ハイデガーから修辞と修飾をとると何も残らないのは本当か?
Stimmt es, dass von Heidegger nichts mehr übrig bleibt, wenn man Rhetorik und Ausschmückungen weglässt?
問い:ハイデガーの難渋な著作は、そこから修辞と語の修飾をとると何も残らないという揶揄が
あります。20世紀の最大の哲学者と言われているマルチン・ハイデガーの、この噂は本当なのでしょうか?みなさん自身が、それにあたることから考えてくだ
さい。
「形而上学は存在事物そのものに対する自らの問いへの答えにおいて、既にかかる存在事物に対 して存在を表象しているのである。形而上学は、存在を必ず言い表わさねばならず、またそれ故に常に言い表わしているのである。しかも形而上学は存在そのも のを言葉にもたらさない、というのは形而上学は存在をそれの真理において熟考せず、その真理を隠されてないものとして熟考せず、従ってこの隠されてないも のを、それの本質において熟考しないからである。真理の本質は、常に形而上学にとっては、認識の真理並びにこの真理の言表の、既に或るものから由来せる形 態においてのみ、形而上学に現われているのである」(ハイデッガー 1961:11)。
「さてしかしながら、形而上学は常にまた最も様々な仕方で転化して存在を言い表わしている。 形而上学は、自らによって存在に対する間いを出し且つ答えられるかのような外見を、自身で喚びおこし且つ確信するものである。けれども形而上学は、存在の 莫理に対する問いを少しも問わないから、如何なる場合にもその問いに答えることはない。形而上学がそれを問わないのは、存在事物を存在事物として表象 することによってのみ、存在を思考するからである。形而上学は全体における存在事物を思いうかべて存在について諮るのである。形而上学は存在と名づけて、 存在事物を存在事物として思いうかべるのである。形而上学による言表は、その学の始めからそれの完成に至るまで、珍しいことには、一貫して存在事物と存在 とを取り違えているのである。この取り違えは勿論出来事として考えるべきで、一つの欠点として考えるべきではない。その取り違えの理由は決して単なる思考 の怠慢とか或は言い表わしの軽卒さにあるのではない。そこで我々が形而上学は存在問題を提出するという場合に、この一貫しての取り違えの結果として、以上 の考え方は紛糾の最高点に達するのである」(ハイデッガー 1961:12-13)。
「「形而上学とは何であるか」——この間いは、形而上学について何かが述べられるのだという 期待をよび起こすであろう。我々はそれを述べることを見合わしたい。そのかわりに我々はある一つの形而上学的な問いを究明しよう。それによって我々は、あ たかも自身を直接に形而上学の中に移し入れるのである。我々はそのようにすることによってのみ、形而上学が正しくそれ自らを明らかにすることのできるよう にしたい。/我々の企ては一の形而上学的な問いを展開することをもって始め、次にその問いを究明することを試み、そしてそれの解答をもって完了するのであ る」(ハイデッガー 1961:34)。
リンク
文献
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Remind Wittgenstein's phrase,
"I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein
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