『祝宴(ザ・フィースト)』があり、これらは最もよく知られた民族誌的「ドキュメンタリー」である。

■映像作家やジャーナリストをヤノマミの居住地区に連れて来るという、非倫理的で潜在的に大量虐殺に等しい無責任な行為を実行した。このとき彼は、西洋の 疾病に対するヤノマミの人びとの感受性をほとんど考慮しなかった。

ヤノマミ——【台詞】——「だからこれらの映像作品は詐欺行為であり、人類学者が西洋の視聴者に対して紹介する民族を誤表象するものだよ」————「でも それだけじゃないんだ」

★弁明不可能な解釈を立証する調査資を分かりにくくした。特に、より大勢を殺害した男がより多くの妻を有し、それによって遺伝子プールを支配するという命 題(=主張)である。この証拠は、種としての人類がどのように誕生し、どのように発展したのかについての社会生物学の理論的予測を実証するための核となっ ている。

■実際には何人が亡くなったのか、誰が殺したのかという点を偽証し、〈殺人〉を捏造した。

■病気で死んでいくヤノマミの人びとへの治療を行わなかった。

■ヤノマミの人びとを擁護しなかった。

 ヤノマミ——【台詞】——「告発のリストはまだ終わらないよ」

■ヤノマミの土地を徹底的に破壊する鉱山採掘ラッシュの先頭に立つ受益者と協力し、ヤノマミの人びとへの権限と、独占的にこれらの人びとに接近する権利を 確立しようとした。

■スペイン人とポルトガル人の到着以降、すべての地域がすでに植民地主義からの略奪行為の影響と衝撃のもとにあるにも関わらず、穢れなき人びととしてのヤ ノマミを構築した。

そしてリゾーは、

■自身の性的幻想を満足させるためにヤノマミの少年たちを性的に暴行した。

★The Yanomami Scandal  by David Maybury-Lewis. (pdf with password)

"Darkness in El Dorado In 2000, Patrick Tierney, in his book Darkness in El Dorado, accused Chagnon and his colleague James V. Neel, among other things, of exacerbating a measles epidemic among the Yanomamö people. Groups of historians, epidemiologists, anthropologists, and filmmakers, who had direct knowledge of the events, investigated Tierney's claims. These groups ultimately rejected the worst allegations concerning the measles epidemic. In its report, which was later rescinded, a task force of the American Anthropological Association (AAA) was critical of certain aspects of Chagnon's work, such as his portrayal of the Yanomamö and his relationships with Venezuelan government officials. The AAA convened the task force in February 2001 to investigate some of the allegations made in Tierney's book. Their report, which was issued by the AAA in May 2002, held that Chagnon had both represented the Yanomamö in harmful ways and failed in some instances to obtain proper consent from both the government and the groups he studied. However, the Task Force stated that there was no support to the claim that Chagnon and Neel began a measles epidemic.[18] In June 2005, however, the AAA voted over two-to-one to rescind the acceptance of the 2002 report,[19] noting that "although the Executive Board's action will not, in all likelihood, end debate on ethical standards for anthropologists, it does seek to repair damage done to the integrity of the discipline in the El Dorado case". Most of the allegations made in Darkness in El Dorado were publicly rejected by the Provost's office of the University of Michigan in November 2000.[20] For example, the interviews upon which the book was based all came from members of the Salesians of Don Bosco, an official society of the Catholic Church, which Chagnon had criticized and angered.[12] Alice Dreger, an historian of medicine and science concluded after a year of research that Tierney's claims were false and the American Anthropological Association was complicit and irresponsible in helping spread these falsehoods and not protecting "scholars from baseless and sensationalistic charges".[21]"- Napoleon Chagnon (1938-2019)

