The National Institute of Total war,
1940-1945
【総 力戦研究所】総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅうじょ)とは、大日本帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号 (総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研究所である。この機関は国家総力戦に関する基本的な調査研究と“研究生”として各官庁・陸海 軍・民間などから選抜された若手エリートたちに対し、総力戦体制に向けた教育と訓練を目的としたものであった。1945年(昭和20年)4月1日付施行の 勅令第115号により廃止。本来の目的は「国防」という問題について一般文官と軍人(武官)が一緒に率直な議論を行うことによって国防の方針と 経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることにあったとされている。総 力戦研究所構想は企画院第一部長の沼田多稼蔵[1]の発案だったとされ、内閣情報局分室跡で開所されることとなった。 1940年(昭和15年)10月1日、企画院内で総力戦研究所の開所式が執り行われた。初代所長に星野直樹、所員には渡辺渡(陸軍大佐)、松田千秋(海軍 大佐)、奥村勝毅(外務省東亜局第二課長)、大島弘夫(内務省外事課長)、前田克巳(大蔵省主計局調査課長)、寺田清二(農林省蚕糸局長)、岡松成太郎 (商工省官房統計課長)らが最初に充てられた。 同40年12月3日、研究所主事に岡新(海軍少将)、技本総務部長兼任所員として藤室良輔[2](陸軍少将、1941年10月に同所主事)が加わった。 1941年4月1日に入所した第一期研究生は、官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名。その後4月7日になって、皇族・閑院宮春仁 王(陸軍中佐。当時、陸軍大学校学生)が特別研究生として追加入所した。一期生は1942年(昭和17年)3月まで研究・研修を行い卒業となった。 1942年4月に第二期生39名を、1943年(昭和18年)には第三期生40名を受け入れている。その三期生は、同43年12月15日で繰り上げ卒業。これ以降、総力戦研究所は開店休業状態となった(→ウィキペディア「総力戦研究所」)。
沼田 多稼蔵(ぬまだ たかぞう、1892年(明治25年)4月18日 - 1961年(昭和36年)11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴 広島県出身。漢学者・沼田良蔵の二男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期) を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業。 1920年(大正9年)4月、参謀本部勤務となり、関東軍幕僚付、参謀本部員(内国戦史課)、陸軍省軍務局課員などを経てイタリア駐在となり、1927年 (昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、整備局課員(動員課)となり、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級。1932年 (昭和7年)12月、関東軍参謀(特務部)に就任し、イタリア大使館(イタリア語版)付武官を経て、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進した。 1936年(昭和11年)8月、参謀本部付となり、日中戦争に歩兵第39連隊長として出征し徐州会戦などに参加。1938年(昭和13年)6月、第11軍 参謀副長に転じ、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。 1939年(昭和14年)1月、第11軍参謀長に着任し、企画院第1部長に転じ、第1部長任期中に総力戦研究所構想案を練ったとされている。1941年 (昭和16年)3月、陸軍中将に進んだ。同年4月、第3軍参謀長に就任し満州に赴任。1942年(昭和17年)8月、第12師団長に親補された。1943 年(昭和18年)10月、第2方面軍参謀長となり、昭和19年5月、ビアク島を視察中に米軍の上陸に遭遇し、臨時に防戦の指揮を執ったが、玉砕寸前に同島 を脱出した。南方軍総参謀長として終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月、戦犯容疑により巣鴨プリズンに収容された。1948年(昭和23年)4 月、橘丸事件で重労働7年の判決が言い渡されたが、1950年(昭和25年)12月に仮釈放された。 1955年(昭和30年)9月24日、防衛庁顧問に就任している[1]。 