「健康の開発」史:医療援助と応用人類学
On
Development of "Health": A Historical Overview
of Applied Medical Anthropology.
医療援助の発展に人類学がどのような役割をはたしたか、について問うことの意義はなんであろうか。おそらく、そのようなことに関心をもつ 研究者はわずかだろう。日本の学界では、近年開発人類学に対する関心が高まっているといえ、医療援助に関与した研究者はきわめて少なく特殊なジャンル上の 問題だと認識されているようだ。それゆえ、多くの人類学者にとってさほど大きな意味を持たないというのがこの問いの答えだろう。だが、医療援助に関する議 論は人類学の中心的テーマから外れた特殊な問題にすぎないのであろうか。そうとも言いきれまい。植民地科学としての人類学の歴史的および科学社会学的検証 や「開発言説」の批判的研究を通して(eg. Stocking ed. 1991; Escobar 1995; Said 1978)、近代人類学が実践科学としてその誕生の初期から現地の社会変化に深く関わってきたことは明らかである。人類学が文化相対主義にもとづいた民族 誌を提示し、近代西洋社会にとって認識論的な衝撃を与えた一方で、人類学はまたその科学の有用性を主張し実践の問題にむすびつける努力を怠ったことはな かった。近代人類学はこの二重の営為なくしては存在してこなかったのである。しかし昨今の人類学内部からの批判的検討においては、民族誌記述の客観性や他 者表象操作の政治性などの問題に比重がおかれており、応用人類学をめぐる冒頭のような問いかけがおこなわれることはきわめて少なかった(玉置 1988;Hobart ed. 1993)。応用科学としての人類学について批判的に考えることを、さまざまなアポリアに直面した人類学の苦境とその創造的な乗り越えの試み(cf. Clifford 1988;清水 1992;太田 1993)に連動させて考える時期に我々は直面している。
この論文において筆者は、医療援助に関わる応用人類学を時間の流れに即して考察する。この分野はやがて応用医療人類学(applied medical anthropology)というかたちでパラダイムの確立をみるが、その際に留意しておくべき点がある。それは応用医療人類学が最初からひとつのまとま りをもった運動体だったわけでなく、また単一の起源をもつものでもないということである。この分野は複数の歴史と起源をもつ学問領域であり、現在において もなお多様さを失っていない。この多様性の原因は、この分野の理論や方法がその時代における医療援助を支える社会の文脈の多様性と密接な関係をもってきた からではないだろうか。そして理論が研究対象の社会から純粋に抽出されるのではなく、その研究を可能にした歴史的および社会的状況から創造されるのではな いだろうか。
したがって筆者は医療援助に対して次のような認識論的立場をとる。救い手を差し伸べてきた先進諸国すなわち「援助する側」が、医療援助と いう枠組みを最初に想像/創造したのであり、「援助される側」はそれに連動して創られたり、時に対抗的に形成されたものだと(cf. 池田 1993)。医療援助の歴史のなかで「援助する側」と「援助される側」という二分法にもとづく枠組みが人びとによって無批判に受け入れられ、それが医療人 類学のさまざまな理論の源泉になってきたのである。実践的な問題にかんする筆者の立場は、現在の医療援助のシステムを無批判に推進することでもないし、ま たそれを全面的に否定することでもない。この認識論的批判を梃子にして、医療援助をより適切な代替システムに置き換えるさまざまな実験的努力を怠るべきで はない、というのが筆者の立場である。
2. 植民地科学と医療
医療援助の歴史を18、19世紀のキリスト教宣教師たちによる布教と治療で始めることはできるだろうか。ドグマへの帰順の見返りとして医 療を施すことは、医療を手段としてみなすことである。しかし、それは西洋近代医療そのものがドグマと化し、医療そのものへの帰順を求める医療援助とは異な る。したがって近代化にともなう西洋開発国による植民地や低開発国への組織的な医療介入を、今日的な意味での医療援助の始まりとしたい。(→「医療宣教」)
19世紀の早い時期に欧米各国の衛生制度は一定の発展を遂げていた。1851年およびその翌年にパリで国際衛生会議が開催され、伝染病を 防止する衛生政策の有効性が確認されるとともに、各国の衛生制度の違いが問題になった。そこでの合意は、流行病は国境を越えて地球的に管理されなければな らないというものだった。そのため流行病対策の国際協力がはじめて議題になり、1874年には流行病を阻止する常設の国際審議会の設置が提案された。とこ ろがパリに公衆衛生国際事務局が設置されたのはそれから四半世紀以上たった1907年であった(シュライオック 1974:202-3)。この遅延の理由はなんであろう。いうまでもなく西洋の人びとにとって熱帯地域は病気が猖獗する地帯である。植民者の健康を維持し 植民地の住民が熱帯病に罹患することによる植民地自体の生産性の低下を防止することは、宗主国の衛生政策において重要な課題になる。しかし衛生政策はそれ を裏づける「熱帯医学」の成立があって初めて可能になったからである。熱帯地をフィールドにした医学すなわち熱帯医学が形成されるのは19世紀後半であ る。植民地における医学的研究論文が報告されるのは早くても細菌学が科学として成立する1870年以降のことである。香港に在住していたマンソンがフィラ リア線虫の蚊の媒介説を1879年に報告する。1880年にはフランス軍医ラブランがマラリア原虫について初めて報告し、のちにロスがその媒介経路を解明 する。1881年ハバナのフィンレーが黄熱の媒介蚊について最初の報告をおこなう(ドラポルト 1993)。1883年にはエジプトでコレラが大流行するが、コッホ自身やパスツールの門下たちはエジプトやインドに遠征して、その病原を追い求めてい る。熱帯医学の有効性が確認され始めたのだ。植民地における白人および先住民に対する医療の必要性から、熱帯医学校が19世紀末から20世紀初頭に設立さ れるようになる。熱帯医学研究の名門ロンドン校(現在の London School of Hygiene and Tropical Medicine)である熱帯医学学校(School of Tropical Medicines)が植民地医療サービス局を支援するために開校されたのは19世紀も終わろうとしている1897年であった。
植民地における熱帯医学研究が促進された理由はいくつかあげられる。第一に、植民地の維持管理を医学の面からおこない、植民地の生産性を 向上させ、植民地および宗主国に利益をもたらそうとしたことである。第二に、消化管寄生虫症、黄熱、マラリアなどの「熱帯病」は、植民地の人びとを発展の 遅れた地域にとどまらせ「文明の恩恵」から遠ざけている。そのため宗主国は医療によってそれらの障害を取り除く「使命」があると考えたこと。そして第三 に、19世紀の科学主義の伝統にたった生物医学者たちが、「熱帯医学」を生物医学と公衆衛生学が融合した新しい医療分野としてとらえ、それに積極的に取り 組んだことである(Corner 1964)。援助する者とされる者が形成される背景には、それを支える理論的な位置づけが必要であった。熱帯医学は、それに実体的な根拠を与えたのだ。
海外をこえた医療援助の通史では、ロックフェラー財団が1916年から1922においてセイロン(現スリランカ)で鉤虫つまり十二指腸虫 (hookworm)の駆除計画をおこなったのを嚆矢とする。その計画は、人口調査、感染源を探索する衛生調査、糞便および血液検査、罹患者に対する治療 と便所の設置から構成されていた。
