ハイデガーの修辞
On Martin Heideggers' fateful hoaxing
マルチン・ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)は奇妙なレトリック(修辞)の使い手である。
ハイデガーによると、古英語のthencan「思考する」とthancian「感謝する」が共有するルーツがあることを言っている。それは『思 惟とは何の謂いか』で創文社の『ハイデッガー全集』の第8巻にある
「われわれは、熟思を最も惹起するものを熟思することを通じてより以上に適切に、いかにして、この寄贈に対して、すなわち最も熟思させるも のを思考しうるという贈与に対して感謝できるであろうか。もしできるとすれば、最高の感謝こそが思考となるであろう。すると、最深の忘思とは思考しないこ とではないのか。そうであれば、真の感謝は、われわれ自身が贈与を持って来て、ただ贈与に贈与で報いるということに存するのでは決してない。純粋な感謝と は、むしろ、われわれが単純に思考すること、すなわち真に唯一与えられているもの、思考されるべくあるものを思考するということである」(Was heisst Denken? (2002:146)四日谷敬子ほか訳127-128ページ、1986年)
し かし、このような感覚に関する彼の不思議なレトリックすなわち「純粋な感謝とは、むし ろ、われわれが単純に思考すること、すなわち真に唯一与 えられているもの、思考されるべくあるものを思考するということである」ということが、この声を聞く人がその人の属している文化に無媒介的に生じると思う とは俄には信じがたい。
同 社のホームページによると、
「本書は、フライブルク大学の1951/52年冬学期ならびに1952年夏学期の講義を収録する。第2次大戦後に行った最初の講義であると ともに、最後から2番目の講義でもある(最後の講義は1955/56年冬学期の『根拠律』)。「思惟とは何を謂うのか」の問いは「何が思惟を言い渡すの か」の問いを自らのうちに含む。第1部では、ニーチェにおいて形而上学の終りが名づけられ、第2部ではパルメニデスにおいて形而上学 の元初が回想される。 Was heisst Denken? (2002)」(出典)とあります。目次は「単行本版への前書き 第1部=1951〜52年冬学期の講義および講義時間の移行 第2部=1952年夏学期 の講義および講義時間の移行 補遺(1951〜52年冬学期第九時間目の講義からの従来未刊行のテクスト一節/1952年夏学期からの講義されなかった最 終講義(第12時間目))」
と なっている。
ハ イデガーにはどうも虚言[→嘘の回路図]ないしは大層に言う[→極端な事例による構成:ECF]という疑念は疑いきれない。権威主義、自己保身、若きアーレント を引きつける恋文の技巧、そして「真理について語る」雰囲気を周囲の人に信じ込ませること。
ハ イデガーをレトリック構成の観点からもっと多角的に分析すれば、20世紀の知性の使い方 の誤用の歴史が明らかになるかもしれない。
「ニーチェ、フロイト、ハイデガーが活動したのは、形而上学から相続された諸概念のなかにおいてであった。そして、これらの概念は元素や原 子で はないので、また、これらの概念はある構文(シンタックス)とあるシステムのなかに捉えられているのだから、個々の特定の借用語は形而上学の全体をみずか らのもとに引き寄せてしまうのだ。そのため、これらの破壊者たちが互いに破壊し合うということも生じる。たとえばハイデガーは悪意と無理解によって、また それと同程度の明断性と厳密性によって、ニーチェを最後の形而上学者、最後の「プラトン主義者」とみなした」——デリダ『エクリチュールと差異』(邦訳 p.571)
■ ハイデガーの人間中心主義について
串田純一『ハイデガーと生き物の問題』法政大
学出版局、2017年
リ ンク
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