はじめによんでください

  聖なる音:現代フィリピンのカソリック典礼音楽

The Sound of the Sacred: Catholic Liturgical Music in Contemporary Philippines 

池田光穂

☆ Rolan Ambrocio, The Sound of the Sacred: Catholic Liturgical Music in Contemporary Philippines. pdf の邦訳、プロジェクト

https://navymule9.sakura.ne.jp/sacred_music_philippines.html

はじめに

本論文は、現代都市オロナガポにおける典礼音楽文化に関する民族誌である。本論文では、都市部の現代フィリピン人カトリック教徒におけるカトリック典礼音 楽を探求する最初の参考資料として、3つの異なる教区から3つの聖歌隊を選んだ。私は、実証済みの参与観察に加えて、多民族誌的アプローチも用いて、教区 聖歌隊のメンバーの音楽制作を取り巻く社会的な現実について、豊富な情報を提供している。

オロナゴは小さな都市だが、文化、近代性、そして公的な宗教実践が交差する活気ある場所である。 市内各所に約9つの教区と68近くの小さな礼拝堂があり、これらは互いに徒歩圏内にある。この研究で対象とした教区は、都市文化のダイナミズムと対話を続 ける、ダイナミックで活発な典礼音楽文化の代表例である。カトリック教区における典礼音楽文化を探求することは、ある意味では挑戦である。なぜなら、音楽 制作は、すべてのカトリック教区が実践する典礼儀式の中で行われるからだ(McGann 2010)。そこで私は、「音響的共同体」1の概念を援用し、各教区における典礼音楽の制作を理論的に区別する(Truax 2013)。この概念によれば、各教区は独自の「音響的領域」を占めており、その領域では、類似性が感じられるにもかかわらず、独自の「音楽演奏」 (Small 1998)が行われる。

各教区は、社会や文化の文脈における価値観、考え方、行動を通じて形成された独自の音響的特徴と美的感覚を持っている(Nketia 1984, 22)。したがって、各音楽はそれぞれの文化の文脈の中で研究されるべきであるという民族音楽学の原則は、音楽の美的側面を研究する際にも当てはまる(同 書、3)。さらに、音楽の美学は、音楽制作者が行う音楽の選択とその背景にある考え方を別の角度から見るのに役立つツールである。これにより、民族音楽学 者は、音楽の構造機能分析に限定されない調査ツールの拡張が可能になる(同書、24ページ)。このように、典礼音楽の慣習を美学的に考察することは、音で 表現された現代のフィリピン・カトリック教について、独特かつ説得力のある見方を提供する。

フィールドに入る

2016年から2018年にかけて、私は3つの異なるカトリック教区で予備的なフィールドワークを行い、2018年にはより綿密な調査のために再び現地を 訪れた。しかし、社会生活の現実を考えると、私が2018年に再び訪れたときから、これらの教区はかなり大きく変化しており、今も変化を続けている。私が 調査した聖歌隊のメンバーは14歳から32歳まで。最年少は高校生だった。彼らは、伝統的なスタイル、現代的なスタイル、ポップなスタイル、そして俗語に よる聖歌の音楽など、通常の教会では決して行わないような音楽的ポジションの練習をしている。最も重要なのは、私の研究が始まった当時、これらの聖歌隊 は、異なる教会に所属しているにもかかわらず、キリスト王の祝日、叙階式、聖油祭など、カトリックの年間行事の際には互いに協力し合っていたということ だ。これらの集まりでは、他のジャンルの音楽の中で特定の音楽的実践が強調される。

私自身はカトリック聖歌隊のメンバーとして育ち、各カトリック教区聖歌隊のメンバーとの社会的・宗教的背景のおかげで、各教会の音楽的実践を観察する貴重 な機会を得ることができた。私の研究は、かつてこれらの教区で聖歌隊員として、そして最終的にはオルガン奏者として奉仕していた場所への強い親しみによっ て強く推進されている2。そして、教区の音響的な領域をよく知っているため、私は「初心者が解読できない音の微妙な違い」(Truax 2013, 76)の多くを解読することができる。伝統的な民族誌学の観点から見れば、私が研究場所として選んだ場所は、確かに民族誌学の慣習や基準に挑むものであ る。 フィールドサイトへのアクセスは比較的容易かもしれないが、都市部での研究はそれでも容易ではない。先住民社会に見られるような緊密な社会集団を対象とし たフィールドワークとは異なり、私の調査対象者の移動性の高さや、各社会集団の異質な文化的背景は、アクセスや調査の遂行を非常に困難なものにしている (Stock and Chiener 2008, Araujo 2009)。