セイロンでの応用に先立ち、米国南部でのプロジェクトが先行しておこなわれた(1909-14年)。米国の南部は、南北戦争以来、北部に よる経済的な従属状況が続いており依然として低開発状態にあった。ロックフェラー財団は慈善事業として南部の衛生状態の改善を重要な課題の一つにした。こ の計画では、1902年に設置された財団の一般教育理事会が南部において当初、白人と黒人のための教育プログラムに着手したのを皮切りに、農業プロジェク トに受け継ぎ、やがて十二指腸虫駆除プログラムへと展開させた(Brown 1976:898)。駆除プログラムはアメリカ南部の70万人を対象とした。十二指腸虫の「撲滅」は成功しなかったものの、一部の地域では「制御」が可能 になり感染率が低下したりした。第三世界で展開される感染を予防する保健態勢のモデルはアメリカ南部において産声をあげたのである。
ところで、なぜ十二指腸虫であったのだろうか。当時の新聞記事は、南部の開発が遅れているのは、南部の綿花労働者たちが「怠惰」であった が、その理由がこの寄生虫によるものであると述べ、動物学者による「怠けの病原菌」の発見がなされたと報じている(Brown 1976:898)。多数の寄生虫による感染は、低タンパク質症および鉄の代謝を損なう貧血を引き起こすと考えられているが、米国南部の低い生産性の原因 として寄生虫が考えられたのである。
ロックフェラー衛生委員会は米国の南部でおこなった5年計画をもとに、新しい基金である国際保健委員会(International Health Commission)を1913年に創設した。これは、十二指腸虫症対策と公衆衛生の二本立てからなる。この計画は、大英帝国圏内の近隣諸国であるセイ ロン、マラヤ(現マレーシア)、エジプト、西インド諸島、ラテンアメリカ各国、およびフィリピン、中国などのアジア諸国でおこなわれた。中国では北京協和 医学院が創設された。1914年には黄熱病対策の計画が、1915年からはマラリア対策計画が、公衆衛生普及員の訓練と共に始まった。これは医療援助の際 に使われる手法の基本的な原型がこの時代にすでに完成されているということである。
また日本の公衆衛生院の設立にさいしてロックフェラー財団は基金を拠出している。財団は低開発国の公衆衛生問題に1910年代の中ごろか ら始まるが、この時期に日本の医学教育家長与又郎ほか3名を視察のため米国に招聘している。その際、長与はわが国に公衆衛生技術官の教育機関の寄付を財団 に求めた。しかし日本政府は文部省所轄の東京帝国大学附属伝染病研究所があったために一度はこれを辞退する。ところが1930年に内務省は財団に対して要 請をおこない計画が再開された。満州事変などの日米関係の悪化にもかかわらず、計画は進行し37年に公衆衛生院と都市保健館(共に東京)および農村保健館 (埼玉)が完成された。ロックフェラー財団がそれまで建設や設備等で負担した経費は1934年には総額で百万ドル以上になるといわれる。両保健館の業務は 現在の保健所の活動のモデルとなるもので、衛生思想普及のための社会啓蒙と疾病の社会的管理にあった(野辺地 1988)。しかし、当時はすでに1938年の国家総動員法の公布を目前にして、内務省主導による国民の衛生はかなり統制のとれた国家管理下にあった(日 本公衆衛生協会 1983:257-275)。
ロックフェラー財団による支援計画には、熱帯病対策を通して低開発国における生産性を高め、慈善事業を通して米国に対する排外的な敵意を 鎮めるとともに、かつ現地の人びとを工業化に従順な人間に育てることが意図されており、それは内部文書でも確かめられている。ブラウンによると、コスタリ カにおける財団の十二指腸虫キャンペーンの1918年の財団の報告書には次のような文言がある。「コスタリカの2つのプランテーションの320名の労働者 が十二指腸虫感染より治癒し、生産性が劇的に増加したことで、この治療の経済的価値は立証される。ひとつのプランテーションはほとんど50パーセントの作 付面積が増加したが、余計な労働無しに、またより少ない耕作コスト負担によるものである。各々の労働者はより低い労働単価で、しかし増加した労働強度によ り、より強くより長く働くようになり、多くの給金を受け取った」と(Brown 1976:900)。ロックフェラー財団は、フィリピンにおいて中央政府に“反抗的”なモロの人びとに「文明の恩恵」を享受してもらうために病院船を派遣 している(Brown 1979:124)。このような活動は結果として公衆衛生事業を通して低開発地域の人びとの文化的自律性を低下させることになった。財団の活動は1920 年代前半には、60カ国以上の地域で10年ちかくの活動をおこなっていた。しかし、プログラムは必ずしも成功したとは限らなかった。セイロンでは便所を利 用する習慣は根付かなかったし、ラテンアメリカでは米国による内政干渉として現地の人びとから否定的な評価を受けていた。この教訓がやがて財団をして文化 人類学理論の社会への応用にかんする関心と向かわせることになる。
ロックフェラー財団は、1920年以降英米を中心とした人類学者に研究基金を援助したこともまたよく知られている。当時財団は後に機能主 義人類学の指導的地位につくマリノフスキーやラドクリフ=ブラウンの理論に関心をよせていた。マリノフスキーはトロブリアンドで調査を行っていた当時から 民族誌調査の結果が「原住民」にふさわしい植民地統治に結びつくことを確信していた。1918年3月28日付の彼の『日記』は「統治のための民族誌研究の 価値」という論文構想について触れられている。彼は「土地所有、人材確保、健康、そして状況の変化(彼らを丘から引きづりおろすような)」の項目をあげ、 民族誌的調査の効用を「原住民の慣習を知ることで、彼らに対して共感を呼び、彼ら自身の観念によって彼らを導く」と述べている(Malinowski 1967:238)。マリノフスキーはその後、進化主義や伝播論にみられる学問的態度をあからさまに批判するようになり「現在の社会的関心」に力点をおい た実用人類学(Practical Anthropology)を標榜することになる(Malinowski 1929)。彼のこの提案はすでに1920年代の中頃には公に表明され、ロックフェラー財団に働きかけていたが、財団は学問的にも個人的にもマリノフス キーと反目関係にある伝播論の大御所エリオット・スミスに遠慮して、積極的な支援を見送っていた(Stocking 1992:193)。
しかしながら、機能主義人類学の旗手として1930年代には財団からの積極的な支援を受け、マリノフスキーはアフリカにおいて、彼の実用 人類学の実践を可能にした。植民地統治に関する調査を通して、彼は「原住民」の栄養問題に関心を寄せている。彼によると、現地の人びとの栄養状態はすでに 西欧文化との接触によって文化変容を受けている。そのために、現地の政治的、文化的状況にあわせて栄養状態を改善してゆくためには、人類学的な現地の情報 の収集がなされ、またそれが栄養改善計画のなかに積極的に活用されなければならない(Malinowski 1945)。このような「実用的な傾向」(practical bent)は、後には30年代から40年代のR・ファースやA・リチャーズなどの英国の植民地人類学者にみられる一般的な態度になってゆく(eg. Firth 1934)。彼らは、文化相対主義的な眼をもって対象を知らなくては植民地行政は円滑に進まないと主張したが、とくに食事と衛生の問題に関心 をもった(キーシング 1975)。英国では人類学理論そのものが植民地統治の科学として組み込まれていると同時に、研究者たちはその実用においても還元可能、より積極的には還 元すべきものであるとみていた。