栄典 位階 1913年(大正2年)2月20日 - 正八位[2] 1941年(昭和16年)9月15日 - 従四位 1943年(昭和18年)10月1日 - 正四位 勲章等 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3] 親族 妻 沼田文子 井戸川辰三陸軍中将の娘 著書 『日露陸戦新史』兵書出版社、1924年3月。 NCID BA31802317。全国書誌番号:43010900。 『日露陸戦新史』渡辺錠太郎序(訂正5版)、偕行社、1925年3月。 NCID BN12148241。 『日露陸戦新史』岩波書店〈岩波新書 78〉、1940年11月。 NCID BN01811773。全国書誌番号:46045757 全国書誌番号:61003149。 『日露陸戦新史』芙蓉書房、1980年6月。 NCID BN09629514。全国書誌番号:80030272。 『日露陸戦新史』岩波書店〈岩波新書 特装版 赤-78〉、1982年3月。 NCID BN02535693。全国書誌番号:82028458。 『日露陸戦新史』(新装版)芙蓉書房出版〈芙蓉軍事記録リバイバル〉、2004年11月。ISBN 9784829503461。 NCID BA69983087。全国書誌番号:20715835。 【右写真】1945年、降伏に関連した英印軍との交渉のため、ラングーンを訪れた沼田(左)。向かって右は同行した海軍少将・中堂観恵 |
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星野 直樹(ほしの なおき、1892年(明治25年)4月10日 - 1978年(昭和53年)5月29日)は、日本の大蔵官僚、政治家、実業家。 満洲国では国務院総務長官として腕を振るい、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一角を占める。第2次近衛内閣の企画院総裁、東条内閣では内閣書記官長を務 め、終戦後にA級戦犯として起訴された。終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。 生涯 1892年4月10日に横浜市で生まれた。当時の高等科二年時(現在の小学校6年)、府立一中(現在の日比谷高校)へ願書を持って行ったところ、その年、 中学校に入れるのは1892年(明治25年)4月2日以前の生まれの者に限られるとして、断られた。そこで、知人の子が通っているという事と、少しぐらい の日にちの違い等で文句は言わないだろうという事で京華中学に行き、願書を受領、即座に入学許可された。その後、1910年(明治43年)9月、一高に入 学した。 大蔵官僚時代 1916年に高等文官試験に及第し、1917年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業、大蔵省に入省した。 入省時銀行局属官、北税務署副司税官、1919年には大阪北税務署長、熊本監督局経理部長、大阪監督局部長。1926年に大蔵事務官に昇進した。1932年から営繕管財局国有財産課長と昇進を重ねた。 満洲国時代 組閣大命が東條英機に降下した事をうけて、組閣本部入りする星野(昭和16年10月18日) 1932年3月1日の満洲国建国に伴い、関東軍から総務庁次長阪谷希一の仲介で大蔵省に人材派遣要請があった際、石渡荘太郎国税課長・賀屋興宣予算課長な どに対し星野は大蔵省で「第一の人物」を送る必要があると主張したが、その「第一の人物」として星野自らが満洲国に赴くことになった。星野を団長に、古海 忠之、松田令輔などが大蔵省満洲国派遣団の一員だった。 1932年に満洲国へ転身[1]した後は、満洲国財政部理事官、財政部総務司長、財政部次長、国務院総務庁長を経て、1937年国務院総務長官に就任 [1]。満洲国において、実質上の行政トップの地位に就いた。在任中は、満洲国を動かす弐キ参スケの一人[1]として、同国の財政経済を統轄した。満洲国 において計画経済の「実験」を成功させた星野は、1940年1月の大阪毎日新聞に掲載された寄稿文の中で「満洲の面積は独・仏・伊の三国を併せたものに匹 敵し、これに支那を加えることで日本の資源・食糧面でのアウタルキー(自給自足圏)は完成する」と記し、国民から賞賛を浴びる事となる。 帰国後は、第2次近衛内閣の元で企画院総裁に就任し、資本と経営の分離など社会主義的な経済新体制要綱原案を作成するも、自主統制を主張する財界との間に 激しい摩擦を生じ、1941年に辞職[2]。同年4月4日、貴族院議員に勅選されたが[3]、同年東條内閣の成立とともに内閣書記官長に起用され、以後東 條英機の退陣まで側近として大きな発言力を保持した[2]。その間、総力戦研究所長事務取扱、同参与、国家総動員審議会委員、企画院参与等も務めた [2]。辞任後は大蔵省顧問。 第二次大戦後 第二次世界大戦が終結すると、A級戦犯[2]として極東国際軍事裁判で終身刑を宣告されたが、1958年に釈放され、後に東京ヒルトンホテル副社長、東京 急行電鉄取締役、旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。著書に「見果てぬ夢―満州国外史」(ダイヤモンド社刊)等[4]がある。新宿区中落合に 邸宅があった。