"エルドラドの闇2000年、パトリック・ティアニーは著書『エルドラドの闇』の中で、シャグノンと彼の同僚であるジェームズ・V・ニールが、ヤノマモ族 の間で麻疹の流行を悪化させたなど、さまざまな非難を投げかけた。この事件について直接の知識を持つ歴史家、疫学者、人類学者、映画監督などのグループ は、ティアニーの主張を調査した。これらのグループは、麻疹の流行に関する最悪の疑惑については最終的に否定した。後に取り下げられた報告書の中で、アメ リカ人類学会(AAA)のタスクフォースは、シャグノンのヤノマモ族の描写やベネズエラ政府当局者との関係など、シャグノンの研究の一部に批判的な見解を 示した。AAA は、ティアニーの著書で指摘された疑惑の一部を調査するため、2001年2月にタスクフォースを設立した。2002年5月にAAAが発表した報告書は、 シャグノンはヤノマモ族を有害な方法で表現し、政府および研究対象グループから適切な同意を得られなかったケースもあると結論付けた。しかし、タスク フォースは、シャグノンとニールがはしかの流行を引き起こしたという主張を裏付ける証拠はないと述べた。[18] しかし、2005年6月、AAAは2対1の多数決で2002年の報告書の承認を撤回した[19]。その理由として、「執行委員会の措置は、人類学者の倫理 基準に関する議論を終わらせる可能性は低いものの、エル・ドラド事件で学問の信頼性に与えた損害を修復する目的を有する」と述べた。『エルドラドの闇』で 述べられた主張のほとんどは、2000年11月にミシガン大学学長室によって公に否定された[20]。例えば、この本の基礎となったインタビューは、シャ グノンが批判し、怒りを買ったカトリック教会の公式団体であるドン・ボスコのサレジオ会会員たちによるものばかりだった。[12] 医学および科学の歴史家であるアリス・ドレガーは、1 年間の調査の結果、ティアニーの主張は虚偽であり、アメリカ人類学会は、これらの虚偽の流布を助長し、「根拠のないセンセーショナルな非難から学者たち」 を保護しなかった点で共謀し、無責任であるとの結論に達した。[21]」- ナポレオン・シャグノン (1938-2019)

★Lizot, Jacques (1982- ), Le cercle des feux : faits et dits des Indiens yanomami, 1976.

★リゾーのスキャンダルは以下の記述(ウィキペディアのスペイン語に記載あり)
"En 1993 decidió volver a su país natal; Lizot sufrió la consecuencias de un viaje a la inversa, sintiéndose un extranjero en su tierra de origen. Aún sigue con vida y continúa sus investigaciones como apasionado lingüista volviendo a sus orígenes de antropólogo oriental estudiando la lengua árabe. Se vio involucrado en el escándalo causado por la publicación de "Darkness in El Dorado",2​ del periodista Patrick Tierney; acusaciones que fueron repetidas sin agregar nuevos datos por otros.3​4​ En 2004, la American Anthropological Association (AAA), pasó una resolución desacreditando las afirmaciones de Tierney, que originalmente había respaldado. Una investigación detallada de la Universidad de Míchigan encontró que la mayoría de las acusaciones de Tierney no tenían fundamento, y otras habían sido exageradas. Otras investigaciones coincidieron con esta evaluación.5​ La AAA admitió luego el comportamiento fraudulento, impropio y falto a la ética de Tierney. Pese a esto, las acusaciones de Tierney hicieron mella en la reputación y el ánimo de Lizot, quien decidió no volver a trabajar en territorio yanomami y se enfocó en el mundo árabe. Sin embargo, publicó el Diccionario enciclopédico yanomami (2004), una obra cumbre de la lengua yanomami." - Jacques Lizot, 1938- 存命中