米国の応用人類学の起源にはいくつかの見解がある。リンド夫妻による『ミドルタウン』が公刊された1920年代末に遡れるという見解がそ のひとつである。リンド夫妻はフィールドで得られた知識を人びとの生活の改善に与する姿勢を表明していたからである。他方1930年代中頃のニューディル による不況の巻き返しの時期に、社会問題に対処する応用人類学という枠組みが出てきたという見解もある(Escobar 1991:652)。いづれにせよ20年代の終わりから30年代にかけての米国では、学問を社会に生かすべきであることは研究者のあいだでは一般的に受け 入れられていた。人類学においても、植民地、インディアン居留地、あるいは国内のマイノリティを対象とした行政、社会福祉という社会的な要請のもとに、文 化変容や同化の問題に対処する研究領域が確立されていった。30年代初頭のボアズ学派、例えばミードのサモア研究、ハースコビッツの黒人の自然人類学的研 究、カイネバークの黒人移民の知能研究など、は当時台頭しはじめた人種主義に対抗して科学理論を打ち立てるという野心があったが、それらをロックフェラー は支援した(Stocking 1992:186)。インディアン居留地では、近代医療が導入されて以降、人びとの宗教や信条にどのような影響を与えたか、さらには科学的な信条と伝統的 な信条の共存に関する民族誌的研究がおこなわれた(Leighton and Leighton 1945)。しかしながら文化変容の理論そのものは、戦後登場する技術変化論とはことなり、いまだ「歴史的個別主義」にとどまるものであった (Redfield et al. 1936)。米国では人類学調査はもっぱら国内が中心であり、海外植民地の統治の科学よりも文化相対主義にもとづく「科学的」理解に力点がおかれていた。
3. 政策としての医療援助
米国の応用人類学会は1941年に創設された。1930年代後半以降、米国では科学者のあいだで学問的研究と科学者の社会的責務について 明白に意識されていたことはすでに述べた。第二次大戦時においてはその傾向がさらに強まり米国の人類学者の戦時協力は高い時で全体の9割以上に達した (Johannsen 1992:72)。R・ベネディクトは1939年に未開人の食物と食習慣に関する共同研究をおこなっていた。彼女は当時、栄養問題の解決に人類学的知見を 動員することに関心を寄せていた農務省のM・ウィルソンと接触し、国防を円滑に遂行するための総合的な栄養政策の必要性を説いていた(カフリー 1989:459-461)。彼女は1941年のウィルソン宛の手紙の中で、食料の配給、学校給食、ミルクやオレンジの有効利用を主張した。ウィルソンの 後押しもあって米国の国家研究会議(National Research Council)はR・ベネディクト、J・クーパー、M・ミードなどからなる食習慣委員会(Committee on Food Habits)を1942年に召集した。この委員会は、異なった土地において米国人が新しい食習慣の受容や栄養学的に有用な食物受容に関する答申をおこ なったほかに、人類学的な理論にもとづく食習慣研究マニュアルを作成した。日本の敗戦後の1946年10月にGHQが学校給食の実施を指示し、迅速に計画 を実行できたのは、このような研究成果があったからである。占領政策では、ほかに保健所法の1947年全面改正によって衛生行政を内務省から厚生省に移管 したり、保健所を全国に設置した(サムス 1986)。
米国政府がラテンアメリカ各国に技術援助の中に保健計画を組み込んだのは、応用人類学会の創設の翌年の1942年である(Foster and Anderson 1978:7)。政府は、インター・アメリカン事情研究所(Institute of Inter-American Affairs)を通して、戦争遂行のための情報収集と連合国の連帯強化を目的として、ラテンアメリカ各国への保健援助を計画した。この計画にはG・フォ スター、R・アダムス、C・エラスマスなどの戦後の医療援助に発言力をもつようになる人類学者たちが雇用された。地域に保健センターを設置し、環境衛生、 保健教育、マラリア防除などの活動をすることが計画の骨子だった。人類学者の仕事は計画に参加するとともに、保健センター設置の評価をおこなうことであっ た。米国がラテンアメリカでとった保健計画は、それまでの植民地における保健施策とは根本的に異なっていた。植民地住民は宗主国から「保護」される従属的 な対象とされていたのだが、米国がおこなったことは軍事力を背景にしながら人類学者が現地の人と「協力」するという先駆的モデルをつくりあげたことにある (Hill 1991:15)。
ロックフェラー財団や戦前の米国政府のプロジェクトがあるにもかかわらず、医療人類学なるものの起源は第二次大戦後であるとみる見方が一 般的である。米国人類学会連合(American Anthropological Association)に属する医療人類学会(Society for Medical Anthropology)は1969年に医療人類学の起源についてふれ、それを「第二次大戦終了直後に互いに収斂することになる保健科学と人類学におけ る調査と応用のいくつかの系統」からなるとしている。もっともこの時期には医療人類学という用語はなく、この領域を国際公衆衛生 (international public health)と呼ぶことができる。欧米の人類学者たちは戦争終結以前から、世界的な規模での危機が乗り越えられ、戦争終結後の新しい世界秩序に人類学が 実践的な貢献をもたらすと信じていた。そのひとりハロウェルは、文化変容にともなう治療システムの受容・非受容について分析をおこなった。彼は第二次大戦 によって未開社会の西洋文化への順応と伝統文化へのゆり戻し(再順応)がともに大きく起こったことを指摘した。そしてそのような状況把握のための知識とし て人類学が応用されるとき、人間の新しい文化の創造が可能になるという(Hallowell 1945)。
しかし、大戦が終わった時点はそれはまだ理念にすぎなかった。そのようなことが具体的なかたちで可能になるのは、戦後になって実質的に医 療と食糧の国際援助が始まってからである。マーシャル・プラン(1948-51年)は、ヨーロッパの戦災復興として始まったが、やがて国際的な反共産主義 の一翼をにない、それがアジア・アフリカの旧植民地に波及するという世界規模化を遂げる。トルーマン大統領は早くも1949年には途上国援助のプランであ るポイント・フォー・プログラムを公表する。ポイント・フォー・プログラムでは、コミュニティ開発の計画に多くの人類学者が雇用された。1953年に登場 したソ連のフルシチョフもまた、それに対抗して平和共存の名の下に、米国に先を越されていた国際的な低開発国援助“競争”に参入することになる。両陣営に とっても援助されるものはイデオロギーにおける同盟者のことであり、同盟者であれば潜在的な援助の対象になったのである。
1940年代の初頭からラテンアメリカにおいて医療援助に着手し、1950年代には指導的な立場についたG・フォスターたちは、援助を図 式化する際に、その対象となる集団を「ターゲット」とよんでいた。彼らの計画は、保健センターを中心にしてターゲットとなる住民を西洋医療に向かわせよう とした。ターゲットはときにはクライエント、援助する主体はスポンサーと呼ばれた。また援助は軍事行動における作戦(operation)と表現されたり もした。人類学者たちはこの当時、次のような2つの考えに到達していた。まず第一に健康と病気は、医学的な現象であるだけでなく文化的社会的現象であるこ と。そして、第二に“発展途上国”への医療援助は、たんに工業国の保健サービスを移植するだけでは困難であるというものである。しかしながら人類学者が医 療援助に対しておこなった初期のコミットメントは、保健従事者たちに“なぜ医療援助がその土地や集団において困難な状況にぶつかったのか”という文化的な 解釈を与えることにあった。そして議論の多くはいまだ抽象的なことに費やされることが多かった。人類学者たちが自ら計画するのではなく、計画の相談者とし て利用されていたのだ。このようなかたちで参画した諸計画は、その10年後には早くも失敗したと評価された。つまり保健センターを中核とする活動が住民の あいだでは十分利用されていないと人類学者は報告した(Chambers 1985:19)。