墓所は多磨霊園。 栄典 位階 1918年(大正7年)7月31日 - 従七位[5] 1920年(大正9年)7月20日 - 正七位[5] 1922年(大正11年)8月10日 - 従六位[5] 1924年(大正13年)9月15日 - 正六位[5] 1927年(昭和2年)8月1日 - 従五位[5] 1932年(昭和7年) 7月8日 - 正五位[5] 8月8日 - 従四位[5] 1940年(昭和15年)8月1日 - 従三位[5] 勲章等 1929年(昭和4年)12月28日 - 勲六等瑞宝章[5] 1932年(昭和7年)8月16日 - 勲五等瑞宝章[5] 1937年(昭和12年)2月23日 - 勲三等瑞宝章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[5][6] 1940年(昭和15年) 4月29日 - 勲二等旭日重光章[5] 12月12日 - 勲二等瑞宝章[5][7] 外国勲章佩用允許 1940年(昭和15年)10月13日 満州帝国:勲一位景雲章[5] 満州帝国:勲一位柱国章[5] 1942年(昭和17年)12月28日 - ハンガリー王国功績勲章(英語版)グランドクロス[8] 人物評 東京裁判当時のマスコミによると、星野の抜群の記憶力は「ノートを持たねば話せぬ」という東條英機にとって、心強い助っ人だったという[2]。 星野の肉体は非常に頑健で、重光葵によると、巣鴨プリズンにおいても、佐藤賢了と一緒に上半身裸でいることが多かったという。 ダイヤモンド社の創業者である石山賢吉は、著書の中で星野の事を「親しく接触して感じ入った事は、少しも私心がないことと、非常な勉強家である。 星野先生の入社を得たことは、我社近年の収穫である」と評している。 先祖・親族 先祖は群馬県沼田市に代々続く豪農だった。1868年に、祖父の星野宗七が横浜に出て生糸業者を営む「星野屋」を開業。 父、星野光多はキリスト教伝道者。次弟の星野茂樹はトンネル技師。三弟の星野芳樹はジャーナリストから戦後参議院議員を一期務めた。 叔母の星野あい(光多の妹)は、初代「津田塾大学」学長(「女子英学塾」教頭→「津田塾英学塾」第二代塾長→「津田塾専門学校」→「津田塾大学」初代学長)。現在も津田塾には、「星野あい賞」が存在する。 医学者の星野鉄男は従兄弟(光多の兄である銀治の子)。 作家の生方敏郎は父の従兄弟(敏郎の母が宗七の妹)。 飯村豊は孫。 著作 著書 『見果てぬ夢-満州国外史』ダイヤモンド社、1963年。 解説 「憲兵司令官東条英機」『文藝春秋』第33巻第12号、1955年6月、142-148頁。 「太平洋戦争開戦す」『文藝春秋』第33巻16臨時増刊、1955年8月、198-203頁。 「通商拡大の鍵」『経済時代』第21巻第5号、1956年5月、69-71頁。 「スエズ運河をめぐる中東の動き」『経済時代』第21巻第9号、1956年9月、78-79頁。 「回想の東条内閣-組閣から日米開戦まで」『中央公論』第76巻第9号、1961年9月。 「鮎川義介-満州に賭けた新興コンツェルンの総帥」『自由』第9巻第12号、1967年12月、90-97頁。 「昭和財政史史談会記録6-旧満州国の財政」『ファイナンス』第14巻第5号、1978年8月、63-73頁。 「昭和財政史史談会記録7-旧満州国の財政」『ファイナンス』第14巻第7号、1978年10月、62-72頁。 |
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渡辺 渡(わたなべ わたる、1896年(明治29年)12月26日[1][2] - 1969年(昭和44年)12月7日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴 岡山県出身[1][3]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業[1][4]。同年12 月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる[1][4]。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し、歩兵第12連隊中隊長に就任 [1][3]。 1929年(昭和4年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第2師団参謀、混成第24旅団参謀、参謀本部付(支那駐在員、北京・張家口・九江)など を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1934年(昭和9年)3月、第9師団参謀に就任し、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)に 転じ、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に進級[1]。 1937年10月、北支那方面軍特務部付となり、北京特務機関長、済南特務機関長を歴任し、1939年(昭和14年)3月、歩兵大佐に昇進し興亜院華北連 絡部政務局長に就任[1][3]。