かならず 読んでください

安楽死

 euthanasia, Euthanasie

池田光穂

安楽死(あんらくし、 euthanasia)とは、人または動物に苦痛を与えずに死に至らせること、すなわち殺害(英語では実施=practice)である。したがって日本語の安楽死は一般的に安楽殺と表現する のが適切である。安楽死は、一般的には、治癒や症状の改善が見込めない患者や終末期患者に対する医療上の処遇で使われることが一般的なので、このことが医 療関係者やジャーナリストをして「安楽死」を選ぶ傾向が強く、「安楽殺」と使うことが回避される。自殺や慈悲殺を非道徳とする宗教家は、安楽殺と表現する ことに躊躇しない。

"Euthanasia (from Greek: εὐθανασία 'good death': εὖ, eu 'well, good' + θάνατος, thanatos 'death') is the practice of intentionally ending life to relieve pain and suffering.[1][2] Different countries have different euthanasia laws. The British House of Lords select committee on medical ethics defines euthanasia as "a deliberate intervention undertaken with the express intention of ending a life, to relieve intractable suffering".[3] In the Netherlands and Belgium, euthanasia is understood as "termination of life by a doctor at the request of a patient".[4] The Dutch law, however, does not use the term 'euthanasia' but includes the concept under the broader definition of "assisted suicide and termination of life on request".[5] Euthanasia is categorized in different ways, which include voluntary, non-voluntary, or involuntary.[6] Voluntary euthanasia is when a person wills to have their life ended and is legal in a growing number of countries. Non-voluntary euthanasia occurs when a patient's consent is unavailable and is legal in some countries under certain limited conditions, in both active and passive forms. Involuntary euthanasia, which is done without asking for consent or against the patient's will, is illegal in all countries and is usually considered murder. As of 2006 euthanasia had become the most active area of research in bioethics.[7] In some countries divisive public controversy occurs over the moral, ethical, and legal issues associated with euthanasia. Passive euthanasia (known as "pulling the plug") is legal under some circumstances in many countries. Active euthanasia, however, is legal or de facto legal in only a handful of countries (for example: Belgium, Canada and Switzerland), which limit it to specific circumstances and require the approval of counselors and doctors or other specialists. In some countries - such as Nigeria, Saudi Arabia and Pakistan - support for active euthanasia is almost non-existent."-Euthanasia. 安楽死(あんらくし、ギリシャ語:εŐθανασία 'good death': εὖ, eu 'well, good' + θάνατος, thanatos 'death' )は、痛みや苦しみを和らげるために意図的に命を絶つ行為。 [1][2] 国ごとに安楽死の法律が異なっている。イギリス貴族院医療倫理特別委員会は安楽死を「難治性の苦痛を取り除くために、生命を終わらせるという明確な意図を 持って行われる意図的な介入」と定義している[3]。 オランダとベルギーでは安楽死を「患者の要請による医師による生命の終結」と理解している[4]。 [安楽死は、自発的、非自発的、非自発的に分類される[6]。自発的安楽死は、人が自分の人生を終わらせることを望む場合であり、多くの国々で合法とされ ている。非自発的安楽死は、患者の同意が得られない場合に行われ、一部の国では一定の限定された条件のもとで、能動的、受動的な形態で合法とされている。 同意を求めず、患者の意思に反して行われる不本意な安楽死は、すべての国で違法であり、通常、殺人とみなされる。2006年現在、安楽死は生命倫理学にお いて最も活発な研究分野となっている[7]。国によっては、安楽死に関連する道徳、倫理、法的問題をめぐって分裂的な公開論争が起きている。消極的安楽死 (「プラグの引き抜き」として知られる)は、多くの国で状況によっては合法とされている。しかし、積極的安楽死が合法、あるいは事実上合法とされているの は、ごく一部の国(例えばベルギー、カナダ、スイスなど)で、特定の状況に限定し、カウンセラーや医師などの専門家の承認が必要であるとしています。ナイ ジェリア、サウジアラビア、パキスタンなど、積極的安楽死の支持がほとんどない国もある。
Die Geschichte der Euthanasie ist als Begriff in Deutschland stark durch die Zeit des Nationalsozialismus geprägt, deren Morde unter dem Vorwand der „Rassenhygiene“ ebenfalls als Euthanasie (altgriechisch εὐθανασία[1] euthanasía „angenehmer Tod“; vgl. auch die Begriffe „Sterbehilfe“ und „Ars moriendi“) bezeichnet werden.