1953年にW・コーディルは、当時の各国の政府機関や私的な財団は健康と病気における社会的側面に興味をいだきつつあると述べている (Caudill 1953)。しかし、肝心の人類学者たちの関心は「未開医療」にあり、自分たちのデータを保健衛生問題にどのように活用するかについては関心は少なかっ た。この時期に村落における医療援助にコメントした人類学者の助言の与え方は、西洋医療を導入する際にその社会の文化的背景を計画を実施する主体に理解し てもらうというものだった(eg. Paul ed. 1955)。さまざまな民族集団に対する西洋医療の導入の際に、西洋医療の従事者に対して適切なアドバイスを提供するという医療人類学者の役回りの伝統は このころ確立した。この伝統は現在にいたるまで続いており、現在でもその種の社会的要請に応えている(eg. Harwood ed. 1981)。
1950年にポイント・フォーで表明されたアメリカの国際援助機関設立に関する法案が議会を通過し現在の米国国際開発局 (U.S.AID;United States Agency for International Development)の前身であるTCA(Technical Cooperation Administration)が創設される。同年、WHOに初めて人類学者C・デュボス(Cora Dubois)が雇用される。彼女はWHOにおける活躍のみならず、十数年後にはアメリカの医療人類学会の創設に深く関わることになる。また1954年に はアメリカで通称PL480(Public Low 480; the Agricultural Trade Development and Assistance Act)法案が米国の議会を通過する。これは米国内での余剰農産物を海外への食糧援助に利用するというもので、60年代から70年代にかけての米国の外交 政策に大きな役割を果たす(Garst and Barry 1990)。それに伴い西洋栄養学が低開発国をフィールドにするようになり、70年代以降の生物文化的人類学(biocultural anthropology)の研究領域の基礎をかたちづくる(Hass-Ashmore and Johnston 1985)。
このころロックフェラー財団は、ラテンアメリカの各国での大学医学校の設立に力を入れていた。例えば、南米コロンビアのカリでは1950 年代に財団の援助でバジェ大学に医学校が作られた。ロックフェラーの援助のもとで、コロンビアのカウカ谷では、いくつかの栄養プログラムが実施され農民た ちがそのプログラムを受けた(Taussig 1978;1980)。
世界的な規模での発展を遂げ始めた1950年代当時の経済開発の考え方は、エスコバールによるとおよそ次の4つの要素からなっていた (Escobar 1995:74)。(1)資本蓄積、(2)周到な工業化、(3)開発計画、そして(4)外部からの援助である。彼は開発についての「言説」 (discourse)が形成される過程において、豊かな開発国すなわち欧米の先進国に比較されるべき「貧しい」低開発国あるいは開発途上国の対抗的イ メージが作り出される必要があったという。それは貧しさや低開発の隠喩であり、「停滞」や「機能不全」など病理を表現する隠喩をもって語られた。医療援助 は当初から西洋がこの地域に投影する隠喩に支配された象徴的な行為だった。そして応用可能な学問の隠喩は治療の用語で語られた。たとえば50年代に応用人 類学の指導的な立場にたった人類学者たちは、人類学者による介入(intervention)を、患者を治療する医師としてたとえた(Tax 1958;Peattie 1958)。援助の枠組みが批判される時、まず経済援助や農業開発などが「新・植民地主義」などとして矢面に立たされるのに対して、医療援助はそこから免 罪されてきた。人を医療によって治療救出するという隠喩の力が、医療援助をして批判に曝されることを長い間拒んできたとも言える。
医療援助の妥当性や効率性が問題にされることなく、開発国の提供する人道援助の構図が無批判に受け入れられていた時代に、援助の失敗は開 発の当事者にとってどのように理解されていたのであろうか。大きくわけて2つの説明があった。ひとつは、もっぱら非人類学者に受容された考え方で、(a) 硬直した近代化論にたつ説明である。それによると、近代医療の普及は伝統的なものの駆逐を通して可能になるから、医療援助が失敗しているのは、対象になる 人びとや生活の近代化がまだ進んでいないからであろう、というのものである。
このような伝統と近代を相互に排除させる説明に対して、人類学者たちは近代化論に依りながらも、より「文化」に即した仮説、つまり(b) 「技術変化」(technological change)論で説明した(Mead 1953;Gould 1957)。これは次のようなものである。1940年代のラテンアメリカでの失敗を例にとろう。まず失敗した保健センターを中心とした計画は母子保健や予 防医学を中心とするものだった。しかし住民の視点によると、彼らが近代医療に期待するものは治療であり医薬品である。人びとは近代医療の治療効果には信頼 を寄せているが、伝統と近代というふたつの医療を症状に応じて相互に使い分けている。彼らは伝統の世界に生きているから近代医療を受け入れないのではな く、予防医学に不審を抱きそれを受容しなかっただけなのだ。計画を失敗から救うのはこの新しい予防という概念やそれをもとにした実践の普及である (Foster 1969)。技術変化論では、伝統社会に近代医療などの新しい技術が導入されるときに、古い制度や技術体系がすべてが根こそぎ同質的に変化するのではな く、その技術のコスト、利便性、人びとの解釈や意味づけに応じて多様に変化してゆくとみる。人類学者の役割は、最適な状態で人びとの功利的な行動をいかに 促すかにかかっている。
さらに1950年代はアクション人類学が唱道された時代でもある(Tax 1958)。アクション人類学が上の技術変化論と異なる特徴は、人類学者は外部の助言者ではなく、内部者として自ら変化することを前提としている点であ る。ホーベンによると、アクション・プログラムでは人類学者自身が、技術者やプランナーに役に立つように自らすすんでその役割をかって出た。人類学者は村 落でアクション・プログラムへの参加であると同時に調査者としてその役割を果たしたという(Hoben 1982:354)。プロジェクトに対して人類学者が直接のコミットメントするか、あるいは参与者として助言を求められたときに関わるかは、個々のプログ ラムによって異なった。いづれにしろ、後にプライマリ・ヘルス・ケアにおいて共同体の医療プログラムに介入する人類学者の未来の姿をここにみることが可能 である。
この時代に登場した理論では、もうひとつ重要なものがある。それは行動科学である。1940年代末に生物科学と社会科学の統合理論として シカゴ大学の心理学者たちが発展させた実証経験科学であり、1951年にフォード財団がバックアップすることで急速に成長する。医療援助の領域において は、現地人の行動を理解するモデルとして技術変化論が、人類学者の現地への関与のモデルとしてアクション理論が導入されたのに対して、行動科学は現地の人 びとの行動を一定の変数で実体化し、援助の期間中および援助後の変化を測定するために使われた。しかし、この当時には医療援助の現場での行動科学の影響は それほど大きなものではなかった。
4. 批判の時代
S・ポルガーは1962年に世界各地の保健問題への解決のために、おもに医学研究と人類学・社会学を中心とする社会科学を総合する研究の 枠組みを提唱した。その論文のなかで、彼はコミュニティと国際的な視野という2つの局面を基礎において、保健における実践とむすびつける調査の考え方につ いて広範に論じている(Polgar 1962)。その翌年C・ヒューズは論文「無文字諸社会における公衆衛生」において、人びとにとって健康が公的な目標になるという公衆衛生の理念を普遍化 し、地球上のさまざな民族や社会においてその理論が実現すべきものであることを、多数の文献の検討を通して主張した。つまり、前工業化社会では呪術的およ び経験的(科学的)予防行動やそれに関する文化体系というものがあり、それらを理解することを通して現地での公衆衛生のプログラムが改善されると考えた。 彼は次のような4つの一般化を導き出した(Hughes 1963:116-174;Landy ed. 1977:232)。