1940年(昭和15年)9月、参謀本部付として総力戦研究所員となった[1][3]。 1941年(昭和16年)11月、第25軍軍政部付に発令され太平洋戦争を迎えた[1][2][3]。マレー作戦、シンガポールの戦いに参加[2]。 1942年(昭和17年)4月、第25軍参謀副長兼軍政部長となり、同軍軍政監部総務部長兼参謀副長を経て、1943年(昭和18年)3月、陸軍少将に進 み陸軍歩兵学校付となる[1][2][3]。同年5月、企画院第1部長に就任[1][2][3]。軍需省総動員局監理部長を経て、1944年(昭和19 年)11月、独立混成第2旅団長に転じ張家口に駐屯[1][2][3]。北支那方面軍参謀副長として終戦を迎え[2][3]、その後、同方面軍渉外部長に 就任[1]。1946年(昭和21年)8月に復員[1]。 栄典 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[5] |
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松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。海兵44期。戦艦「大和」第3代艦長。最終階級は海軍少将。妻コマは詩人丸山薫の妹。 経歴 1896年(明治29年)9月29日、熊本県菊池郡加茂川村大字菰入(現・七城町菰入)に生まれる。旧制熊本県立鹿本中学校を経て、1913年(大正2 年)9月3日、海軍兵学校44期に100名中89番の成績で入学。同期に柳本柳作、西田正雄、朝倉豊次、黒島亀人らがいる。1916年(大正5年)12月 11日、95名中14番の成績で卒業。少尉候補生となり装甲巡洋艦「常磐」に乗り組み、練習艦隊近海航海に出発し、1917年(大正6年)3月3日に帰 着。4月5日、練習艦隊の遠洋航海に出発し、8月17日に帰着。8月19日、巡洋戦艦「榛名」乗組。12月1日、少尉に任官。戦艦「河内」乗組。 1918年(大正7年)7月12日、乗艦中の「河内」が爆沈するという大事故に遭遇している。(国立公文書館アジア歴史資料センター「松田千秋尋問書」) 同年8月15日、巡洋戦艦「榛名」乗組。11月9日、装甲巡洋艦「吾妻」乗組となり少尉候補生(46期)指導官附を務めた。 1919年(大正8年)3月11日、練習艦隊は遠洋航海に出発、7月20日に帰着した。当時の練習艦隊司令官は中野直枝中将(15期)、練習艦は「常磐」 (艦長小松直幹大佐・25期)「吾妻」(艦長飯田延太郎大佐・24期)の2隻。少尉候補生たちは高田利種、山本親雄、重永主計、野村留吉、猪口敏平、貝塚 武男、柳沢蔵之助、阿部俊雄、矢牧章、安田義達などであり、目的地は東南アジア・オーストラリア訪問であった。この年の「水交社々員名簿」によると、松田 少尉の序列は同期生中10番に上昇している。8月5日、装甲巡洋艦「浅間」乗組。12月1日、中尉に進級し、海軍水雷学校普通科学生になっている。 1920年(大正9年)5月31日、海軍砲術学校普通科学生。12月1日、3等駆逐艦「夕立」乗組。1921年(大正10年)12月1日、巡洋戦艦「金剛」分隊長心得。 1922年(大正11年)12月1日、大尉に昇進し、海軍砲術学校高等科第22期学生を拝命。1923年(大正12年)11月29日、海軍砲術学校高等科 を優等で卒業。12月1日、一等駆逐艦「神風」砲術長兼分隊長。1924年(大正13年)12月1日、戦艦「陸奥」分隊長。1925年(大正14年)12 月1日、海軍砲術学校教官。 1926年(大正15年)12月1日、海軍大学校甲種第26期入校。この頃までに松田の序列は、同期生中4番まで上昇している。1928年(昭和3年) 11月6日、海軍大学校を22名中第12位の成績で卒業。12月10日、少佐に進級し海軍省人事局第1課に勤務。1929年(昭和4年)5月1日、アメリ カへ語学留学。 1930年(昭和5年)5月1日、在アメリカ大使館附海軍駐在武官府補佐官。日本海軍の駐米経験者では珍しく頑なまで反米主義者だった。1931年(昭和 6年)5月1日、帰朝し、7月1日より軽巡洋艦「木曾」砲術長。9月7日、軍令部第1班第1課。軍令部の改編に伴い1933年(昭和8年)10月1日、軍 令部第1部第1課。大和型戦艦建造の基本構想に関わる。11月1日、参謀本部員を兼務。11月15日、中佐に昇進。1934年度(昭和9年度)の軍令部作 戦班長を務めた。4月2日、参謀本部員を免じられ、11月15日に海軍省軍務局第2課へ異動。 1935年(昭和10年)4月1日に栗田健男大佐(38期)が艦長を務める軽巡洋艦「阿武隈」の副長に異動、同年11月まで勤め、後任の伊集院松治中佐 (43期)と交代。海軍大学校教官 兼技術会議議員兼陸軍大学校兵学教官へ異動した。11月、鹿児島・宮崎方面にて行われた陸軍特別大演習では、青軍司令官林銑十郎大将(陸士8期)が率いる 軍司令部幕僚として参加。松田中佐の同僚として、太平洋戦争期間中に陸軍省軍務局長を務めA級戦犯となった佐藤賢了砲兵少佐(陸士29期、のち中将)もい た。