私は、通常の教会の出席者としての立場と、聖歌隊のメンバー、さらにはオルガン奏者としての立場の両方から、これらの音楽的慣習を探求しようとした。聖歌 隊の音楽家の多くは非常に移動が多い。そのため、私はほとんどの場合、柔軟かつ機動的である必要があった。この場合、従来の民族誌学的アプローチは私の目 的にとって限界がある。そこで、私は状況に合わせて、ヨーヨー・フィールドワーク(Wullff 2002)やマルチサイト・アプローチ(Marcus 1986, 1995)として知られるより現代的なアプローチを採用した。私は彼らのリハーサルや、教区を超えた音楽活動、音楽や音楽以外の集まりにオブザーバーとし て、時には自ら演奏者として参加していた。そのため、私はこの都市の教区の一つを拠点としながらも、典礼の祝祭や聖歌隊の練習、教区会議を観察するため に、常に他の教区へ通っていた。また、カヴィテ、ブラカン、パンパンガ、トゥゲガラオ、ビガンにも足を運び、教区外の合唱団との共演も数多くこなした。 音楽家たちが近隣の都市や地域を移動するにつれ、その移動自体が私の研究対象となった。 このような方法論的な柔軟性により、彼らの選曲における美学的特質を内面から理解することができた。

私のフィールドワークの目的は、各教区を音響的コミュニティとして探求することで、典礼音楽の演奏における観察可能な特性を探求することである。しかし、 音楽という美的実践には、各教区で見られる音楽制作の美的描写を超えたアプローチが必要であり、各教区の音響的特徴を形成した社会的要素の検証も必要であ る。これに加えて、私はマックダガル(MacDougall 2006)が用いた社会的美学の概念も私のアプローチに取り入れている。

この研究で取り上げた教区のリトリアル音楽のレパートリーは、オロナガポ市以外の他の教区でも歌われているため、完全にその教区独自のものではない。しか し、マクドゥガルが主張するように、美は社会的であり、「主に内面化された目に見えない共同体史を物理的に具現化する対象や慣習」から構成される(同書、 5)。したがって、マクドゥガルが提案する方法で典礼音楽の美学的な側面を調査することは、人間と物質的環境の相互関係と相互形成を研究することを意味す る。言い換えれば、音楽の美学とは、物質的に形成された音響的対象である。

オロナゴ市のカトリック

オロナゴのカトリックは、スペインによる征服にその歴史的ルーツがある。1884年にスペインに占領された後、1901年にアメリカの海軍基地となった。 長い年月を経て、この地域はフィリピン政府に返還され、1959年12月7日、カルロス・P・ガルシア大統領による大統領令第366号により、自治体と なった。1966年、オロナゴはアメリカ海軍基地に隣接する市となった。オロナゴの都市圏は、ザンバレス州とバターン州の間に位置する市である。

オロナゴ初の教会はサン・ロケ礼拝堂と呼ばれ、1920年に建てられた。しかし、スペイン占領時代には、スペイン兵や移民のカビテノスの精神的なニーズに 応えるために、スペイン門の近くにスペイン人宣教師が建てた礼拝堂が存在していた。3 日本軍の爆撃により街が廃墟と化すまで、聖週間の行列やサン・ロケの祝祭といった行事を通じて、カトリックは生き生きと息づいていた。

米国は、日本からの解放直後にオロナゴを接収し、1951年に海軍基地へと転換した。古いサン・ロケ教会は、エキュメニカルな礼拝堂に改装された。カト リックの慣習は、ペンテコステ派、バプティスト派、プロテスタントなどの他の宗派と共存し始めた。同年、オロナゴのカトリック教徒たちはサン・ロケ祭を復 活させた。他の宗派が礼拝堂を占拠していたため、彼らはマニラ大司教区に、自分たちの伝統を完全に実践できるよう、教区司祭と新しい教会を建設するよう要 請した。そして、その要請は受け入れられた。

1951年、聖コロンバン宣教会(コロンバン神父会としても知られる)がオロナガポにやって来て、いくつかの教区を設立した(付録A参照)。教会や小さな 礼拝堂のほか、コロンバン神父会はいくつかの学校も設立した。コロンバン神父会の存在により、バターン州にもザンバレス州にも属さない都市であるにもかか わらず、オロナガポはザンバレス州イバ教区の一部となった。しかし、2000年の初頭、すでに高齢となっていたコロンバン神父は、オロナガポの教区をフィ リピン人司祭に譲った。オロナガポには長いカトリックの歴史があり、カトリック信者が多い都市であるが、他の宗教も存在している。カトリックに次いで信者 の多い宗教は、イグレシア・ニ・クリストである。

