「障害者を殺してしまおう」という発想の分析
Becoming ill and disable is contained in
normal and public sphere
◎「障害者を殺してしまおう」という発想の分析——健康が人間の規範ではなく病気や障害が人間の
規範です!!!
●(a)「障害や病気があっても可哀想ではなく」という表現をした瞬間にバカが証明される。 (b) 「障害や病気があるから人間であり、それを否定する概念としての健康は市民社会の道徳としては欺瞞言説です!」とはっきり言おう。まあ弁論術修辞学を勉強 しないからこんなバカなこと(a)を言っちまう愚かさを、ともに呪いましょう! - 2019年11月30日に起こった京都府における「ALS女性嘱託殺人事件」 の報を受けて(2020年7月27日)
「ALS女性嘱託殺人事件」の顛末(ウィキペディアによる)
「ALS患者嘱託殺人事件(エーエルエスかんじゃしょくたくさつじんじけん)とは、2019年 11月に起きた、ALS患者に依頼されて薬物を投与し殺害した事件である。/筋肉が徐々に動かなくなる難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者 Aから依頼され薬物を投与して殺害したとして、宮城県の医師X(大久保愉一・43)と東京都の元医師Y(山本直樹・43)が2020年7月23日に嘱託殺人容疑で逮捕された。2人は女性患者Aの主治医ではなかった[1]。両医師は同年8月 13日に同罪で起訴された[2]。/両医師は2019年11月30日、女性患者Aが 一人で暮らしていた京都市中京区のマンションを訪問し、部屋にいたヘルパーに知人を装って偽名を告げ、ヘルパーが別室にいた間に、胃ろうからAの体内に薬 物を注入したとされる。2人が立ち去った後、その後Aは呼吸停止状態に陥り、搬送先の病院で死亡が確認された[3]。/医師X(大久保愉一)と元医師Y(山本直樹)は2020年10月20日、別の難病患者Bに対し海外で合法的に安楽死するために必要な診断書を 偽名で作成したとして、有印公文書偽造罪で京都地検に追起訴された[4]。/医師X(山本直樹)は2021年2月17日、診察せずにもう1 人の元医師Y(大久保愉一)の 健康診断書を不正に交付した医師法違反罪でも京都地検に追起訴された[5]。/さらに、京都地検は2021年6月3日、10年前に元医師Y(山本直樹)の父親を殺害したとして、殺人罪で両医師に加えてY(山本直樹)の母親(山本淳子・76)の計3人を起訴した[6]。/亡くなった(ALSの) 女性は生前、ツイッターやブログに趣味などに関する多くの言葉を残していた。その中には「安楽死」を望むメッセージもあった[7]。/逮捕・起訴された元 医師Yは、かねてから医師免許を不正に取得していた疑いが指摘されて おり、その後2021年12月24日付で医師国家試験の受験資格の要件を満たしてなかったとしてYの医師免許を取り消すことが発表された[8][9]。」
彼らの来歴:「大久保容疑者は厚生労働省の技官を務めた後、東北地方の病院などで勤務し、宮城県 名取市で呼吸器内科・メンタルクリニックを開業していた。山本容疑者は都内の大学医学部を中退したが海外で学んだとされ、その後、日本の医師免許を取得。 千葉県の救急医療病院などに勤めた。東京都内で勃起不全(ED)治療の専門クリニックを開いていた。」
余罪:「捜査関係者によると、山
本直樹の父は長野県の精神科の病院に長期入院していたが、11年3月5日午前に退院。同じ日に淳子容疑者の名前で東京都中央区役所に父の死亡届が提出され
た。江戸川区のアパートで心臓や血管の病気で急死したと記されていたが、入院していた病院の主治医から「(当時の健康状態は)死に直結するような病状では
なかった」という証言を得た」(https://bit.ly/3jpRTfj)
朝日新聞(2020年7月27 日)
そして、このような袋小路からの脱却の回路としては「生き延びるためのサバイバル」 という発想だ。つまりSNSでの「死にたい」というつぶやきは、ネットの中を哨戒する死神たちに「殺人の誘惑」を刺激するということだ。だが、より大きな 問題は、障害者当事者も健常者と呼ばれる人も、現代では「障害をもって生きることは辛い」という時代のエートスを共有していることである。もっとも「辛 い」ということの処方せんが死の選択だったとしても、それは言うまでもなく万能薬ではなく、むしろ万能毒ともいうべきものなのだ。
安
楽死(あんらくし、