1936年(昭和11年)1月、当時の内務省警保局特別警察部が作成した『海軍士官要監視人物』という極秘資料には松田の名も記載されている。二・二 六事件に加担した陸軍青年将校の思想に同情的と見られていた為で該資料に掲載された海軍士官数名は事件後に予備役編入の処分を受けた。11月21日、海軍 大学校教官兼第3艦隊参謀。 1937年(昭和12年)8月16日、上海派遣軍参謀を兼務。(国立公文書館アジア歴史資料センター「上海派遣軍司令部に兼勤すべき者 第3艦隊参謀 海軍中佐 松田 千秋」)12月1日、大佐に昇進。12月15日、支那方面艦隊参謀。1938年(昭和13年)8月25日、水上機母艦「神威」艦長。1939年(昭和14 年)1月14日、軍令部第3部第5課長。1月25日、兼大本営海軍報道部第2課長。 1940年(昭和15年)5月22日、欧米各国出張。10月1日、総力戦研究所所員(高等官三等)に就任。このとき研究生たちの採用に際して採られた、現 在の就職活動などで見かける方式を「面接」と名づけたのは松田大佐である。採用された研究生たちが、模擬内閣という形式でシミュレーションを行い、現実の 日米戦争における(原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致する「日本必敗」の結論を導き出したことは有名である。この頃の松田大佐については、猪瀬直樹著 「昭和16年夏の敗戦」(中公文庫)に詳しい。 1941年(昭和16年)9月1日、標的艦「摂津」特務艦長に就任、日米開戦を迎えた。この間に航空攻撃に対する操艦マニュアルである「爆撃回避法」を作 成している。1944年(昭和19年)のフィリピン沖海戦(比島沖海戦)において、来襲した敵機の爆弾をすべて回避することに成功した戦艦「伊勢」艦長中 瀬泝大佐(45期)が、パンフレットを研究して実戦に役立ててくれたと、松田は回想している。(佐藤和正著「艦長たちの太平洋戦争」) 1942年(昭和17年)2月10日、聯合艦隊司令部附。聯合艦隊参謀長の宇垣纏中将(40期)は松田が結婚する際に仲人を務めた。2月20日、戦艦「日 向」艦長に就任。5月5日、伊予灘で「日向」、「伊勢」、「扶桑」、「山城」による演習中、第七斉射を行った際に「日向」の第5砲塔の爆発事故が起きてい る。このことが、伊勢型戦艦に対する航空戦艦への改装に繋がることになった。 ミッドウェー作戦前に戦艦「大和」で行われた「第二段作戦図上演習」では、米軍の指揮を担当した。米機動部隊はハワイから出撃してくる可能性があったが、 松田が出撃させることはなかった[1]。戦艦「日向」はミッドウェー海戦の一環としてアリューシャン方面に進出している。作戦中、「日向」の電探は帰還途 上の悪天候において艦隊の航路保持に役立ち、松田艦長は”レーダーの有効性”を周囲に訴えた。同年12月10日、聯合艦隊司令部附。12月17日、聯合艦 隊司令長官山本五十六大将(32期)の旗艦である戦艦「大和」の第3代艦長に就任した。 「大和」(松田千秋艦長)と「武蔵」(有馬馨艦長、手前)、1943年撮影 1943年(昭和18年)5月1日、クラスの一選抜組として少将に昇進する。同日、少将に進級した海兵44期生は、第6艦隊参謀長島本久五郎(電報符 343)、軍令部出仕兼海軍省出仕一宮義之(同344)、大和艦長松田千秋(同354)、第5艦隊参謀長大和田昇(同355)、第8艦隊参謀長山澄貞次郎 (同356)、軍令部部員兼大本営参謀小島秀雄(同358)である。 (※電報符とは毎年、上は元帥海軍大将から下は少尉候補生まで、全海軍士官に対して序列順に割り振られた背番号のようなものであり、先任後任の序を重視す る軍隊では重要な人秘であった。電報符は毎年更新される「現役海軍士官名簿」で定められていた。太平洋戦争期の電報符1は、元帥海軍大将伏見宮博恭王であ る。) 少将になって間もない6月21日には「伊号第7潜水艦」に乗艦していた甥の松田廣和少尉(71期、戦死後に中尉進級)が戦死している。9月7日、軍令部第1部第1課出仕兼大本営参謀。10月15日、兼海軍省出仕。 1944年(昭和19年)3月31日、聯合艦隊司令長官古賀峯一大将(34期)以下司令部職員の搭乗機が消息を絶つ事件が発生した(海軍乙事件)。その 後、軍令承行令に基づいて、スラバヤにいる次席指揮官・高須四郎大将(35期、南西方面艦隊司令長官兼第13航空艦隊司令長官)が代行したが、スラバヤと いう僻地から指揮をとり統一を欠いた状況について、最前線であるサイパン、テニアンを守備する部隊から不満が出る始末であった。サイパンに出張した松田少 将は、南雲忠一中将(36期、中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官)や角田覚治中将(39期、第1航空艦隊司令長官)から、新聯合艦隊司 令長官の速やかな発令を要望されている。 松田千秋少将の旗艦となった航空戦艦「日向」 同年5月1日、新編された第4航空戦隊司令官に就任、かつて艦長を務めた「日向」に将旗を掲げた。第4航空戦隊は、航空戦艦へ改装された戦艦「日向」(野村留吉大佐、46期)、「伊勢」(中瀬泝大佐、45期)からなる新戦力であった。 ……(略)…… 1945年(昭和20年)2月、北号作戦を実施。