かならずよんで ね!

北川民次

Tamiji KITAGAWA, 1894-1989

池田光穂

年譜

北川民次(きたがわ たみじ、1894年1月17日 - 1989年4月26日)は、静岡県榛原郡五和村牛尾(現:島田市牛尾)出身の洋画家[1]。二科会会長(1978年)[2]。アメリカ合衆国とメキシコに 計22年間滞在し、高まりを見せていたメキシコ壁画運動などのメキシコ絵画(英語版)の影響を受けて力強い作風の作品を残した。児童美術の教育者としても 活動した。」

1895 

1月17日、静岡県榛原郡五和村牛尾 (現・島田市牛尾(五和地区))に生まれた

父親は幸次郎、母親はきく[3]。異母兄2人、異母 姉1人、異腹姉1人、実兄2人、実姉1人がおり、民次は五男だった[3]。地主でもある北川家は製茶業を営んでおり、アメリカ合衆国への日本茶の輸出も手 掛けていた[2]。小学校卒業後には静岡県立静岡商業学校に進学し、江戸時代の軟文学を読み漁ったり、女義太夫を観に芝居小屋に出向いたりした[3]。

1910 静岡商業学校を卒業、早稲田大学商学部予 科に進学して高田馬場に下宿

1912 詩人となる秋田雨雀の知遇を得たほか、予 科で上級だった宮崎省吾(フュウザン会出品画家)に手ほどきを受け、1912年(大正元年)頃に絵を描き始めた。

1914 早稲田大学を中退して横浜港から渡米し た。オレゴン州ポートランド在住の実兄・津久井育平の家に身を寄せ、レストランで働きながら語学学校に通って英語を習得した

1915 イリノイ州シカゴでの滞在

1916 

初頭にニューヨークに渡った[4] [5]。ニューヨークでは舞台の書き割りを担当する職人として働いて生計を立て、この経験が後に構図のセンスの良さにつながったとされる[5]。劇団が地 方巡業に出る際には北川も同行し、劇場組合員として労働争議にも参加。北川は当時を「学生というより、労働者と言ったほうが適切であった」と振り返ってい る[6]。

1919 

美術研究所であるアート・スチューデン ツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学。夜間のコースを開催していたジョン・スローンに師事しているが[1][4]、後にはスローンが社会主義者だったか らスローンを選んだとも語っている[5]。スローンに学んだ日本人には石垣栄太郎やヘンリー杉本などもいる[4]。北川と同時期には国吉康雄もアート・ス チューデンツ・リーグの別教室で学んでおり、国吉とは芸術や社会を論じた[4]。スローンには「民衆を描くこと」「目前の対象を忠実に描くこと」を学び [5]、1921年(大正10年)にアート・スチューデンツ・リーグを卒業した[2]。アメリカ合衆国ではフリードリヒ・ニーチェの思想に傾倒し、ジーク ムント・フロイトの心理学も学んだ[5]。

1922 

10月にはニューヨークを後にし、フロリ ダ州マイアミで日本人経営者の農園の労働監督者を務めた[7]。その後キューバのハバナではホテルで働いていたが[7]、アメリカで貯めた3,000ドル やニューヨーク時代のデッサンなどが入ったスーツケースを日本人に持ち逃げされた[8][6]。

1923 

9月にはメキシコのオリサバに着き、しば らくの間は聖画の行商を行った[7][2]。同年中にメキシコシティのサン・カルロス美術学校(英語版)(メキシコ国立美術学校)に入学すると、3か月で 課程を修了して卒業している[7][2]。サン・カルロス美術学校はホセ・クレメンテ・オロスコやディエゴ・リベラやダビッド・アルファロ・シケイロスが 学んだ学校でもある。

1924 

メキシコシティ郊外のチュルブスコ(英語 版)僧院に附属した野外美術学校のスタッフとなり、オロスコ、リベラ、シケイロスらによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)に共感。1925年 (大正14年)にはメキシコシティ郊外のトランバムの野外美術学校で教えはじめ、野外美術学校の生徒の作品展はメキシコ大統領や文部大臣などが称賛、ヨー ロッパにも巡回されてパブロ・ピカソ、アンリ・マティス、藤田嗣治などが称賛した[7]。

1926 野外美術学校の正規教員

1929 

11月17日には二宮てつ乃と結婚した。 日本で看護師をしていたてつ乃は、駐日スペイン大使の娘を看護した縁でスペインを訪れ、同大使のメキシコ転勤の際にメキシコに同行していた

1930 長女が生まれる

1931 タスコ・デ・アラルコンに移転した野外美 術学校の校長となった

1933 南北アメリカを旅行中の藤田嗣治とその妻 マドレーヌが、一週間に渡って北川の家に滞在[8]。タスコ在住時には国吉康雄、イサム・ノグチ、シケイロス、リベラなどの訪問も受けている

1936 

42歳だった1936年(昭和11年)夏 にはタスコの野外美術学校を閉鎖し[2]、7月30日には妻子とともに横浜港に到着した[6]。グッゲンハイム奨励金を得ることや、長女を日本で教育させ るための帰国であった[9]。日本帰国後にはまず静岡県に滞留し、次いで妻の実家がある愛知県瀬戸市刎田町で1年近く過ごした[9]。

1936-1937 水彩画の連作『瀬戸風景』を描 いており、当時はほとんど注目されることがなかったが、後に学芸員の村田眞宏はこの連作について「日本の水彩画の歴史に新しい1ページを加えた」と評価し ている[10]。