1.どんな社会でも公衆衛生に関する信条がみられるが、それには呪術の要素も経験科学要 素も両方含まれる。
2.どんな集団でも公衆衛生の状態は、その集団の生活様式と相互に関係している。
3.「未開社会」では人びとの健康は集団そのものと連続性があり社会そのものと深く関 わっている。そして人びとは、社会を病気やその脅威から守ってくれるものとみなしている。
4.人びとの健康は生活状況全体を反映する関数である。
膨大な文献を基礎にし、公衆衛生や社会医学のなかでの人類学者の役割を明確に主張したポルガーやヒューズの論文は、戦後から一貫してきた 人類学の知識を地元あるいは国際的な舞台で行われる医療援助に反映させようとする理論の総決算であったと言えるだろう。
しかし、このような理想主義的な見解は、60年代中葉から始まる社会科学および医療への批判の声にかき消されてしまう。1965年に米国 でキャメロット計画が発覚し国際的スキャンダルとなった(Horowitz 1967)。キャメロット計画とは、アメリカ陸軍がその前年に計画立案した先進西欧国およびアジア、アフリカ、ラテンアメリカなど31カ国を対象とした、 総額で600万ドルを計上した大規模な社会科学研究であった。この調査計画の目的は、各国の革命勢力の動向をさぐり、内戦の過程や将来における予測可能性 を研究するものであった。ベトナム戦争下の米国では、共産ゲリラによる国家の転覆を目的とした内戦の分析が活発に行われており、米軍の対反乱 (counter-insurgency)と称される作戦に利用されていた。大量の社会科学者を動員するキャメロット計画は、軍隊が社会科学を問題対処能 力のある科学として期待していたことをあらわしている。キャメロット計画は、アメリカ人類学会をはじめとする社会科学研究者の間で激しい抗議の声がおこ り、結局挫折する。これを機会にアメリカ人類学会は1965年に「調査研究の問題および倫理に関する委員会」を設置している(ガフ 1974:151)。ベトナム戦争に対する抗議運動もみられ、「憂慮するアジア研究者委員会」(Committee of Concerned Asian Scholars:CCAS)は1969年に米国のアジア政策に反対すべく結成された。
60年代を通しての反体制運動にとってF・ファノンの議論は重要である。1954年にはじまるアルジェリア植民地解放闘争に後に身を投じ た精神医学者F・ファノンは『ある革命の社会学』(1959)のなかで「医学と植民地主義」について論じている。ファノンによれば、西洋医療の運用は宗主 国と植民地においては、まったく異なる社会システムとなる。植民地状況においては、宗主国出身の植民者は、暴力的抑圧とパターナリズムにもとづく慈善を もって支配をおこなう。植民地状況では、西洋医療は治療装置として機能するのではなく、支配のための装置になると糾弾した。また現地人が西洋医療の文脈の なかに放り込まれるとき、社会的政治的な権力構造の中での隷属を強いられるとともに、彼らの文化的な表現をまとって病気が訴えられるとも指摘している。し たがって西洋医療は、どこでも普遍的な価値をもつは限らない。植民地解放のための医療とは、宗主国が持ち込んだ医療とは異なる意味づけがなされなければな らない。また『地に呪われたる者』(1966)では、植民地状況が精神障害を生みだし、植民地戦争はそれをさらに憎悪させる。この病理の根本治療を実行で きるのは植民地状況の消滅にほかならないと主張する。
このような植民地解放という思想を通して近代医療の社会的文脈を批判的に考察する行為は、病者の役割行動を文化の違いによって説明する医 療人類学と通底する。しかし、医療人類学者は疾病行動を文化に根ざした行動としてしばしば本質主義的な説明をつけて満足し、その説明の枠組み以上のことを 議論しない。それに対して現象の解釈や説明に終わらず、実践へと繋げるところがファノンのラディカリズムである。このような発想は、健康の政治経済学 (Political Economy of Health)を批判的に分析する領域や、次に述べるような「開発原病」を報告しその原因を分析する研究領域と多くの共通した特徴をもっており、いわば 「疾病の社会的起源」ともいうべき学派の先駆けになっている。ファノンは、植民者による医療援助は、援助する側とされる側という図式が社会的に再生産され るということを指摘し、それを明確に拒否するという態度表明のあり方を示した点できわめて重要である。
1950年代は東西両陣営が援助競争をした時代でもあった。低開発地域の人びとは開発国がいう近代化の夢に酔った。しかし10年もたたな いうちに経済開発の“副作用”は次第に深刻さを増していた。開発が試みられたところで生態系の撹乱やライフスタイルの変化がおこり新しい流行病、すなわち 「開発原病」(developo-genic disease, disease of development)が生じた。
アフリカでは1958年のカリバ・ダム(中央アフリカ)を皮切りに、ボルタ(ガーナ)、アスワン・ハイ、ナセル・ハイ(ともにエジプ ト)、カインジ(ナイジェリア)などの大型ダムが建設され、ダムは開発のシンボルになった。しかし、これらのダム建設に伴いビルハルツ住血吸虫の中間宿主 の巻貝が繁殖し流域住民に住血吸虫症が大流行した(Miller 1973:15)。ビルハルツ住血吸虫症は寄生虫病のなかで最も早い速度で広がったもののひとつである。エジプトでは、アスワン・ハイとナセル・ハイの2 つのダム建設によってまずナイル河上流域に住血吸虫症が広がり、やがて下流のナイルデルタに広がり短期間で流行の波は地中海沿岸にまで到達した。これらの 規模のダム建設では、約5万人規模の流域住民の移住が伴うが、それにより移住先における新環境への不適応や援助依存の問題など深刻な社会問題が引き起こさ れた(Scudder 1973)。
他方、道路開発による人びとの移動が促進されることで地方病が流行病に変化することもある。トリパノソーマ感染症(睡眠病)を媒介する ツェツェバエは湿地や川に繁殖する。経済開発のインフラ整備のために新しい道路が開通して人の往来が激しくなった。西アフリカではバスや車で長距離を移動 する人たちが休憩のために、感染地域の川の近くで涼をとった。そのためにツェツェバエの吸血行動が変化し旅行者を刺したり、ハエが長距離を移動したため に、睡眠病は道路に沿いながら広い地域の流行病となった(Hughes and Hunter 1970)。南インドでは、森林伐採の後の陽当たりがよくなった跡に繁殖するダニがリケッチアを媒介し熱病が流行した。このような新種の流行病はその病気 の同定や感染経路の発見が容易には解明されないので、そのあいだ現地の人びとにさまざまな文化的な憶測や社会的混乱がおこることが指摘されている。
開発の犠牲は低開発国住民に限られない。“中進国”といわれるブラジルでは1960年代から70年代にかけて「ブラジルの奇跡」と呼ばれ た高度経済成長期に、経済成長とともに幼児死亡率もまた増加した。低賃金と集約労働が労働時間の延長を促し、国民の消費水準が下がり子供に対する栄養物の 消費も抑制されたためである。経済景気は富の再配分を促し貧富の格差が開き、政府は経済開発への投資のために保健予算を削減した。結果的に社会的弱者であ る低所得者層の乳幼児が犠牲になったというわけである(Navarro 1984)。コロンビアのカウカ谷周辺において米国開発局、多国籍企業、世銀などが関与した大規模な商品作物開発プロジェクトによって、伝統的なものから 近代化した農法に転換した農民たちの子供たちの栄養条件が悪化し、およそ半数以上の子どもたちが栄養失調に陥ったという分析もある(Taussig 1978)。この地域は周辺の地域に比べて肥沃で生産性の高い地域なのであるが、農業条件の産業化が必ずしも現地の人たちの衛生条件の改善に結びつかない ことを示している。また経済開発だけなく医療や栄養改善のプロジェクトそのものが現地では思わぬことに転用されることもある。例えば栄養改善のために導入 された外来種のトウモロコシが、食事の改善ではなく現地で消費されるアルコール製造に使われた(Kelly 1959:9-10)。