松田は部隊を「完部隊」と命名し、制海権を失った海域で同艦隊に大量の物資を積載しての、シンガポールか ら本土への輸送作戦を行い、敵の攻撃を2度受けたが、近隣のスコールに隠れることができ、無事輸送を完了した。3月1日、軍令部出仕。3月10日、海軍航 空本部出仕。3月20日、横須賀海軍航空隊司令。終戦を経て11月1日に予備役編入。 戦後は(株)マツダカルテックスを経営。カード書類のランダム自動抽出装置を初めとする発明に専念し発明品で100以上が特許権・実用新案権を取得し商品化がなされた。 海軍関係者による海軍反省会に出席し、1981年(昭和56年)4月7日の第14回では、「真珠湾攻撃で、日本はアメリカに航空戦力でも戦艦を撃沈できることを教えてしまった」と批判的に回想した[2]。 1995年(平成7年)11月6日死去。享年99歳、海軍将官最後の生き残りであった。 |
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奥村勝毅(外務省東亜局第二課長) |
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大島 弘夫(おおしま ひろお、1903年〈明治36年〉11月25日[1] - 1953年〈昭和28年〉10月4日[2])は、日本の内務官僚。官選青森県知事。 経歴 石川県金沢市長町出身[1]。第八高等学校(現・名古屋大学)を首席で卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し新潟県属となる[1][3]。 以後、富山県書記官・警察部長、軍事保護院事務局長、総力戦研究所員、内閣参事官などを歴任[1]。 1944年8月、青森県知事に就任。戦時下の食糧増産に尽力。1945年4月、内務省管理局長に転任。内務省調査官、大臣官房調査部長を歴任。1946年 1月に退官[1]。その後、公職追放となった[3]。追放中の1948年、兵器処理委員会に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問され た[4]。1951年、追放解除[5]。 栄典 外国勲章佩用允許 1940年(昭和15年)1月18日 - 満州国:勲五位柱国章(中国語版)[6] |
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前田克巳(大蔵省主計局調査課長) |
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寺田清二(農林省蚕糸局長) |
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岡松 成太郎(おかまつ せいたろう、1901年9月29日 - 1991年7月18日)は、日本の官僚。元商工次官。 略歴 東京府出身。父は京大法科教授・岡松参太郎。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部卒業。1928年、商工省入省。特 許局属[1]。1940年、総力戦研究所員、以後、東北地方鉱山局長、軍需省管理局長、商工省商務局長、燃料局長などを経て、石炭庁次長兼総務局長に。 1947年に商工次官に就任。 退任後は、日本商工会議所専務理事、北海道電力社長を3期6年務め、江別火力発電所や送電・変電の整備に尽くした。以後、会長、相談役に。息子は経済産業研究所初代理事長であった岡松壯三郎元通商産業審議官。 |
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岡 新(おか あらた、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1958年〈昭和33年〉3月23日)は、日本の海軍軍人。第3代総力戦研究所所長。海兵40期首席、海大甲種22期首席、砲術校高等科18期首席。最終階級は海軍中将。 略歴 東京府麻布区、現在の東京都港区出身。旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第40期入校。入校時成績順位は150名中第38位、卒業時成績順位は144名中首席。海軍大学校も首席卒業。 詳細は「海軍大学校卒業生一覧#甲種22期」を参照 太平洋戦争勃発直前に於ける総力戦研究所での活躍が知られている。 名言 「スピード、スピード、これからの歴史は、今までの何倍、何十倍のスピードで進む。起ち上がるのも、亡び去るのも。」「若いときのひらめきには概して間違 いがない。ひらめくことがあったら、それを深く深く、徹底的に掘り下げて考えてみろ。・・・」。1945年8月22日の記者会見で[1]。 