euthanasia)とは、人または動物に苦痛を与えずに死に至らせること、すなわち殺害(英語では実施=practice)である。したがって日本語
の安楽死は一般的に安楽殺と表現する
のが適切である。安楽死は、一般的には、治癒や症状の改善が見込めない患者や終末期患者に対する医療上の処遇で使われることが一般的なので、このことが医
療関係者やジャーナリストをして「安楽死」を選ぶ傾向が強く、「安楽殺」と使うことが回避される。自殺や慈悲殺を非道徳とする宗教家は、安楽殺と表現する
ことに躊躇しない。
● 見えない障害
「このようなプログラムが採用、推進されている背景には次のような複数の歴史的・社会的要因 が見え隠れする。(1)見えない障害者を国家が発 掘し、丹念にケアをおこなってゆくというパターナリズム的政策主義、(2)1990年代以降に、医療や福祉の現場で徐々に表面化してきた「見えない障害」 者をとりあげるマスメディアや政策担当者および福祉実践者のあいだにおける、この障害のもつ社会問題化、(3)バイオジェネティクス研究の沈静化(ないし は一段落化)以降に隆盛する脳科学研究の進展、そして(4)年少者の教育現場や成人教育において、徐々に効力のある手法として社会的に影響力をもちはじめ てきた認知科学的療法(=認知療法)の進展である」見えない障害)
●疾病論上の二項対立(→「規範概念とし ての健康」より)
「医学者たちの考えは、病気についてのこうした二つの表象(病原体のような〈存在論〉と調和 の攪乱の ような〈全体論〉のこと——引用者註)の一方から他方へ、二つのかたちの楽観論の一方から他方へ揺れ動き続けた。そして揺れ動くたびごとに、必ずどちらか の側にとっての何かしらもっともな理由を、新しく明らかにされた病因の中に、見つけたのだった。欠乏症の病気およびいっさいの伝染病や寄生病は、存在論的 理由に軍配を挙げ、内分泌障害および不十分、困難、異常、障害などを示す接頭辞dysのついたあらゆる病気は、ダイナミズムの理論つまり機能的理論に軍配 を挙げる。にもかかわらず、これら二つの考え方には一つの共通点がある。すなわち、いずれも病気の中に——病/気であるという経験の中にといった方がいい ——戦いの場をみている。一方は有機体と外部のものとの戦いであり、もう一方は内部のせめぎ合う力同士の戦いである。一方は一定の本源的要素の存在や欠如 によって、もう一方は有機体全体の配置替えによって、病気は健康状態から区別される。一つの性質が他の性質とは異なるように、病理的なものは正常なものと 異なるのである」(カンギレム 1987:15-16)。
●規範の哲学/規範の不在
「完全なものはあらゆる完全さをもっているものだから、自己を存在させることの完全さももっ ているだ ろうと考えて、その完全さの性質から出発して、完全なるものの存在を証明できるかどうかを、人は長い間追求してきた。完全な健康が事実上存在するかという 問題もこれと同様である。まるで完全な健康が、批判的な概念ないし理想型ではないかのようではないか? 厳密にいえば規範は存在しない。規範は、存在する ものを低く評価して修正可能とならしめる役割を果たしている、完全な健康が存在しないということは、単に、健康の概念が存在概念ではなくて、規範概念だと いうことだ。規範の役割と価値は、存在するものにかかわり合って、これを変更させることにある。このことは、健康が空虚な概念だということを意味しない」 (カンギレム 1987:55)。
●衛生の規範
「衛生の規範の定義は、政治的見地からすると、統計的に見た住民の健康や、生活条件の衛生 や、医学に 焦点を合わせた予防と治療の処置の均等な拡張などに向けられた関心を前提とする。オーストラリアでは、マリア・テレジアとヨゼフ二世とか、帝国健康委員会 (Sanita‾ts-Hofdeputation. 1753)を創設して「主要衛生規則」(Haupt Medizinal Ordnung)を公布することによって、公衆衛生の制度に法律的規定を与えている。主要衛生規則は、一七七〇年、「衛生規範」(Sanita‾ts- normativ)に置き代えられた。それは、医学や獣医技術や薬局や外科医養成や人口統計や医学統計などに関連する四十の規定から成る。ここで/は規範 と規格化に関して、実体とともに言葉をもつわけである」(カンギレム 1987:228-229)。
●規範・規格化