Im antiken Griechenland – wie auch in anderen Kulturen – wurde zwischen zwei Arten des Todes unterschieden: einem Tod, der „an der Zeit“ ist, wie etwa auch der Schlaf (Hypnos), und einem vorzeitigen Tod (Thanatos, der „Zwillingsbruder“ von Hypnos[2]), der die Menschen aus dem Leben reißt (ker). Der Begriff der „Euthanasie“ bezog sich ursprünglich auf den „thanatos“-Tod.[3]

Das Wort euthanasia ist im klassischen Griechisch nur ein einziges Mal nachgewiesen. Über Menander wird berichtet, er habe das Wort εὐθάνατος (euthánatos, ein schöner Tod) gebraucht. „Guter Tod“ wird als „leichter Tod“, als Tod ohne vorhergehende lange Krankheit, auch als relativ schnell eintretender Tod charakterisiert. In der griechisch-römischen Antike bezog sich der Begriff nur auf die Art des Todes, jedoch nicht auf das Eingreifen von Menschen in den Sterbeverlauf. Für den griechischen Dichter Kratinos ist das Wort εὐθανάτως (euthanáthos, schön/leicht sterbend) überliefert zur Bezeichnung eines „guten Todes“ in Abgrenzung zu einem schweren Sterben. Das Verb εὐθανατεῖν (euthanathéin) bedeutet einen leichten Tod sterben, aber auch einen ruhmvollen (bzw. ehrenvollen) Tod sterben (entsprechend dem als Präfix verwendeten Adverb εὖ gut). Für Sokrates (ca. 469–399 v. Chr.) bedeutet Euthanasie die eng mit einer vernünftigen Lebensführung verknüpfte rechte Vorbereitung auf den Tod. Dagegen wurden Kindstötung und Sterbehilfe nicht als „Euthanasie“ bezeichnet. Der lateinisch schreibende Historiker Sueton berichtet in seiner Biographie des Kaisers Augustus, dieser habe jedes Mal, wenn er von jemandes schmerzlosem Tod gehört habe, eine ähnliche euthanasia für sich und die Seinen gewünscht.[4]

Wie Euthanasie in der Antike praktiziert wurde, kann die Medizingeschichte nicht mit Sicherheit bestätigen. Platon vertrat die Meinung, ärztliche Behandlung müsse eingestellt werden bei Kranken mit fehlender Lebenskraft, da solche Hilfe nichts nütze und dem Staat sogar schade.[5] Zudem liest man im Hippokratischen Eid vom Verbot für Ärzte, tödliche Mittel zu verabreichen, was Rückschlüsse auf eine entsprechende Praxis zulässt. Bei Frauen, Kindern, Sklaven und Ausländern kann Euthanasie (in der Wortbedeutung des 20. Jahrhunderts) stattgefunden haben, da diese nicht wie Vollbürger gesehen und daher eher gesundheitlich vernachlässigt wurden.[6] - Geschichte der Euthanasie
ドイツにおける安楽死の概念の歴史は、国家社会主義時代の影響を強く受けており、「人種衛生(学)」を口実にした殺人も安楽死(古代ギリシャ語 εŐθανασία[1] euthanasía 「快い死」。)という

古代ギリシアでは、他の文化と同様に、死は2つのタイプに区別されていた:睡眠(ヒプノス)のような「時間内」の死と、早すぎる死(タナトス、ヒプノスの 「双子の兄弟」[2])が人々を人生から連れ去る(カー)のである。安楽死」とは、もともと「タナトス」の死を指す言葉である[3]。

安楽死という言葉は、古典ギリシア語では一度だけ証明されている。メナンダーは、εὐθάνατος(エウタナトス、美しい死)という言葉を使ったと伝え られている。"良い死 "とは、"楽な死"、先行する長い闘病生活のない死、また比較的早い死と特徴づけられている。グレコ・ローマ時代の古代では、この言葉は死の方法のみを指 し、死の過程への人間の介入を意味するものではなかった。ギリシャの詩人クラティノスにとって、εŐθανάτως (euthanáthos, beautiful/easy dying) という言葉は、困難な死と区別して「良い死」を表すものとして伝わってきた。動詞 εὐθανατεῖν (euthanathéin) は、楽に死ぬという意味の他に、輝かしい(または名誉ある)死を意味する(接頭語として用いられる副詞 εὖ good に対応する)。ソクラテス(紀元前469年頃〜399年頃)にとって安楽死とは、合理的な生き方と密接に結びついた正しい死の準備のことである。それに対 して、嬰児殺や安楽死は「安楽死」とは呼ばなかった。歴史家スエトニウスはラテン語で書いた皇帝アウグストゥスの伝記で、アウグストゥスが誰かの無痛死を 聞くたびに、自分と同じような安楽死を願っていたことを報告している[4]。