年譜 1890年(明治23年)7月16日- 東京府麻布区(現在の港区)生 1910年(明治43年)9月11日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位150名中第38位 1911年(明治44年)7月17日- 成績品行善良章受章 1912年(明治45年)7月17日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位144名中首席・任 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「吾妻」乗組・練習艦隊近海航海出発 永興湾~元山~鎮海~仁川~大連~旅順~佐世保~大阪~津[要曖昧さ回避]~瀬戸内~佐世保方面巡航 11月13日- 帰着 12月5日- 練習艦隊遠洋航海出発 香港~シンガポール~フリーマントル~メルボルン~ホバート~ブリスベーン~パーム島~マカッサル~セブ島~呉淞方面巡航 1913年(大正2年)4月21日- 帰着 5月1日- 戦艦「河内」乗組 12月1日- 任 海軍少尉 1914年(大正3年)2月19日- 海軍水雷学校附 8月15日- 海軍軍令部出仕 12月1日- 海軍水雷学校普通科学生 1915年(大正4年)5月26日- 海軍砲術学校普通科学生 12月13日- 任 海軍中尉・海軍水雷学校附 1916年(大正5年)2月17日- 巡洋戦艦「榛名」乗組 1917年(大正6年)12月1日- 戦艦「伊勢」乗組 1918年(大正7年)1月25日- 戦艦「日向」乗組 12月1日- 任 海軍大尉・海軍砲術学校高等科第18期学生 1919年(大正8年)11月28日- 海軍砲術学校高等科首席修了 12月1日- 戦艦「日向」分隊長 1920年(大正9年)9月18日- 軽巡洋艦「球磨」分隊長 1921年(大正10年)11月10日- 第3艦隊参謀兼副官 1922年(大正11年)12月1日- 海軍大学校甲種第22期学生 1924年(大正13年)11月26日- 海軍大学校甲種卒業 卒業時成績順位21名中首席 12月1日- 任 海軍少佐・戦艦「日向」副砲長兼分隊長 1925年(大正14年)12月1日- 在イギリス日本大使館附海軍駐在武官府補佐官補 1927年(昭和2年)5月1日- 在イギリス日本大使館附海軍駐在武官府補佐官兼艦政本部造兵監督官 1928年(昭和3年)5月1日- 帰朝 7月25日- 海軍軍令部兼海軍省出仕 8月1日- 海軍省次席副官 12月10日- 任 海軍中佐 1931年(昭和6年)10月8日- 海軍軍令部兼海軍省軍務局出仕 12月9日- ジュネーヴ軍縮会議全権随員 1932年(昭和7年)11月1日- 在イギリス日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督長 12月1日- 任 海軍大佐 1935年(昭和10年)9月2日- 帰朝 11月15日- 軽巡洋艦「木曾」艦長 1936年(昭和11年)11月10日- 軍令部兼海軍省出仕 11月16日- 内閣調査官 1937年(昭和12年)10月25日- 企画院調査官 12月1日- 海防艦「出雲」艦長 1938年(昭和13年)9月1日- 第4艦隊参謀長 11月15日- 任 海軍少将 1939年(昭和14年)11月15日- 横須賀鎮守府参謀長 1940年(昭和15年)12月1日- 海軍省軍務局御用掛兼総力戦研究所長主事 1941年(昭和16年)10月15日- 海軍省軍務局御用掛兼総力戦研究所長心得 11月1日- 支那方面艦隊司令部附 11月15日- 上海在勤海軍駐在武官 1942年(昭和17年)11月1日- 任 海軍中将 1943年(昭和18年)8月20日- 軍令部出仕 9月20日- 第3南遣艦隊司令長官 11月11日- 勲一等瑞宝章受章 1944年(昭和19年)8月15日- 軍令部出仕 11月1日- 大阪警備府長官 1945年(昭和20年)11月15日- 海軍省出仕 11月30日- 海軍省廃官に依り予備役編入 1958年(昭和33年)3月23日- 死去 享年67 栄典・授章・授賞 位階 1914年(大正3年)1月30日 - 正八位[2] 1916年(大正5年)1月21日 - 従七位[3] 1919年(大正8年)1月10日 - 正七位[4] 1932年(昭和7年)12月28日 - 従五位[5] 勲章等 1939年(昭和14年)11月13日 - 勲二等瑞宝章[6] 外国勲章佩用允許 1929年(昭和4年)9月28日 - オランダ王国:コマンドールオランジュナッソー勲章[7] レジオンドヌール勲章オフィシエ :1930年(昭和15年)7月24日[8] |
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藤室 良輔(ふじむろ りょうすけ、1895年(明治28年)2月12日[1][2] - 1942年(昭和17年)8月14日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴 広島県出身[1][2][3]。藤室松次郎・陸軍砲兵大佐(陸士旧8期)の長男として生まれる[1]。東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、 陸軍中央幼年学校予科(首席)[4]、中央幼年学校本科(首席)[5]を経て、を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を首席で卒業 [2][6][7]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となる[1][6]。