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ダンカン・マクドゥーガルの誤謬について

On Fallacy of Duncan MacDougall's experiment

Duncan MacDougall and he New York Times article from 11 March 1907

池田信虎・池田光穂

いささか気色の悪い話だが、20世紀初頭にアメリカ で行われた6人の臨死患者の死の直前と直後の計測実験から「魂が生体から遊離したことをもって」、ダンカン・マクドゥーガル(Duncan MacDougall, 1866-1920)は、1907年3月に、その魂の重さは4分の3オンス、すなわちメートル法だと21.3グラムだと主 張した("The 21 grams experiment")。彼は15頭犬を使っておこなった実験では「犬の魂」の減少が見られなかったことである(犬は毒殺された可能性もあると長く言われつづけてきたので、狗類学者の池田光穂から見ればこれはゆゆしき倫理的問題である)。マクドゥーガルの主張は、後の批判者たちにより、実験の不備を指摘され、「」という実体概念を用いない別の生理学的説明によって退けられた。つまり反証さ れ、論破された。

さて、私(=光穂)の関心は、この実験の正しさ/誤りというこ とにはない。むしろ、この実験の背景にはどのような知があることが、考えられるだろうかということに関心があるのである。

まず、魂は重さを測ることが可能であるという推測に ついて考えよう。この根拠は果たしてどこから来たのか。恐らくは生理学や解剖学からであると私は考える。魂の重さを測るという発想は体重を測ることとは違 う。なぜなら体重とは肉体全身の重さであり、少なくとも魂の重さを測定しようと考える人物は、身体の全体中の内に魂と肉体との総重量を見出すのである。

魂の重さを測るという発想の根底にあるのは、他の臓 器も同様に重さを測ることが可能であるという前提だろう。臓器が何らかの役割を果たして肉体という一つのシステムを動かすように、魂も肉体に宿り一人の個 人を成立させる要素と考えたのだ。マクドゥーガルは、魂もまたなにかの実体であり、質量をもつと考えたのだ。それゆえ、臨死患者の体重の「死を境にした」 差分を計れば、それが「魂」の重さだとした。

こうしたマクドゥーガルの発想の根底にあるのは、計 測によって一つのシステムから成り立つ物理的測定という発想が根底にある。だが、魂は質量をもたなくても実体として存在するという可能性について考えな かったのはマクドゥーガルの限界である。あるいは、(見えない)魂が質量をもつならば、それはニュートン力学の法則にしたがって、地表に横溢しているはず であるという想像すらできなかった。彼が動物に魂などないとデカルト流の考え方を採用しても、犬を虐待すれば苦痛に苛まれるはずだから犬も人間とは等価では ないが、魂があるはずだと考えるJ・S・ミル流の考え方を採用しようが、すくなくとも、我々の地表は過去に死んだ人間(および犬)の魂だらけになっている はずである。

ちなみに、私(=光穂)は、中米で民族学調査に長く ——かれこれ30年近く——従事してきたが、病死する犬や屠畜された豚が、死んだ瞬間にノミやシラミがその獣から出てきたこともなんども目撃したことがあ る。ノミやシラミは、暖かい血液を餌にしているので、流れなくなった瞬間に仮に体温が残っていたとしても、もはやその獣は良好な餌を与えてくれないと「認識」して、その宿主にさっさと別れを告げるのである。

さて、実験に戻ろう。マクドゥーガルが、質量をもった魂が死者から抜けて 質量を失い虚空に飛び去るのである、と言えば、魂は質量を持ったり持たなかったりという「実体」としての性格を失う。オカルト主義者なら、魂に質量がある とか、ないとかという発想が俗物であり、魂は質量の概念を超越するものだと、目くじらたてて反論するだろう(→質量保存の法則Conservation of mass)。

したがって、マクドゥーガルの発想は、日常の論理を 超越する「オカルト」的発想ではない。唯物論的な生理学者ですら、その21.3グラムを、生命活動が維持できない代謝や呼気をうしなったエネルギー損失を、質 量の普遍性の概念を使って説明を試みるだろう。マクドゥーガルの限界は、未来の自分の論理を説明するための知の前提とはなにかを考察することを手抜きした ために、得られた興味深い21.3グラムをより洗練された論理で説明することができなかった悲劇の産物なのである。

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