このような現象は開発の矛盾であったり、開発とトレードオフの関係にあるのだろうか。矛盾であると分析する健康の政治経済学派の医療人類 学者ならば、それに代替する経済システムをもって問題の解決を模索したであろう。また、開発とのトレードオフとみる技術官僚ならば、開発立案のなかで予想 される新種の開発原病を疫学的に防除する計画を組み込むことを解決への糸口とみるかも知れない。しかしながら、これらの発想に欠けているものは「開発され る側」の当事者がどのように外部世界に組み込まれてしまっているかということなのである(Nicher 1987)。
ここまで応用医療人類学の「歴史」を述べてきた来たようだが、じつはそれらの諸活動はそれまで医療人類学とはみなされていなかった。なぜ なら「医療人類学」という学問の名称がなかったからである。しかし、ここで「医療人類学」という学術用語の発生について論じるつもりはない。早いものでな ら1959年に論文タイトルとして医療人類学という言葉が初出するが、科学社会学的に言えば1960年代中頃においてさえ医療人類学の教科書、学会、専門 雑誌は存在しなかった。つまりそのようなパラダイムはまだ登場していなかったのだ。
米国の医療人類学会は、(1)健康と病気とヘルスケアに関連した人類学研究を促進し、(2)研究成果を報告しそれを伝え、(3)そのよう な活動にする/しようとする人たちを教育する、という3つの目的をもって1968年に創設された(Weidman 1986)。米国において医療人類学学会が成立した背景には、すでにこの領域で研究調査する研究者の数が存在したこと、またそれに見合う医療人類学者ない しは類似の研究者が常勤ないしは非常勤の仕事につけた、あるいは医療人類学への需要が存在した、そして、専門の学会を形成する人びとの意識があったからで あろう。最後の「意識」は検証しにくいが、今まで述べてきたように米国では応用人類学の伝統があり、積極的に行政などに関与することに抵抗が少なかったか らだろう。この時期は応用人類学において、援助の官僚組織そのものも相対化しようとする新しい流れである新・応用人類学(new applied anthropology)も登場し、現実に関与する多様な視点が登場しようとしていた。医療を外側から眺めて研究する(anthropology of medicine)のではなく、医療の中に入って実践を通して研究する(anthropology in medicine)ということが正当化され、両者の間での盛んな交流が開始された。そのため米国の医療人類学会は70年代の初頭までに急成長をとげる (McElroy 1986)。
5. 健康の開発
冷戦構造のもとで一貫して成長をつづけてきた海外援助の方向が変化するのが、石油危機のおこった1973年以降である。東西対立よりも、 南北の経済格差の問題が深刻化するようになった。低開発国の援助要求は増加する一方なのに比べて、先進開発国の援助能力は低下してきた。資本主義開発国に おける低開発国援助の理念は、相変わらず経済発展を通して厚生の向上にあった。しかし、開発国側の経済条件の悪化は、結局援助する側をして、援助理念の見 直し、費用−便益分析をはじめとする援助効率の検討など、新しい戦略を開発せしめるにいたった。世界銀行総裁(1968-81)であったR・マクナマラが 1973年に「総合的村落開発」(integrated rural development)を提唱したナイロビ・スピーチをその代表例としてみよう。マクナマラは、村落における農業生産を高め、飢餓を放逐することを目標 にあげた。貧困の放逐は、人間の基本的ニーズの達成のために不可欠であり、これを具体化する方法はほかならない村落の生産性の向上である(Escobar 1995:160)。[→マクナマラの思想]
生産性の向上と人道的な観点から現地の人びとの保健および衛生状態の改善は欠かせない。このような援助の理念はすでに見てきたようにロッ クフェラー財団をはじめ米国の慈善団体がおこなってきた医療援助における理念とさほど変わりはない。そして、その理念を実行するために「科学的」知識を動 員して「効率よく」計画を実行するという方法論が求められたことも同様である。世銀のアプローチは技術指向で、従来のプロジェクトの仕組みそのものをより システム化したものに変えた。そして保健施策における、技術指向のあらわれは、後述するようにプライマリヘルスケアにおける「選択的」戦略の提唱に見てと れる。
世銀をはじめとする米国の開発論における技術的な発想は、貧困そのものを“可視化”しようとしたことに典型的にあらわれる。貧困を「国民 総生産」、「国民所得」、「識字率」、特定の疾患の「罹患率」などで多角的に表現しようとした。貧困の可視化が同時に招来したものは健康の可視化であり乳 幼児死亡率はその代表的な指標になった。米国開発局(USAID)は、「社会的健全さの分析」(social soundness analysis)、実現の可能性や適合性、プロジェクトの社会的インパクトなどをもって計画を立案したが、そのような分析に多数の人類学者を投入した (Escobar 1991)。開発局内でフルタイムで働く人類学者は、1974年当時は1人しか過ぎなかったが、77年中頃では22人、80年では50人以上になった。ま た短期の契約にいたっては100名以上いたといわれる(Hoben 1982:359)。
そして70年代以降応用医療人類学の論文が急増する。援助の効率を定量化することにもっとも適していたのは1950年代から徐々に台頭し てきた行動科学である。行動の変化をいくつかの変数をとることで定量化できるこの手法は、人類学の領域にも多大な影響をあたえ、論文の量産にも貢献するこ とになった。
70年代から80年代の末期までの応用医療人類学の隆盛を象徴するものがアルマアタ宣言であり、戦略理念として採用されたプライマリヘル スケア(PHC)であることは論を待たない。PHCは、1978年にWHOとユニセフがカザフスタン共和国のアルマ・アタで宣言した保健の理念と施策であ る。これがそれまでの公衆衛生理念と異なる点は、健康の達成には、(1)政治経済の安定や、(2)住民の自助努力が不可欠としたことにある。実践面では 「保健上の問題を克服する教育とその問題を予防しコントロールする方法、食糧供給と適正な栄養の増進、安全な水と基本的な衛生の適切な供給、家族計画を含 む母子保健、主要な感染症に対する免疫付与、局地的な流行病の予防とコントロール、通常の傷病への適切な治療、基本医薬品の支給」(宣言文)が目標とさ れ、おびただしいマニュアルが公的、私的保健セクターから出版された。このあらゆる角度からの、しかし漠然とした政策はのちに包括的 (comprehensive)PHCと呼ばれることになる。
この理念がどのような過程を経て生まれたのかは明らかではない。すでに60年代末から70年代の中頃には世界各地の低開発地域でこのよう な施策がすでに試みられていた。たとえば、中国の文化大革命期に制度化された赤脚医生(はだしの医者)、WHOによる抗マラリア剤の投与と疫学資料収集の 出先機関となる保健普及員の制度、ユニセフによる伝統的出産介助者(産婆)の能力養成講座、ユネスコによる栄養改善と保健教育の普及運動など、地域をベー スにした住民参加の保健運動があった。より広い文脈では70年代中頃から国連経済特別総会などで議論された「内発的発展」やシュマッハーらの代替技術論な どとPHCは思想的にも施策的にも通底するものがある。1973年の石油危機以降の援助条件の悪化という経済的背景のなかで、住民参加という名をもったプ ライマリヘルスケアは援助の効率を援助される住民の側から内発的にうながすイデオロギーとして機能した。PHCをめぐる政策論争をあとづけて、このことを 検証してみよう。