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を首席で卒 業した[2][3][8]。 1924年(大正13年)12月、参謀本部付勤務となり、以後、参謀本部員、ドイツ駐在、参謀本部員、歩兵第1連隊大隊長、陸大教官、参謀本部員、陸大教 官などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に進んだ[1][3]。1938年(昭和13年)3月、参謀本部戦史課長兼陸大教官兼大本営参謀に 就任した[1][3]。 1938年9月、第21軍参謀副長に充用され日中戦争に出征[1][2][3]。広東攻略戦を担当するが大本営の作戦構想と相違したことで大きな問題とな る[2]。1939年(昭和14年)3月、歩兵第77連隊長に転じ、同年11月、参謀本部付となり帰国[1][3]。1940年(昭和15年)8月、陸軍 少将に進級し陸軍技術本部付となる[1][2][3]。技術本部総務部長、兼総力戦研究所員を経て、1941年(昭和16年)10月[注 1]、総力戦研究所主事に就任[1][2][3]。同年6月、技術本部第1部長を兼任するが[1]、1942年(昭和17年)8月に死去し陸軍中将に進ん だ[1][2][3]。 栄典 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[9] 親族 娘婿 財津正彦(陸軍少佐)[1] |
●「総力戦研究所嘱託推薦名簿」に収載された「権威者」たち
「総力戦研究所嘱託推薦名簿についての次のような海軍側の記録が残っている。これは海軍大学校研究部の富岡定俊大佐が、海軍省調査課長千田金ニ
大佐に宛てたもので、被推薦者の評価に興味を覚えるとともに、文中の「日本総力戦形態ハ其ノ必然性ニ於テ太平洋ヲ中心トスル戦争形態ヲ第一段階トス」る考
え方、すでに「海軍大学校研究部ニ於テ総力戦研究所ヲ活発ニ行ヒ来リシ」という記述の部分に注目される。具体的に、海軍がいつごろから、どのような総力戦
研究所を実施してきたかは、なお明らかでない」(森松 1983:86-87)。
(森松 1983:87-89) |
総力研究所ニ悔軍、トシテ推薦ヲ適当トスル学者二閲スル意見 1.総力戦研究所二嘱託トシテ入ルベキ学者ハ海軍其ノ大部ヲ選ブヲ要ス 日本総力戦形態ハ其ノ必然性ニ於テ太平洋ヲ中心トスル戦争形態ヲ第一階梯トス故総力職研究所二研究嘱託トシテ入ルベキ学者ハ右ノ意味二於ケル戦争研究ヲ為 シツアル者ヲ適当トシ其ノ選定・推薦ハ海軍之二任ズルヲ至当トス 2.海軍大学校研究部二於テハ総刀戦研究ヲ活発二行ヒ来リシ関係上各種ノ学者層二触接シ意見ヲ徴シ又ハ諭述ヲ求メタル適任者卜認ムベキ者ヲ選定セバ別紙ノ 通 |
和辻哲郎博士(思想戦) |
東大教授ニシテ斯界ノ第一人者、海軍ニ対スル協力者 |
本
位田祥男(ほんいでん・よしお)博士(政経戦) |
現二海軍省調査課ノ協力者、大学校研究部ニ於テモ政経戦関係論文ヲ依頼
セシ事アリ |
三枝茂智博士(外交戦) |
さえぐさ・しげとも(1888-1979)『世
界維新論』の著者。現ニ海軍大学校研究部嘱託トシテ総力戦研究中ナリ、外交身ニテ評論家ナリ |
(少壮有為ノ学者)として 大河内一男 帝大助教授(政経戦) |
海軍協力者、頭脳優秀。1939年の平賀粛学事件で講義辞職しているが撤回復帰。「総力戦体制下の政策を前提として
生産力的観点から非合理性を指摘するなどの批判的提言を行った」生産力理論の
論客。『戦
時社会政策論』(1940) |
高
山岩男 京大助教授(思想戦) |
こうやま・いわお(1905-1993)海軍大学校研究部協力、京大方面国防研究会ノ若手ノ中心ナリ |
板
垣與一 商大助教授(経済戦) |
いたがき・よいち(1908-2003)。海軍嘱託、南洋研究ノ「テー
マ」ヲ有ス |
武
村忠雄 慶大教授(政経戦) |
海軍協力者、海大研究部ニ協力シ相当総力戦的研究深シ |
仲
小路彰(哲学史学)(思想戦) |
なかしょうじ
あきら(1901-1984)戦争文化研究所ノ頭脳的中心、天才的頭脳ヲ有ス。※戦争文化研究所は出版人の
今藤茂樹が創設した世界創造社にあった出版名義のための団体。仲小路はスメ
ラ学塾(→すめらは、シュメールので皇を当て字にあてる誇大妄想思想)を主宰。 |
天川勇
海軍省嘱託・海大嘱託(思想戦) |
太平洋戦略ノ学者的研究者トシテ且総力戦研究者トシテ海軍ヨリ推薦至当 |
小
島威彦 国民精神文化研究所所員(思想戦) |
こじま・たけひこ(1903-1996)以前ハ高嶋辰彦陸軍大佐卜共ニ戦争文化研究所ニテ総力戦
研究、現在ハ海大研究部ノ協力者、末次大将系。高嶋辰彦『総力戦に就いて』
湘風会パンフレツト ; 第1輯,1938 |
山
本峰雄 航空研究所所員、海軍嘱託(航空) |
やまもと・みねお(1903-1979)技術者トシテ少壮優秀ノ学者ナ
リ、総力戦研究所二必要ナルベシ |
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