1937 

8月には上京して東京市豊島区長崎仲町に 転居した[9]。同年9月には第24回二科展に5点を出品し、藤田嗣治の推薦で二科会会員となった[9][6]。当時の日本の洋画壇の中では異質の画風を 持ち、その作品はメキシコ派と呼ばれた[6]。同年11月にはやはり藤田の紹介により、銀座の日動画廊で初個展を開催している[2][6]

1938 2月には横浜市教育会館で講演会を行う傍 らで、メキシコから持ち帰った児童画の展覧会を開催している[6]。二科展に出品し続けた

1939 聖戦美術展

1940 紀元二千六百年奉祝美術展

1942 久保貞次郎の資金援助により、久保らと設 立したコドモ文化会が北川原作の絵本『マハフノツボ』を出版したが、その後は用紙の入手すら困難となって絵本の出版を挫折した[8]。

1943 新文展。11月には疎開先として5年ぶり に瀬戸市にやってきて、以後は1968年まで瀬戸市に住んだ[2]

1944 から終戦までは愛知県立瀬戸高等女学校 (現・愛知県立瀬戸高校)の図画教師を務めた[9]。瀬戸市は陶土や珪砂の採掘もおこなう窯業の町であり、銀鉱山で栄えたタスコと共通点があった [10]。

1945 太平洋戦争後には二科展のほかに、美術団 体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに精力的に出品を行った[2]

1949 1949年(昭和24年)夏と1950年 (昭和25年)夏には、名古屋市の東山動物園内に名古屋動物園美術学校を開校[13]。1か月に渡って開校されたこの学校は保護者からの評判も良かった が、移転計画の頓挫などに失望している[8]。

1951 名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立 した[2][13]。この頃には高知・福井・新潟・長野などで美術教育に関する講演を行っている[13]。

1952 

5月には創造美育協会の発起人となり [2]、全国を回って「創造美育運動」のセミナーを開催した[13]。同年には第5回中日文化賞を受賞している[1]。このように昭和20年代は壁画制作 の研究や美術教育の実践などに力を入れていたため、展覧会への出品数は他の期間に比べて少ない[14]。

繪を描く子供たち : メキシコの思い出 / 北川民次著, 東京 : 岩波書店 , 1952

1955 1955年(昭和30年)から1956年 (昭和31年)には約20年ぶりにメキシコを訪問し[15]、その他にも中南米、フランス、スペイン、イタリアなどを旅行した[2]。神奈川県立近代美術 館では須田国太郎との2人展が開催され、画集や版画集も刊行された[15]。

1956 「スペインではゴヤよりもグレコよりも古ローマ時代の作品が私を感動させ、イタリアではルネサンスの作品を見ていると気が苛立った」(北川民次, 1956)

1959 大きな壁画2作品をほぼ同時期に完成させ た[16]。名古屋市中区の名古屋CBCビルの壁画と瀬戸市民会館の壁画である。

1950年代末から1960年代には、安保闘争や公 害問題などの社会問題を主題とする政治的な作品を多く製作し、北川様式とも呼べる絵画表現を確立させた[18]。メキシコ・花・母子像の画家というイメー ジは1960年代に定着したとされ、題材に時事問題を取り入れるようになったのは1960年代以後とされる[19]。1960年代後半から1970年代に は、原色を多用した作品を製作し、太くて堅い線ではなく柔らかい線が用いられるようになった[19]。この時期には銅版画・石版画・木版画などの作品も制 作している[2]。

1960 メキシコの誘惑 / 北川民次著, 東京 : 新潮社 , 1960(1955-1956年のメキコ滞在を中心としたエッセー集)

1962 名古屋市中区のカゴメ名古屋本社ビルに、 高さ3メートル×幅15メートルの壁画『TOMATO』を製作した[17]。カゴメ創業者の蟹江一太郎からは「トマトはなるべく赤く」などという注文がつ いたという[17]。

1968 12月には瀬戸市に隣接する東春日井郡旭 町(現・尾張旭市)旭台に転居

1970 瀬戸市立図書館壁面に陶板壁画を製作 [16]。「妄想におびえる人間が本で知識を付けて妄想を拭い去る」というメッセージが込められており、北川の壁画としては最後の仕事となった[16]。

1970年(昭和45年)前後には母子や花などの エッチングに精力を傾け、1970年の1年間には60点を超える銅版画を製作している[21]。メキシコ時代から水墨画も描いており、1970年前後には 水墨画でも多くの作品を残した[21]。80歳に近づいた1970年代半ばには、新しい画題として故郷静岡県の茶畑を取り入れた[21]。

1978 4月に二科会会長の東郷青児が死去する と、北川が後任の二会長に就任したものの、同年9月に会長を辞任

1979 二科会を脱退した。二科会を退いたのとほ ぼ同時期には、絵筆を置く表明も行っている[21]。これ以後の作品は数少なく、最晩年の1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にアクリ ル絵具で色紙に描いた十点ほどの作品があるのみである[21]。

1986 メキシコ政府から、外国人に対する最高位 の勲章であるアギラ・アステカ勲章(英語版)を授与された[22]。その一方で、愛知県が北川に勲章を与えようとした際には固辞している[5]。

1989 4月26日、瀬戸市の陶生病院で死去 [2]。死因は肺線維症[2]。97歳だった[2]。7月からは名古屋市美術館で回顧展「追悼 北川民次展」が開催された[23]。

1996 1996年(平成8年)11月から 1997年(平成9年)1月には愛知県美術館で「北川民次展」が開催された[24]。1996年中は穏やかな客入りだったが、年を越してから入場者が増加 し、結果的には約3万人の鑑賞者を集めた[24]。

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