古代に安楽死がどのように行われていたかは、医学史では確実な確認ができない。プラトンは、生命力のない病人には医療を施しても無駄であり、国家に害を与 えるので、医療を中止すべきだという考えを持っていた[5]。 また、ヒポクラテスの誓いには、医師が致死量の薬物を投与することを禁止していることが書かれており、これに対応した慣習があると考えることもできる。安 楽死(20世紀の意味での)は、女性、子供、奴隷、外国人の場合に行われたかもしれない。これらは完全な市民として見られていなかったため、健康面で軽視 される可能性が高かったからである[6]。——「安楽死の歴史」より


【2つの安楽死】「安楽死に至る方法として、積極的 安楽死(せっきょくてきあんらくし、英語: positive euthanasia , active euthanasia)と、消極的安楽死(しょうきょくてきあんらくし、英語: negative euthanasia , passive euthanasia)の2種類がある」以下すべて「安楽死」より採集)

【安楽死という語彙を回避する姑息な表現】「安楽死の 別表現として、尊厳死(そんげんし、英語: dignified death , death with dignity)という言葉がある。これは、積極的安楽死と消極的安楽死の両方を表現する場合と、安楽死を本人の事前の希望に限定して尊厳死と表現する場 合があるが、世界保健機関、世界医師会、国際連合人権理事会、国家の法律、医療行政機関、医師会などの公共機関による、明確または統一的な定義は確認され ていない。医師の処方による安楽死、耐えがたい苦しみに襲われている患者や助かる見込みのない末期患者本人が尊厳ある死を希望した際に積極的安楽死も合法 化している国には、1940年代に法律を整備した先駆的な国であるスイス、2000年代にかけてはアメリカのいくつかの州、オランダ、ベルギー、ルクセン ブルク、2010年代にはカナダ、オーストラリア、2021年にスペイン、ニュージーランド、南米のコロンビアが合法化している[1][2]」「安楽死」より採集)。

【違法認定だが、医師の殺人行為が一部免責されるこ とを事実上容認した「恥ずべき」東海大学安楽死事件と「名古屋安楽死事件」の判例】

【概要】「東海大学安楽死事件(とうかいだいがくあ んらくし じけん)とは、病院に入院していた末期がん症状の患者に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問わ れた、平成3年(1991年)の刑事事件。裁判で医師による安楽死の正当性が問われた。患者は多発性骨髄腫のため、東海大学医学部付属病院に入院してい た。病名は家族にのみ告知されていた。1991年(平成3年)4月13日、昏睡状態が続く患者について、妻と長男は治療の中止を強く希望し、助手は、患者 の嫌がっているというフォーリーカテーテルや点滴を外し痰引などの治療を中止した。長男はなおも「早く楽にしてやってほしい」と強く主張。医師はこれに応 じて、鎮痛剤、抗精神病薬を通常の二倍の投与量で注射した。 しかしなおも苦しそうな状態は止まらず、長男から「今日中に家につれて帰りたい」と求められた。そこで助手は殺意を持って、塩酸ベラパミル製剤を通常の二 倍量を注射したが、脈拍などに変化がなかったため、続いて塩化カリウム製剤20mlを注射した。患者は同日、急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡 させられた。翌5月にこのことが発覚し、助手は塩化カリウムを注射したことを問われ、殺人罪により起訴された。なお、患者自身の死を望む意思表示がなかっ たことから、罪名は刑法第202条の嘱託殺人罪ではなく、第199条の殺人罪とされた。 裁判において、被告人側は公訴権の乱用として、公訴棄却もしくは無罪の決定・判決を求めた」。

【安楽死の要件(違法性阻却事由)】「本件に先立つ 安楽死事件のリーディング・ケースが「名古屋安楽死事件」である。こ れは被告人が重病の父の苦痛を見かね、母が父に飲ませる牛乳に毒薬を混入して安楽死させた事案である。名古屋高等裁判所昭和37年12月22日判決は、安 楽死の要件(違法性阻却事由)として、次の6つを示した。 不治の病に冒され死期が目前に迫っていること 苦痛が見るに忍びない程度に甚だしいこと 専ら死苦の緩和の目的でなされたこと 病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること 原則として医師の手によるべきだが医師により得ないと首肯するに足る特別の事情の認められること 方法が倫理的にも妥当なものであること なお本件では5と6の要件を満たさない(違法性は阻却されない)として、嘱託殺人罪の成立を認めた。 なお、事案は日ごろ安楽死について意思表明していなかった患者が、病床の苦痛によって「殺してくれ」「早く楽にしてくれ」と叫んでいたというものであり、 平時死を望んでいた事情がないからといって真摯な意思表明でないとはいえないとしている。ゆえに、4の要件が意思表明を確認できない場合(危篤時など)に どう位置づけるべきかは、以後の裁判例に委ねられた。」