「……正常という用語そのものは、教育制度と衛生制度という二つの制度特有の語彙から出発し て、通俗 語の中を通って、そこへ移植されたのである。そして、これらの制度の改革も少なくともフランスに関する限り、フランス革命という同じ原因の影響のもとで、 同時におこった。正常というものは十九世紀に、学校の模範や身体器官の健康状態をさし示す用語だった。理論としての医学の改革それ自体が、実地としての医 学の改革にもとづいている。すなわち、理論としての医学の改革は、フランスでも、オーストラリアでも、病院の改革と密接に結びついている。病院の改革と教 育改革とは、合理化の要請を表している。合理化の要請は、出現し始めた工業機械化の影響のもとに、経済にも政治にも現れている。そして結局は、それ以後、 規格化(normalisation)と呼ばれたものに帰着することになる」(カンギレム 1987:219)。
●規範概念が、病理概念を相対化する
「もし病気がやはり一種の生物学的規範だということが認められるなら、病理的状態はけっして 異常とい われることはできず、一定の場面との関係の中で異常だといえることになる。逆に病理的なものは一種の正常なものなのだから、健康であることと正常であるこ ととはまったく同じではない。健康であることは、一定の場面で正常であるということだけでなく、その場面でも、また偶然出会う別の場面でも、規範的である ということでもある。健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみ出る可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、また は新しい場面で新しい規範/を設ける可能性である」(カンギレム 1987:175-176)。
●クロード・ベルナールの平均・嫌悪
「クロード・ベルナールは、平均で表された生物学的分析や生物学的実験のすべての結果に対し て、嫌悪感を示していた」(カンギレム 1987:130)。
●健康の2つの意味
「正常なものと異常なものとを、相対的な統計的頻度で定義して、病理的なものを正常とみなす やり方 は、おそらく存在する。ある意味で、完全な健康が続くことは異常なことといわれている。しかし、それは健康という言葉には2つの意味があるということであ る。絶対的な意味での健康は、有機体の構造と行動の理想型を示す規範概念である。この意味では、よい健康を語ることはひとつの冗語法 (redundancy?:引用者)である。なぜなら、健康とは器官がよいことだからだ、資格ありとされる健康は、可能な病気に対する個々の有機体のある 種の傾向と反応を示す記述概念である」(カンギレム 1987:116)。
●ベルナールとコント
「クロード・ベルナールは『実験医学研究序説』(仏語省略)を著すにあたって、効果的作用が 科学と同 じだということを主張しようとしただけでなく、同時にこれと並行して、科学は現象の法則の発見と同じだということも主張しようとした。この点で、コントと 完全に一致している。コントが彼の生物哲学において生存条件の学説と呼んでいるものを、クロード・ベルナールは決定論とよんでいる。彼はこの用語をフラン スの科学的言説の中に、最初にもち込んだと自負している」(カンギレム 1987:86)。
●ジョン・ライル(John A. Ryle)論文「正常の意味」
The meaning of normal. 1947 「オックスフォード大学の社会医学の教授であるこの著者は、何よりもまず、生理的規範とくらべて個人にある種の偏りがみられたとしても、それだけでは病理 的指標ではありえないことを証明しようと努めている。生理的変異性が存在することは正常である。それは順応にとって、したがって生存にとって、必要なので ある」(カンギレム 1987:252)
◎理想的な援助者、理想的な障害者からの脱却
「常にヘレン・ケラーと比較されて育った視覚障害をもつ著者が、「奇跡の人」という偶像へ、
怒りと意義申し立ての手紙をつづり…。資料にもとづいた事実から、ひとりの盲目の女性としてのヘレンの姿をよみがえらせる物語。親愛なるヘレン・ケラー、
あなたは本当のことを語っていますか?常にヘレン・ケラーと比較されて育った視覚障
害をもつ著者が、「奇跡の人」という偶像へ、怒りと異議申し立ての手紙
をつづり、架空の対話を試みる!「偉人」ではない、一人の盲目の女性としてのヘレンの姿を鮮やかによみがえらせ、抑圧から魂を解き放つ、和解と再生の創造
的ノンフィクション。第1章 試練についての自覚
第2章 フルボディ・コンタクト
第3章 ポンプを駆動し続けて
第4章 手の記憶」
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