この都市における宗教的慣習の成長と並行して、この都市に「罪の街」という異名を与えるような道徳観の変化も進んでいる。売春は、この都市の主要な商品で あり、収益源となった。米軍兵士と行動を共にする「グッドタイムガール」は、オロナゴで日常的に見られる光景である。地元の人々と並置されることで、売春 はごく普通で受け入れられる光景となり、それ以来、この街のアイデンティティの一部となっているだけでなく、音楽制作の一部にもなっている。

オロナガポの典礼音楽家

オロナガポは、世俗と宗教が融合した独特な街である。その理由の一つとして、この街にはザンバレス州全体で最も多くのカトリック教会区がある。さらに、街 の中心部や郊外を問わず、さまざまな場所に小さな礼拝堂が次々と増えている。4 しかし、その数では、オロナガポ一帯に広がるバーやナイトクラブの数をカトリック教会区や礼拝堂は上回っている。

オロナガポは売春街以外の何物でもない、と簡単に考えてしまいがちだ。しかし、実際には、アメリカ人との交流を通じて、オロナガポの人々の間には多くのポ ジティブな文化的変化が起こっていた。ナイトクラブ、レストラン、ホテル、そしてアメリカ人兵士たちに休息と娯楽を提供する多くのイベントは、音楽エン ターテイメントを提供するミュージシャンたちにとって安定した活躍の場となった。オロナガポではバンドシーンが非常に活気づいていた。私が10代の頃、友 人たちとバンドを結成し、オロナゴにある多くの施設の一つで演奏していた。多くの自活学生にとって、バンドで演奏することは、大学に通うための十分な経済 的な収入源となった。私自身を含め、これらのバンドミュージシャンの多くは、カトリック教会でも演奏している。教会は、カジノ、クラブ、ホテル、娯楽施設 で見られるような音楽的美学が決して場違いではない、もう一つの音楽会場となっている。

カトリックのミサ以外にも、カリスマ的な祈祷会もあり、エンターテインメント施設で演奏するバンドミュージシャンたちにとって、音楽制作に最適な場所と なっている。では、「罪の街」の俗悪な文化はどこから始まり、どこで終わるのか?そして、増え続ける礼拝堂に祀られた神聖な文化はどこで始まり、どこで終 わるのか?カトリック教会はナイトバーやカジノと隣り合わせにあるため、神聖と世俗を隔てる境界はもはや認識できない。 このような社会宗教的状況を背景に、私はオロナガポの3つのカトリック教区における典礼音楽の慣習を調査し、音が神聖なものとなる過程を探求する。

現代オロナガポにおける聖なる音

聖ヨアキムと聖ハンナの教区で典礼の中で最も一貫して演奏されている音楽ジャンルは、聖ウルスラ教区が聖歌とラテン語に支配されていることを除けば、私が ここで「典礼ポップ」と呼ぶものである5。聖ヨアキムと聖ハンナの教区は、1950年代初頭に建設されたこの都市で最も古い2つの教区である。

両教会は市の中心部に位置しており、バンド・ミュージシャンの活動的なメンバーたちが生活し、働いている。地理的には、この2つの教会はさまざまな商業施設、学校、レジャー施設、ショッピングモール、市場に囲まれている。

私が10代の頃、私はバンド・ミュージックを演奏するグループの一員として、毎週末彼らと一緒に演奏していた。彼らと一緒に音楽を演奏するのは、レストラ ンやレジャー施設だけに限られていたわけではない。私たちは毎週日曜日にカトリック教会でも演奏していた。フィールドワーク中、彼らの多くは現在も聖ヨア キムとハンナの教区で活動しており、音楽奉仕部のリーダーを務めている。これらの教区に戻ってくることは、ある意味、故郷に帰ってくるようなものだ。私が これらの教区で演奏した曲の多くは、今も聖歌隊によって歌われている。しかし、その音楽に精通しているにもかかわらず、かつてこれらの教会で演奏していた 音楽の感覚的な体験はもはや同じではない。音はよく知っているが、感覚的にはまるで他国から来たばかりの旅人のような気分になる。サン・ヨアキムとサン・ ハンナのカトリック教会では、毎週日曜日に約6,000人がミサに参加する。毎週日曜日に何種類ものミサがあるため、祝祭日を除いてミサの時間は1時間弱 である。教区が運営する学校の生徒を中心に、若い人が多く参加している。聖ヨアヒムの聖歌隊は大人たちで、聖ハンナの聖歌隊は主に10代の若者たちで構成 されている。 私が若い頃に一緒に演奏していたJerzaとMicaが、この2つの教区の聖歌隊を率いている。Jerzaはベースギターを弾いていたが、現在はオルガン 奏者兼聖歌隊指揮者となっている。一方、Micaは今もドラムを演奏している。