東海大学安楽死事件の判決の帰結とは?】「横浜地方裁判 所は平成7年3月28日判決で、被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)とした(確定)。判決では、医師による積極的安楽死として許容されるための次の4つ を挙げた。 患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること また、名古屋高裁に「もっぱら病者の死苦の緩和を目的でなされること」、「その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうること」という要件は、末期医療 において医師により安楽死が行われる限りでは、もっぱら苦痛除去の目的で、外形的にも治療行為の形態で行われ、方法も目的に相応しい方法が選択されるのが 当然であろうから、特に要件として必要はないとした。 そして、本件では患者が昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかったことから1、4を満たさないとした。ただし、患者の家族の強い要望があったこ となどから、情状酌量により刑の減軽がなされ、執行猶予が付された。」

【そして最大の論点】「本判決は名古屋安楽死事件の 6要件よりもより緩やかに違法性阻却事由を構成し、上記の4要件では患者の自己決定権を重視したことを特徴とする。つまり、緊急避難の法理と患者の自己決 定権をベースとして、積極的安楽死について限定的ながらも認めたことに意義がある。刑法の学説も積極的安楽死を認める説が有力ではあるが、一方で”生命の 処分”を認めるべきではないとする説もある。 別の論点として、「医師による安楽死であれば違法性が阻却される」とする論拠は不明確、との批判もある。」

自殺と死の文化人類学研究:「安楽死の研究」


世界の安楽死の現状:   【ブルー】本人が希望し、医師が関与した積極的安楽死が合法 ;【そら色】  消極的安楽死が合法(アメリカは州によって積極的安楽死も合法)  ; 【赤色】安楽死(本人の意思に基づいたあらゆる自殺幇助)が一律違法   ;【灰色】不明(本人の意思を得て、医師が安楽死させても自殺幇助罪にする国も存在)

自殺は、徹頭徹尾、社会 現象である。(→デュルケーム『自殺論』) 自殺についての文化人類学的研究というものはあまり見当たらない。

死の現象や埋葬儀礼についての研究は山のようにあ る。(→メトカーフやハンチントン、バリー、ブロック) ほとんどの社会で自殺は異常死の典型とされているために、忌み嫌われタブー死される。あるいは、そのことについて議論することすら嫌われる。(→ゴーラ 「死のポルノグラフィ」) 多くの宗教は自殺は背教的行為だが、ある種の宗教において自殺あるいは自殺的行為は原則として推奨はされないが[ある一定の条件のもとで]徳の高い崇高な 行為と見なされるものもある。(→死は宗教学の基本的な問題系のひとつ)

近代法学では「死の自己決定」というテーマで自殺に 触れられるが、その中身は安楽殺(euthanasia, mercy killing)で、自殺行為を貫徹できない人を幇助したり、他殺されることを望む人の願いを叶えてあげることについての議論である。この種の議論は、つ まるところ「慈悲のために殺す」という撞着語法かつ撞着行為という矛盾を抱えているために、歯切れがわるい[慈悲は救済ないしは永遠の命を与えることだ、 他方、殺害は末梢行為だから]。ないしは、「解決できない問題」のまわりを堂々巡りしているだけである。(→五十子『死をめぐる自己決定』) これらような議論の混乱は、つまるところ、「人間の死」を普遍化し、ひとつの価値観の中に留め置こうとする研究者(あるいは人間一般)の偏見に由来してい るものと思われる。 死を徹底的に個別化し、分散化させること。普遍的やパターン化できるという心理学や行動科学の傲慢から解放されること。人間の死は、一個一個別物であり、 それぞれに意味があること。瓦礫の山にある骨の一個一個の中に死のアイデンティティを見いだすこと。一個一個の中に、秘められた死のポルノグラフィを解読 (decording)すること。 これしかない。 文化人類学という非力な学問が、死の普遍化という傲慢な社会科学という軍事力に対抗できるのは、この一点を突破すること以外にない。

リンク

文献

その他の情報


---------------------------------------------------------------------------
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Do not copy & paste, but [re]think this message for all undergraduate students!!!