宣言の翌年、ロックフェラー財団のワルシュとワレンは包括的PHCの非現実性を批判して、選択的(selective)PHCを提唱し た。この戦略は包括的PHCへの暫定的な戦略として、より具体的に効率良く保健衛生の状態を改善するために特定の保健政策を選択的に行う。つまり、地域の 死亡率を著しく下げる乳幼児死亡対策(麻疹、およびジフテリア・百日咳・破傷風の三種混合ワクチン接種、下痢に対する経口補水療法)、効果が顕著に現われ るといわれているマラリア対策、母親への破傷風ワクチン接種や母乳推奨をおこなう(Walsh and Warren 1979)。彼らはPHCの遂行に際して、効果性を重視し、技術が確立されたものから着手すべきであると主張した。
提唱から6年後「包括的PHCと選択的PHC」をめぐる国際会議がベルギーのアントワープで開催され、1988年に『社会科学と医療』誌 の特集として公刊された(Rifkin and Walt 1988)。選択的的PHC側のワレンは、ユニセフがとったPHC戦略、コスタリカや中国などの事例の検討を通して選択的PHCの成功を宣言する (Warren 1988)。他方、包括的PHCによる選択的PHCへの批判はより政治経済的色彩がつよい。すなわち、選択的な戦術への偏重は、政府あるいは援助機関から 住民への医療の主導権の移行を実現させず、工業医薬品、医療産業などへの依存という医療化(medicalization)を押し進めると言うのである。 現実の医療体制とPHCの関係の中でも選択的PHCは批判される。スミスらは、医療システムを下部構造という枠組みにおける時間的な変遷の中で考察した。 それによると選択的PHCを実施する際に、母子保健、マラリア対策などの縦割の専門業務集団に分れる傾向があり、それらは国家レベルでは協調関係にあるも のの、地方や共同体のレベルになるとバラバラになり、横の連携がとれていないという欠陥が生じるという(Smith and Bryant 1988)。
この選択的および包括的PHCが相互に排除的に批判することに対して、折衷的な意見もある。モズレイの主張によると、重要なことは特定の 疾病対策ではなく、存在する問題全体にアプローチすることである(Mosley 1988)。選択的PHCが成功を収めるには、包括的で社会変化を巻き込むことが不可欠だという。アフリカのザイールやマリの事例研究においても、選択的 PHCの有効性を評価する一方で、国家と共同体の利益誘導の相違などによるマイナスの効果も指摘され、包括的PHCが理想とする統合の問題に深い関心が寄 せられた。
しかしPHCに対するもっと手厳しい批判もある。カメルーンにおける実態を検討したバン・デル・ゲーストは、中央政府、制度的医療の推進 者、および住民の三つの次元を通して、はからずも生物医学が中心を占め、PHC政策は理念とは裏腹に歪んで運用され、否定的機能すらみられることを描写す る(Van der Geest 1982)。政治的安定や経済的発展は健康に寄与するという論法をPHCが採るならば、第一に解決しなければならないのは政治だ、と彼はいう。池田はホン ジュラスの共同体をターゲットにしたPHC計画について調査し、外部から操作的にかつ多様に定義される共同体概念の曖昧さを指摘し、人びとがPHCそのも のを無力化してゆくことを指摘した(池田 1990;1992)。
選択的PHCを提唱したワルシュとワレンの論文の冒頭には、先に述べた当時の世銀総裁マクナマラによる1978年次報告からの引用があ り、その理念の影響はその論文にも色濃く表れている。ケネディ政権下の国防長官であり、米国の多角的な核戦略論の構想者であるマクナマラは、同時に肥大化 する軍事財政を「計画的科学的に管理し、合理的かつ効果的に予算編成する」手法をペンタゴンに導入したことでも知られている(カウフマン 1968)。技術論的批判としての選択的PHCのいう保健施策の「効率」とは、死亡率で代表される指標の変化で「可視化」されるものに還元された。これは 投下された資本がどれだけの利潤を引き出すかという計算の合理性を「健康」の中にみることにほかならない。
プライマリヘルスケア論争の最大の意義は、援助する側とされる側の社会的背景が問題視されたことで、する側からされる側への「援助」の論 理が相対化されたことである。これによって19世紀末以来の援助する側(開発国)がされる側(低開発国)に投影してきたさまざまな前提が崩壊に向かったこ とも確かである。また異なった政治体制下におけるPHCの分析が、普遍的な保健計画がどこにでも通用するのではなく、むしろ政治経済状況下で恣意的に形成 させられることを明らかにした。例えば、社会主義混合経済下にあった中央アメリカのニカラグアの保健教育のなかで「健康」が社会体制や経済に還元されるの に対して、政治的軍事的に合衆国の多大なる影響下にあったその隣国ホンジュラスで「健康」とは家族内における安寧と平和と強く結びつけられてPHCの教育 に組み込まれるからである(池田 1989)。
1980年代後半から現在までの国際政治における最大の出来事は、冷戦の終結とそれにともなう政治構造の変化である。援助は今日では援助 国側の利益や国策を誘導する外交手段(ヤストモ 1986)だけでなく、構造調整にもとづく経済政策を被援助国に要求し国際的分業への参画を要求するまでになっている。そのため援助はより柔軟に運用され るようになり複雑な利害が絡むようになった。また内発的発展や持続的開発などがかつてのように対抗的な戦略としてではなく、制度的な開発のなかにも“技術 的に”取り込まれるようになってきた。
先行する時代の援助に比べて、援助計画が多様化し、人口・栄養・女性などプログラムそのものの細分化、そして援助そのものが局地化してゆ く傾向を指摘することができる。この傾向を促進したのは、援助に関わる非政府組織(NGO)の増加にあるといえる。また政府開発援助や国際機関もNGOと 密接に連絡をとるようになってきた。すなわち援助の多様化とグローバル化が同時進行しているのである。開発国側の国民にとって国際協力や援助が身近なもの になり、自発的な参加が容易になってきた。このような状況を理解するためには、援助がどのような組織を通して行われてきたか、ということに注目しなければ ならない。
歴史を振り返って、医療援助を行ってきた団体、すなわち低開発国(地域)にやってくるセクターについて整理してみよう。それらの団体は4 つのカテゴリーに分けられる。すなわち(1)慈善団体、(2)政府機関、(3)国際機関、(4)非政府機関、である。
まず、開発国の慈善団体の典型例はロックフェラー財団であり、第二次世界大戦以前からその先駆的で主導的な役割を担ってきた。その次に大 きな勢力となったのは米国開発局、日本の国際協力事業団(JICA)などの政府機関である。政府開発援助(ODA)は国際協力において歴史的にも資金的に も大きな比重を占めてきた。マーシャルプランや戦後補償など2カ国間でおこなわれてきた援助のもっとも基本的な型を担ったのが政府機関である。この援助パ ターンは資金や技術の流れは開発国から低開発国への一方的な流れを形成するという点で、宗主国から植民地への援助パターンをそっくり踏襲したものである。 第3番目の援助団体は、国連の諸機関、世界保健機関(WHO)、世界食糧機関(FAO)、世界銀行などの国際機関である。これらは戦前に国際連盟での援助 が実施されたがその規模は非常に小さなものであった。国連などの国際機関は第二次大戦後に、冷戦構造のなかで援助合戦がエスカレートするなかで調整役とし ての機能が成長し、60年代以降、第三世界の発言権が強まるとともに国際協力のより強力な調整機関としての役割を果たすことになる。4番目に急成長をつづ けているのが非政府組織(NGO)である。宗教団体を嚆矢とするNGOの歴史は極めて古いが、援助活動の自由裁量の大きさにおいて、それまでの団体の活動 の欠点を補うものとして期待もされ、実際にその活動母体も内容も極めて多様になってきた。NGOは個々の団体の活動は比較的小規模で成果の評価を出しやす く、また柔軟な対応ができる。この団体の数や資金の総額は年々成長してきている。
