文化人類学者が米国の先住民ならびにマイノリティの訴訟に関わったケース
アメリカ先住民に対する行政訴訟権の付与 (1946)
アメリカの先住民の土地は「通商交易法 (Nonintercourse Act(1790, 1793, 1796, 1799, 1802, and 1834)」により連邦議会の承認がないかぎりは転売が禁止され ていた。もちろん法が有名無実化していたのは歴史が示す通りである。アメリカ議会はアメリカ 先住民への差別的な法的地位の撤廃の一環として、過去に先住民に損害を与えた行為に対しても行政訴訟を認めた。ただし、それを訴える権利があるのは「部 族、バンド、もしくは他の帰属集団」にのみインディアン請求委員会への提訴を認めるものだった。この、「部族、バンド、もしくは他の帰属集団」の定義は、 ジュリアン・スチュアードの後の著作 "Theory of Culture Change," (1955)に結実するような理論的研究の成果の反映だと、考えられている(ローゼン 2011:102-103)。
Sweatt v. Painter, 339 U.S. 629(1950)
黒人(アフリカ系アメリカ人)のヘルマン・M・ス ワットが、テキサス大学法学校(法科大学院)に入学を拒否されたことをめぐる訴訟(→Sweatt v. Painter, 339 U.S. 629)。人類学者で法学者でもあったロバート・レッドフィールド(Robert Redfield, 1897-1958)が専門家証人として立ち合う。この裁判は、Brown v. Board of Educationへと展開する意味でも重要なものであった。
Brown v. Board of Education, 347 U.S. 483(正式名称はOliver Brown, et al. v. Board of Education of Topeka, et al.)(1954)
公教育における、黒人(アフリカ系アメリカ人)と白 人を分ける分離教育は不平等であり、合衆国憲法修正14条に対して違憲と判決したもの。1896年のプレッシー対ファーガソン裁判( Plessy v. Ferguson)において、「分離すれども平等(separate but equal)」という先例を覆した画期的な裁判といわれる。
原告のオリバー・L・ブラウンは、遠方に通学させら れている自分たちの子供を白人の近隣の学校に通学させようとして拒絶され、カンザス州トピカの教育委員会に対して集団訴訟を提訴した。ブラウンは、ユネス コが1950年に声明した「人種問題(The Race Question)」影響を受けた。この声明は、 過去に批判をうけ、1951, 1967, 1978年に改訂されたが、最初の原案は下記のようなメンバーであった。
"The original
statement was drafted by Ernest Beaglehole; Juan Comas; Luiz de Aguiar
Costa Pinto; Franklin Frazier, sociologist specialised in race
relations studies; Morris Ginsberg, founding chairperson of the British
Sociological Association; Humayun Kabir, writer, philosopher, and twice
Education Minister of India; Claude Lévi-Strauss, one of the founders
of ethnology and leading theorist of structural anthropology; and
Ashley Montagu, anthropologist and author of The Elephant Man: A Study
in Human Dignity, who was the rapporteur." source: https://en.wikipedia.org/wiki/The_Race_Question
また、ユネスコの側から関わったのがアルフレッド・ メトローである。(下記参照)
"In 1950, Métraux
moved from New York to Unesco’s headquarters in Paris where he headed
the international organization’s Race Division. Uniquely positioned to
help correct popular fallacies about the human condition and expose
ethnocentric misconceptions about cultural differences, he coordinated
the international team of scholars that produced the definitive U.N.
“Statement on Race” (1951). As a direct offshoot of the 1948 “Universal
Declaration of Human Rights,” it sought to dismantle any scientific
justification or basis for racism and proclaimed that race was not a
biological fact of nature but a dangerous social myth. As a milestone,
this critically important declaration contributed to the 1954 U.S.