教会の空間は、ステンドグラス、天井画、ろうそく、画像、十字架などの儀式用の装飾品で飾られている。教会には長椅子、椅子、テーブルが備え付けられてい る。聖ヨアヒム教会は最近、よりミニマルなスタイルから、より伝統的なカトリック建築とデザインへと改装されたばかりだ。聖歌隊が歌う場所を含め、教会の デザインの大半は変わったが、オルガン奏者の私の時代と変わらない部分もまだ多く残っている。

聖ヨアヒム教会と聖ハンナ教会の教区では、信者はほとんどの場合起立している。式典中には、信者たちがひざまずくように促される場面もある。教会の奥で 立っている人々は、聖人の像にろうそくを灯さない限り、式典の間中ずっと立っている。式典の最中、歩き回って写真を撮ったり、メールを打ったり、おしゃべ りをしたりする人もいる。

教会は、参列者に教会内では静かにし、中央通路を通る際には厳粛に一礼し、適切な服装を心がけるよう呼びかけ、厳粛な雰囲気を保つよう努めている。しかし、厳粛な礼拝を求める教会の呼びかけに従う人はごくわずかであるため、こうした努力は無駄に終わっているようだ。

聖ヨアキムと聖ハンナの典礼では、聖歌隊は一般的にマノリング・フランシスコやエドゥアルド・オンティベロスといったイエズス会の作曲家の音楽を使用して いる。また、時にはライアン・カヤバヤブの音楽も使用する。両教区の聖歌隊は、教会の聖歌隊席で歌う約15人から23人で構成されている。また、オルガン の音色を引き立てるために、ドラムやシンバル、エレキギター、タンバリン、チャイムなどの楽器も使用される。しかし、音響的には、適切な増幅装置がないた め、聖歌隊の歌声が非常に聞き取りにくく、歌うのがかなり難しい。これらの音響要素は、私が何年も前にここにいたときには気にならなかったし、気にならな い。私は長い間、異なる音響環境の中で暮らしてきたため、この教区特有の音響特性を再学習し、それを完全に自分のものにするには、おそらく時間を要するだ ろう。

聖歌隊の歌声は、レパートリーに含まれるポピュラーな音楽に非常に適している。聖歌隊は男性の歌声に支配されている。メロディ的には、彼らが歌う入場賛美 歌は常に長調である。旋律は主にステップ状で、時折スキップする。和声伴奏も、クロマティックな転調を多用しないため比較的演奏しやすい。選曲には、人々 を歌に参加させる意図がある。しかし、祝祭の間、聖歌隊は増幅装置を使用していないにもかかわらず、教会の音響を支配している。

聖ヨアキムと聖ハンナの教区で典礼の場で聞こえる音は、聖歌隊や楽器から出る音だけではありません。人々は互いに会話を交わし、携帯電話の着信音が鳴り響 き、教会のすぐ外を走る三輪車やその他の車の音が聞こえ、騒がしい子供や泣く赤ん坊の声が響きます。しかし、静かにしようとしている人々も大勢います。こ の音は、聖歌隊、その他の楽器、オルガンの音と重なり合い、カトリックの典礼パフォーマンスを多層的にしている。

聖ヨアキムと聖ハンナの教区では、一般的にポップスタイルの音楽が使われているが、伝統的な典礼音楽も完全に排除されているわけではない。 フィールドワーク中のある日曜日に、聖歌隊がシンプルな聖歌「ハレルヤ」と「アーメン」を歌うのを聞いた。聖ヨアキム教会と聖ハンナ教会では、四旬節と待 降節のシーズンに聖歌が盛んに歌われる。このシーズンは、楽器の使用が何らかの形で抑制され、典礼の季節における悔恨の性格を表現すべきである。