「1993年に母国に戻ることを決意したリゾーは、逆の旅の代償を払い、故郷で外国人としての感覚に悩まされることになった。彼は現在も健在で、情熱的な 言語学者として、東洋人類学者としての原点に戻り、アラビア語の研究を続けている。彼は、ジャーナリストのパトリック・ティアニーが著した 『Darkness in El Dorado』2 の出版によって引き起こされたスキャンダルに巻き込まれた。このスキャンダルは、新たな事実が追加されることなく、他の人々によって繰り返し報じられた3 ​4。2004年、アメリカ人類学会(AAA)は、当初支持していたティアニーの主張を否定する決議を採択した。ミシガン大学による詳細な調査では、ティ アニーの主張のほとんどは根拠がなく、その他は誇張されていたことが判明した。他の調査も、この評価と一致した。5​ AAA はその後、ティアニーの不正、不適切、非倫理的な行為を認めた。それにもかかわらず、ティアニーの非難はリゾーの評判と意欲に大きな打撃を与え、彼はヤノ マミ族の領土での仕事を辞め、アラブ世界への研究に専念することを決めた。しかし、彼はヤノマミ語の最高傑作である『ヤノマミ語百科事典』(2004年) を出版した。」

・性的虐待についてはAAAの報告書にある。"Son travail auprès des Yanomamis a été controversé en raison d'abus sexuels allégués envers les jeunes de la communauté1."

  ★El Dorado Task Force Papers, Volume I

★El Dorado Task Force Papers, Volume II

■ 教科書(Cultural Anthropology Remix 協賛):今回の教科書は Merryl Wyn Davies (1949-2021) が著者、Piero がイラストレーターによる、その名も『人類学を紹介する(Introducing Anthropology)』出版社は Icon Books, 2002 です。8年後に改定されて、Merryl Wyn Davies and PIERO, Introducing Anthropology: A Graphic Guide, Icon Books Ltd., 2010.となりました。いわゆる啓蒙のためのイラスト・ブックです。カルスタもとい、カ ルチュラル・スタディーズのものは日本語に翻訳されているのでな いだろうか。とってもおもしろい本です。文化人類学の現代の問題系 にまでしっかり踏み込んでい ますが、そのことを 明確するために、人類学の歴史的ルーツに遡り考察するという姿 勢が貫かれています。つまり、骨太の人類学史の教科書ともいえるべきものです。それが、な、なんと邦訳されました!!! メリル・ウィン・デイビス『人類学』池田光穂+額田有美訳、現代書館、2021年10月 ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4768401095 [総合目次]

★ 著者紹介:Merryl Wyn Davies (1949-2021)

メ リル・ウィン・デービス(1949年6月23日 - 2021年2月1日)は、ウェールズのイスラム教徒の学者、作家、放送作家でした。イスラム教を専門とし、ジアウディン・サルダールと共同で書籍や記事を 執筆しました。イスラム人類学の権威であり、ロンドンのムスリム研究所の所長も務めた。メリル・ウィン・デービスは、1949 年 6 月 23 日、ウェールズのマーサー・ティドフィルで生まれた。サイファースファ・グラマースクールで A レベルを取得。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで人類学を学んだ後、放送局やジャーナリズムの分野でのキャリアをスタート。ウェールズの地方紙、 BBC ラジオを経て、BBC テレビの宗教番組で 10 年間働き、「Everyman」、「Heart of the Matter」、「Global Report」[4] などの受賞番組や、シリーズ番組「Encounters with Islam」に携わった。1981 年、31 歳でイスラム教に改宗。1985年にBBCを退職し、フリーライターとして、ロンドンを拠点とするイスラム教徒の雑誌「Inquiry」で働き始めた。 1990年代には、マレーシアの元副首相で、後に野党党首となったアンワル・イブラヒム氏の顧問およびスピーチライターを務め、マレーシアのテレビ局 TV3で「Faces of Islam」シリーズを制作した。イブラヒム氏が逮捕されると、ウィン・デイヴィスは逃亡し、シンガポールに移住した。1996年に英国に戻り、英国イス ラム教徒評議会のメディア担当官に就任した。2010年にロンドン・ムスリム研究所に入所し、所長に就任した。2018年に「第二の故郷」であるマレーシ アに戻ったメリル・ウィン・デーヴィスは、2021年2月1日、クアラルンプールのペタリンジャヤで、長年の病気のため心臓発作で71歳の生涯を閉じた。 英語ウィキペディア"Merryl Wyn Davies (1949-2021)"より

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