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人工知能の定義をめぐる支離滅裂さ

The incoherence surrounding the definition of artificial intelligence

解説:池田光穂

人工知能(AI)とは、一般的には、(1)人間の知性・知能を計算機によって作り出すこと、(2)作り出され た〈実体〉、あるいは、(3)このことに関 する学問分野や実践、さらには欲望など、を指す複雑な言葉である、といえる。しかし計算科学を専門とする人ならば、人工知能とは、連合学習(Federated learning)を機械におこなわせることだ、と端的的に定義するだろう(→「人工知能の理論問題」)。

俗にいう人工知能(artificial intelligence)とは、コンピュータ科学が定義する、「機械学習」+ 「デープラーニング」+「連合学習=フェデレーティッド・ラーニング」の3つの様態の人工的な学習プロセスのことであり、これは有機体としての人間がおこ なっている「人間学習(human learning)」とは根本的異なっている代物である。その意味で、人間学習は、非=人工知能学習のことであり、人工知能がシリコンチップによる無機学 習だとすれば、有機学習であるとも言える。

(A)英 語のウィキペディアはそのことを正しく定義している;"Artificial intelligence (AI) is intelligence demonstrated by machines, as opposed to the natural intelligence displayed by humans or animals."(人工知能(AI)とは、人間や動物が示す自然な知能とは異なり機械が示す知能のことである)→ということは、AIの「知能」もチューリング・テストのように、「知能をもっているとみなす」という定義ではなく、認識論的判断になる。ということは人工知能研究者にとって「知能」の定義などは、どうでもいいことにならないか?

(B) こ のように、人工知能の定義は、実際に、人工知能研究をおこなっている研究者にとっては、自明で明らかな概念であるが、おろどくべきことに日本の、人工知能 を研究をリードするオピニオンリーダーたちが、このような「実用的定義」から遠く離れてまったく支離滅裂なことを吹聴している。これは、連中が素人騙すた めの饒舌なのか、詐術なのか、それとも、真面目にバカを信じているのかがわからない。このなかで、一番まもとな意見は、浅田稔(大阪大学)の「知能の定義 が明確でないので、人工知能を明確に定義できない」であるが、これは、人工知能の定義から逃げている屁理屈であり、定義には含まれない。浅田先生は、正々 堂々と「知能」を定義すればよい。それだけの見識と経験がおありだからである。だが、浅田先生——本当のところは浅田でも深田でも誰でもいいのだが——の 主張は、慧眼と言えないこともない。なぜなら(A)のように、人工知能を「機械が示す知性=知能(intelligence demonstrated by machines)」と同語反復で定義すれば、浅田先生のように「知性=知能」を定義するのは(それを批判する人も含めて)人工知能研究者以外の人たちの 仕事でもあるとも受け取れるからだ。「語りえぬものについては,沈黙せねばならない」-L.W.

そ して、ここからある大学院大学の教授から次のような趣旨のコメントをいただいた:ご自身は、Artificial Intelligence より machine intelligence とするのが適切と教えられた経験がある。その意味の「知性」を支えるものは、有機体なのかシリコンなのかは実装方法の違いであって本質をめぐる議論なので はなく、実際のところ「何が計算可能なのか」ということが重要であるということだ。連想もプログラムできるなら計算可能なので問題としては特に変わったものはない。「量子的確率がプログラム可能かどうかが重要な問い」なのである。しかしその議論は古代ギリシャのクリナメンまで遡るものである。「もし予測不能であることが知能だとするなら、狂人をシミュレートできたら人工知能ができた」ということになる。多くの研究者はたぶんそのようなことに関心を持たないだろう。

そ して、それに対する私のリプライ:「何が計算可能なのか というのが本来の趣旨であった」というご指摘もっともです。経済統計調査の質的現象を考察する人 は、非常に単純なことですが、質的審問を「ダーミー変数」という可変なものとして取り扱うということをおこない。いわゆる「実証」の議論の幅を広げた。そ れはクリナメンのような呪文や神学(あるいは哲学)なのではなく、機械学習の人たちのシンプルな探究(=パレート最適ま で計算をつづける)という単純な行為ときわめて類似しています。だから、人工知能にオカルトを吹き込むのは機械のほうではなくて人間のほう、あるいは、デ カルト理性を担保するための「機械の中の幽霊」にすぎません。「そんなことには研究者は関心がないとするとこの問題はむしろ知能に関する社会科学的な解釈 の問題であろう」というのが、これらの議論の正しい帰結です。ページに反映させます。

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