Supreme Court desegregation decision in “Brown v. Board of Education of
Topeka.” As such, Métraux’s anti-racism advocacy helped shape the
social consciousness that ushered in the civil rights activism of later
years." Source: http://bit.ly/1WCXiwI
アーミッシュの就学訴訟裁判(1972)
連邦最高裁判所は、アーミッシュの親は8年生まで通 学させれば、ウィスコンシン州のすべての子供に義務づけられている年限まで就学させる必要はないと判断。この裁判では、ジョン・ホステットラー(John A, Hostetler, 1918-2001)が次のような証言を法廷でおこなった:アーミッシュに対して自分たちの信仰に反して無理に学校に通学させ、またその価値観に反する教 育を受けさせればアーミッシュの子供に心的な弊害がもたらされる可能性がある、と。また、そのような教育はアーミッシュのコミュニティの破壊につながる、 とも。これに対するダグラス判事の反論は、ホステットラーの資料のなかにコミュニティの半分までの成員の喪失があるが、同時にアーミッシュ文化が生き残っ ている事実に基づいたものだった(ローゼン 2011:102)。
"[A]nd served as an
expert witness in at least five court cases involving minority groups,
the most prominent being Wisconsin v. Yoder, which was heard by the
U.S. Supreme Court in 1972. He was an active participant in the
National Committee for Amish Religious Freedom." Source: https://en.wikipedia.org/wiki/John_A._Hostetler
Wisconsin v. Yoder 406
U.S. 205 (1972): See, https://en.wikipedia.org/wiki/Wisconsin_v._Yoder
Joint Tribal Council of the Passamaquoddy Tribe v. Morton, 528 F.2d 370 (1st Cir. 1975)
土地の権利請求運動でもっとも有名な訴訟は「パ サマ クォディとペノブスコットの両部族の訴訟」であり、この訴訟は、1981年にカーター大統領の直接介入もあり1981年に和解した(クリフォード 2003:350)。
先住民が土地の権利要求をおこなった時に根拠にした のは、「通商交易法 (Nonintercourse Act(1790, 1793, 1796, 1799, 1802, and 1834)」であった。
See: https://en.wikipedia.org/wiki/Joint_Tribal_Council_of_the_Passamaquoddy_Tribe_v._Morton
マシュピーの土地返還請求訴訟(1976年)
マサチューセッツ州ケープゴッドの一地区に対して、 連邦裁判所に提訴された土地訴訟。ここで問題になったのは、訴訟を提訴した人たちが、はたして「マシュピー先住民」であるかどうかをめぐるものであった (クリフォード 2003:12章)。この訴訟は、「マシュピー・トライブ〈対〉ニューシバリー社訴訟(Mashpee Tribe v. New Seabury Corp., 592 F.2d 575 (1st Cir. 1979))」といわれる(クリフォード 2003:351)。原告は「マシュピー・ワンパノアグ部族 (Mashpee Wampanoag)評 議会」、被告にあるニューシバリー社とは、この土地の大規模開発会社であるが、その被告総体は、会社のほかに、土地を所有するマシュピー住民と保険会社、 事業家、資産家なども含まれた集合的なものである。
この裁判には、ローレンス・ローゼン("Law
as Culture," 2006
の作者)も関わっている。クリフォード(2003)による、ローゼンの評価には傾聴すべきものがあるので、ここで記載しておこう。:「彼[ローゼン]は、
当事者対抗主義が規制するものや倫理的ジレンマを論じ、部族、バンド、国家、そして、チーフ[ダム?—引用者]のような語句を定義することの根深い問題を
議論した。ローゼンは訴訟行為に関する人類学者の役割はおそらく増大することになると示唆し、それゆえ学者たちは危険ではあるが避けられない領域に自らを
参入させる準備が必要であると助言している」(クリフォード 2003:467:原注(3))。
しかし、マシュピーの場合は、その先住民性が問われ のであった。数々の失敗を重ねて、2007年に内務省はようやくマシュピーの連邦承認を得た。
"Mashpee Tribe v. New Seabury Corp., 592 F.2d 575 (1st Cir. 1979), was the first litigation of the Nonintercourse Act to go to a jury.[1] After a 40 day trial, the jury decided that the Mashpee Tribe was not a "tribe" at several of the relevant dates for the litigation, and the United States Court of Appeals for the First Circuit upheld that determination (the panel included two judges from the landmark Joint Tribal Council of the Passamaquoddy Tribe v. Morton (1975) panel). / The Mashpee, as a tribe and individually, attempted to re-litigate the issue several times without success.[2] In 2007, the Department of the Interior granted federal recognition to the Mashpee,[3] and the tribe and the town of Mashpee, Massachusetts entered into a settlement agreement.[4]" source: http://bit.ly/1jF7YN6
リンク
文献
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