ジェズラとミカは二人ともバンドのミュージシャンだったが、四旬節と待降節のシーズン以外でも、可能な限り伝統的なカトリック典礼音楽を取り入れたいと考 えていた。これは、別の司祭が式典を司式していたため、オルガニストに「アレルヤ」と「サンクトゥス」を聖歌バージョンに変更するよう指示したことから明 らかになった。ミサの後、彼は礼拝委員会の委員長に呼び出され、音楽を勝手に変更したことを叱責された。7 この出来事の数か月後、聖ヨアヒムの聖歌隊は、聖ハンナの聖歌隊とともに、イバ大聖堂で行われたミサで聖ウルズラ教区聖歌隊と合同で歌った。レパートリー は、伝統的なラテン語の賛美歌とグレゴリオ聖歌から構成されている。これが、3つの教区聖歌隊のコラボレーションの始まりとなった。異なる教区に属してい るにもかかわらず、多くのカトリック信者にとって時代遅れとみなされている音楽ジャンルによって、彼らは結束している(Meyer 2010)。

イバの厳粛な就任式に向けたリハーサルの準備中、3つの異なる聖歌隊は、白いロングの聖歌隊用ローブと、音楽がきちんと整理された黒いバインダーを携えて いた。私が参加した数回の練習で歌われていた音楽のジャンルは、聖ウルズラ教区で聖ヨアヒムと聖ハンナの聖歌隊が毎週日曜日に歌うような音楽ではなかっ た。賛美歌の入りは、日本人作曲家である佐藤賢太郎によるラテン語のテキスト「Laetentur Caeli(訳:天に喜びあれ)」の編曲だった。また、女性声と男性声だけの音楽もあった。練習中のほとんどの曲は、ラテン語と俗語で歌われる聖歌だっ た。

練習は聖ウルスラ教会のオルガニストが指揮し、オルガニストは聖歌の応答歌も担当していた。聖ウルスラ教会の聖歌隊が練習を主導し、他の教会の聖歌隊を辛 抱強く指導していた。それは非常に集中した、忍耐強い共同作業だった。聖歌隊の練習は数時間に及んだが、厳粛な就任式のために用意されたレパートリーを、 聖歌隊員全員が楽しんでいるようだった。聖歌隊の練習はついに終わった。聖歌隊は、自分たちの儀式で歌う音楽のジャンルが音響的に占めている自分たちのコ ミュニティに戻る。それは音楽の客観的な質を超えた、社会的美学によって形作られ定義されたジャンルである。


The Aesthetic of the Sacred in the Parish of St. Ursula
聖ウルスラ教区における神聖さの美学

聖ウルスラ教区は、1960年にバターン州との州境に位置するオロナガポ市の郊外に設立された。カリスマ的祈祷集会で最も活発な活動を行っている教区の一 つであり、エル・シャダイの最大のコミュニティがあることで知られている。コロンバン宣教師の時代には小さな礼拝堂として始まり、1980年代前半に教区 となった。教区内の人口は少なく、毎週日曜日に教会を訪れる教区民のほとんどは、互いに顔見知りのショッピングモールで働く家族たちである。このコミュニ ティは、オロンガポ市内の他の教会と比べると、かなり小規模である。実際、私が若い頃は、この教区に行く機会がなかった。なぜなら、この教区は、都会の生 活のあらゆる良いものから少し隔離された場所にあるからだ。しかし、この教区に所属する聖歌隊は、イバ教区内の多くの教区聖歌隊に影響を与え、伝統的なカ トリック典礼音楽をレパートリーに取り入れるきっかけとなった。

聖ウルスラ教区は、非常に質素な雰囲気とデザインのため、しばしば古い教会と間違えられる。祭壇の調度品は非常に質素で、凝った装飾はない。しかし、この 教区で際立っているのは、2年前に建てられた祭壇の柵である。また、絵画やフレスコ画もない。凝った装飾や装飾が施された壁もない。教会にはシャンデリア もない。古い礼拝堂から移設されたステンドグラスの窓はごくわずかしかない。何よりも、教会の改修に必要な資金が不足しているため、教会の壁は全体的に塗 装されていない。

ほんの2年ほど前、長年この教区で牧師を務めていた人物が、ミサを「アド・オリエンテム」8で行うことを決めた。典礼の方向性が変わったことで、教区コ ミュニティの音楽活動も変化した。それ以来、数十年間にわたって教区で演奏されてきた音楽は、ラテン語の賛美歌やラテン語と俗語で歌われる聖歌に置き換え られた。ドラムやエレキギター、ダンスが典礼の中で禁止されたため、教区コミュニティ内に不安と緊張感が広がった。どうやら、エル・シャダイとカリスマ派 のコミュニティの音楽家たちは、自分たちの祈祷会で賛美と礼拝の音楽ジャンルに強く執着しているため、この変更を真っ先に拒否したようだ。しかし、音楽の 変革は徐々にこの教区の典礼実践に浸透していった。

