か ならず読んでください

ヨハネの撞着語法

Great oxymoron of The Gospel of John

池田光穂

《ヨ ハネの撞着語法 Great Oxymoron of The Gospel of John》

"An Oxymoron (usual plural oxymorons, more rarely oxymora) is a rhetorical device that uses an ostensible self-contradiction to illustrate a rhetorical point or to reveal a paradox. A more general meaning of "contradiction in terms" (not necessarily for rhetoric effect) is recorded by the OED for 1902." - Oxymoron.

共 観福音書(Synoptic Gospels)にはその言及はないが、イエスはなんども遁走したようだ。出奔し、思索し、宣教し、そして遁走するイエスのこと。僕は、イエスのなかに、 「大学という組織を信じない出来のわるい学生」のことを重ねあわせる——自分自身の学生時代がそうだったからである。悩み、出奔し、思索し、なにかを唱 え、そして遁走する。なんと人間らしいこと!

ヨハネ のなかに登場するイエスは、「その人」を神とみなすヨハネ自身の解釈と編集がみられるという。そし て、それが共観福音書との違いだというのだ——共観(Synoptic)には「大筋の(合意)」という意味があり、ヨハネの福音書はそこから逸脱している からである。もしそうだとしたら、ヨハネは、やはり撞着語法(oxymoron)に陥っていないか? それとも人間存在そのものが撞着=矛盾そのものなの か? 僕たち大学の課題は、「世界という書物」を読んで人間になることだと思う。僕がキミタチに送る言葉は、君たちにとってのヨハネ(真理あるいは人間の ナゾ)とはなんだろうということだ。矛盾に満ちた表現を撞着語法(oxymoron)という——例えば「馬鹿な天才」という表現がそうだ。だが、現代科学 は、我々の身体、とりわけ脳の情報処理において「馬鹿な天才」というのは異常な事態ではないという。むしろ一見パラドックスにみちたものが、脳のアイドリ ング状態としては自然だというのである。人間存在そのものが、撞着という事態を肯定し、悩み、出奔し、思索し、なにかを唱え、そして遁走するということは 普通のことだろう。

イエス と同様、さまざまな情況から時に「遁走しろ!(Run away from here!!!)」と僕が言うのは、そういう理由からだったのだ。遁走=逃げ出すというのは、その情 況に巻き込まれないこと、ノンコンフォーミズムを実践で示すことに他ならないからだ。

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私 は1980年4月中之島にあった本学の医学研究科修士課程に入学しました。入学許可書を受け取ったのは、当時、医学部長であった、岩間吉也学部長からでし たが、私の記憶では、その前年八月に第11代総長に就任された山村雄一先生がその場に居られたことを記憶しています。全国に先駆けて東の筑波大学、そして 西の大阪大学に、医学研究科にはじめて修士課程を設置することに、なみならぬ御尽力をされたと、のちに第14代総長に就任される若き日の岸本忠三先生から 授業の中でお聞きしたことがあります。それから36年後の今年の4月に、コミュニケーションデザイン・センターのセンター長として、医学系研究科修士課程 ならびに同研究科保健学専攻のオリエンテーションにおいてCSCDを代表して、以上のような挨拶をしました。

以 上、私たちの後輩に対する言祝ぎの挨拶としては、まことに煙に撒くような内容だったと今では反省しています。しかしながら、爾来、大学というのは、げに不 可解な現象に興味をもち、解明し、新たな疑問をぶつけるという使命を自認しているのだと思えば、それほど奇矯とは思えません。私自身も不可解ですが、以上 をもって、当大学の執行部の皆様に対する、今月末のセンターの廃止とセンター長の離任の挨拶にかえさせていただきます。

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旧版つまり改稿前(部分)

  福音書とは、キリストの使徒たちが生前のイエス・キリストの死と復活を描いた行状や、それにまつわるさまざまな教え——それを福音(ゴスペル、エヴァンゲ リオン)——という。アカペラで感動的に歌われることのあるゴスペル・ソングとは、奴隷解放前後の黒人(アフリカン・アメリカン)たちが福音の聖句を中心 に労働歌として取り入れて感動的に歌い上げた賛美歌であり、ブルーズやジャズの起源にもなっている。そして、キリスト教の新約聖書には、ご存知のようにマ タイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネという4つの福音書がある。しかし、もともとイエスの死と復活の物語は、為政者による排除と容認の過程のなかでさまざま に多様化を遂げていて、四大福音書の他にも「福音書」と称するものがあり、現在では外典福音書とまとめられて、さまざまな文書研究が進んでいる。

  共観福音書(Synoptic Gospels)という用語がある。四大福音書を比較検討した時に、マタイ、マルコ、ルカには共通点が多くみられるので、それを共通の観点をもつ福音書と 呼んだものである。ヨハネは、共観福音書には入っていない。この「使徒ヨハネ」——イエスにはじめて洗礼を授けた「洗礼者ヨハネ」と区別してこう呼ばれる ——あるいは「福音記者ヨハネ」には、3巻の手紙の他に、ヨハネの黙示録という、現在のサイエンス・フィクション顔負けのアポカリプシス(啓示)の物語作 品もある。そして僕がここで注目したいのは、ヨハネによるイエスの遁走する姿である。

文 献

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