以上の4つの団体は医療協力の歴史において次々と役割が入れ替わってきたということではない。むしろ次々と重層的にこの領域に参入してき たのだ。これは医療援助のパターンが歴史的を経るごとに多様化していることを意味する。したがって、現在医療援助を社会学的に分析をおこないその背景に単 一のイデオロギーを見つけ出すことは無益である。援助の理念や方法においてもはや普遍的で規格化されたものの理論的影響力は少ない。この多様化には医療援 助に従事する応用人類学者の活躍も一役買っている。1970年代後半から米国で応用医療人類学のタイトルで学位をとった多くの人類学者が国際機関やNGO で働くようになり、80年代中期にはアメリカの人類学のPh.D取得者の半数以上が大学や研究機関ではなく連邦政府、州政府、非営利団体、コンサルタント 会社などに就職しているからである(Hill 1984;AAA 1987)。
現在の深刻な問題として難民や内戦が発生したり、低開発国における都市への人口集中や貧富の格差のエスカレートなどによって、局地的な問 題が急におこることがあげられる。局地的な民族紛争や内戦による新たな健康への脅威への組織的な救援(relief)が医療援助の活動として重要視される ようになってきた。この種の問題は、これまで政府機関や国際機関が取り扱ってきたような低開発国への医療援助という枠組みでは対処できなかったものである が、それらを医療援助の枠組みのなかに組み込もうとする動きもある。他方、援助が肥大化するなかで、政府開発援助や国際機関における不正や腐敗など、それ までの大規模な組織がもつ構造的欠陥も指摘されている(Hancock 1990)。医療援助はもはやODAが一般化してきたような形式では対処することができないのである。
それとともに人びとが抱く健康の概念も変化してきた。健康は万人共通の天賦の権利という枠組みは変わらない。しかし、世界的なレベルでは それを維持することが不可能であり、絶え間のない努力で部分的にしか達成できていないことを人は不断に意識せざるをえない。もはや宙に浮いた中立な健康を 議論することは意味をもたない。「保健の政治経済学」派を中心とする研究者の論調は、いよいよ病気が社会的起源をもつものだとし治療を社会の変革であると した19世紀の細菌学者で衛生改革家のウィルヒョウの精神へと回帰しているかのようだ。人類学の内部では、健康の達成が病気や衛生の不備という直接の原因 によって妨げられているという以上に、それを保証する社会的不平等や政治的問題によって引き起こされており、実践への関与を主張する動きが60年代末以来 の復興をみせている(cf. Sheper-Hughes 1995)。
医療援助に対して人類学が関与するとき、人類学者は相反する2つの立場からそれに関与してきた。ひとつは、人類学が経験した知識を技術と して未来の「健康の開発」に積極的に関与した立場である。これは本稿が焦点をあてた「応用医療人類学」とよばれる研究領域の確立をみるにいたった (Hill 1984;Heggenhougen and Draper 1990)。もうひとつは、医療援助を批判的にとらえてゆく立場である。批判的医療人類学あるいは「保健の政治経済学」——批判という言葉を後につけるこ とがより言葉のニュアンスを正確に伝える——と呼ばれるこの立場はさらに、マルクス主義、従属理論、そして文化批判という3つの潮流にわけてみられること ができる(Morgan 1987)。この応用と批判の対立は医療援助だけにとどまらず、ひろく開発現象をめぐってさまざまな局面でおこってきたことである。応用と批判(=理論) というこの二分法の伝統は医療人類学をして、ほとんど対話のできない2つのカテゴリーを生み、依然として分裂したままになっている。この応用人類学のアポ リアとも言うべき問題にいままでに、「新統合」や「批判的実践」など無数ともいえる調停の試みがおこなわれてきただろうか(eg. Johannsen 1992)。
応用人類学は早い時期に、変えようとする相手の文化を本質主義で規定するという見方、つまり清水(1992)のいう「永遠の未開文化」観 をある意味では早い時期に放棄していた。その意味ではR・ファースのひそみに習い、応用人類学は「由緒正しい啓蒙の所産」を実践する道を選択してきたの だ。1930年から40年代にかけて応用(実用)人類学は、人類学における理論的な成果を現地への関与に効果的に流用することを目的として生まれてきた。 経済開発や慈善を目的としていたり国家目的を遂行しようとしていた財団や政府と、このような理念をもちはじめた応用人類学者の利害が一致し、戦前において はじめて援助に人類学者が投入されることになった。これが出発点である。しかし、対象になる人びとを「永遠の未開」から解放した応用人類学は、とって返し たように自らを援助する側の道具的科学と規定し、相手をつねに援助されるものとして取り扱うということを始める。
第二次大戦後、援助は国家目的を遂行するために次第に肥大化してゆく。そのなかで人類学者は現場で何がおこっているかについて、自らの社 会理論にもとづいて解釈をおこない、後には積極的に援助のモデルを提供するにいたった。解釈が中心的だった50年代までの時代から広い範囲でさまざまな社 会批判が登場した60年代を通して応用人類学はより自己反省にもとづいた傾向を身につけるようになった。プライマリヘルスケアの導入も相まって70年代を 通して人類学者は医療援助により深く関与するようになってきた。その間、オイルショックや世銀を中心とした援助理論を背景に、医療援助においても効率性が 要求されるようになってくる。
80年代末以降は政府や国際機関という巨大な組織だけでなく機動力のあるNGOなどが医療援助に参画するようになってきた。その内容に は、人口問題、栄養問題、母子保健、女性のエンパワーメント、疾患別の感染症対策、精神衛生、慢性病対策さらには環境問題なども含まれる。「援助」という 言葉にかわって「協力」を冠することが流行するのも、物資や善意の一方通行を忌避したい現代人=援助主体の感覚の表れである。援助団体の多元化と援助内容 の多角化によって、医療援助ということばで援助の内容を把握することすら現在では困難になってきた。
他方、日本の医療協力において第一線の医療関係者の多くは現場でさまざまな活動をおこなっているものの、それらの活動が十分に公開され個 々の関係者の経験が社会的に共有されているとは言いがたい状況にある。さらに、全国の大学の医学部や医科大学においては医療人類学はおろか人文社会科学系 の授業すら軽視されている状態である。ましてや医療援助の歴史について講じられることはほとんどない。このような人たちが、日本の巨大な経済力を背景にし たODAを初めとする医療援助に従事せざるを得ない状況に立たされている。日本熱帯医学会や日本民族学会では、医療人類学をはじめとする応用人類学をいか に効果的に医療援助にリンクさせるかという議論が最近つとに多くなったが、それは端緒についたばかりである。本稿で論じた医療援助に関する欧米の長く苦い 経験はわれわれのもとにはまだ、届いていない。
冒頭の問いを再び発してみよう。医療援助の発展に人類学がどのような役割をはたしたかについて問うことの意義はなんであろうか。それは啓 蒙主義の延長上にあった応用人類学を歴史のなかに位置づけ、応用人類学の社会的意義と限界を改めて探究することにほかならないのだと。
引用参考文献
「健康の開発」史——医療援助と応用人類学、文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月
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