この教区におけるカトリックの慣習の多くの変化の中で、第2バチカン公会議後に廃れてしまったカトリックの慣習である礼拝堂ベールを着用することが挙げら れる。しかし、この礼拝堂ではベールを着用する女性が増えている。さらに、この教区では聖体拝領の際にひざまずくことが習慣となっている。これらを含め、 この教区には非常に伝統的なカトリックの雰囲気が漂っている。服装については、この教区ではミサに参加する際、セミフォーマルな服装で出席することが多 い。聖ヨアキムと聖ハンナとは異なり、人々は非常にカジュアルな服装で、聖歌隊を含め、半ズボンやミニスカートで出席することもある。しかし、聖ウルスラ 教区では、聖歌隊は教区内外を問わず、ミサで奉仕する際には厳格なドレスコードに従わなければならない。聖ウルスラの聖歌隊は2枚の衣服を着用する。1つ は、アルブと呼ばれる袖の広い白い長衣、もう1つは、アミーチェと呼ばれる長いロープの付いた長方形の布である。

聖ウルスラ聖歌隊は、ミサのたびに教会の脇に集まり、聖歌隊用のアルブを着る。聖歌隊のリーダーが皆を導いて聖歌隊の聖服の祈りを唱える。その後、聖歌隊 は整列し、聖歌隊席まで行進する。2人ずつグループになって聖歌隊席に入り、互いに敬意を表してひざまずき、お辞儀をしてから席に着く。 リーダーが聖歌隊席に入るとすぐに、聖歌隊はひざまずいて祈りを捧げた後、ミサで奉仕する。 そしてミサが始まるまでの間、聖歌隊席も一般の席も、全員が静かにしている。 ぶつぶつ言うことも、携帯電話の音も、おしゃべりも、車の音も一切ない。皆、ミサが始まるのを静かに待っている。そして鐘が鳴る。ミサが始まったのだ。

聖歌隊は立ち上がり、グレゴリオ聖歌の旋律にのせて、その日に捧げる祈りの言葉を歌う。聖歌隊の歌は俗語である。最初の節を歌った後、聖歌隊の指揮者が短 い節を歌い、聖歌隊がそれに続く。聖ヨアキムと聖ハンナのような教区で通常行われるように、その日の祈りが入場賛美歌の代わりに歌われる。ミサ・デ・ガロ では、しかし、俗語による賛美歌はラテン語の賛美歌「Veni, veni Emmanuel」に置き換えられる。

開会の祈りが終わると、司祭は人々を導き、キリエ・エレイソンをコール&レスポンス形式で歌い、最終的にグローリアへと導く。その後、通常の聖書の朗読が 続く。最初の朗読の後、オルガンが詩篇の応答の最初の音高を奏でる。 カンターは楽器の伴奏なしで応答を歌う。 カンターが歌い終わると、オルガンが合図の音を奏でて、聖歌隊と会衆に歌うよう促す。 この教区では、カンターは常にアカペラで節を歌う。 詩篇の応答の後、第2朗読とアレルヤの歌が続く。

2回目の朗読が終わると、聖歌隊が2番目の聖歌の旋律を歌うのに十分な音程で演奏する。11 その後、オルガンが音程信号を発し、聖歌隊と会衆がアレルヤを歌うことができるようにする。 聖歌隊がその日の聖句を歌い、その後、全員が再びアレルヤを歌う。そして、司祭が福音の前に通常、同じ音程で賛美歌を歌う。他のカトリックのミサと同様 に、説教が続き、その後献金行列が行われる。今日の献金賛美歌は、ランビロット神父作曲の「Panis Angelicus」で、聖歌隊が歌う。フィールドワーク中、聖歌隊が SATB 形式でこの賛美歌を歌うのを何度か目にした。しかし、この日の賛美歌は女性聖歌隊のみが歌う。また、聖歌隊が、ポピュラーなジャンルの俗語による献金賛美 歌を歌うことも何度かあった。

献金賛美歌が終わると、司祭と会衆がコールアンドレスポンス形式で歌い、最後に俗語による「主の祈り」を歌う。聖体拝領式全体を通じて、司祭、聖歌隊、会 衆はマリア賛美歌が歌われる聖体拝領へと続く祈りの詠唱に参加し、人々は黙祷を捧げる。その後、司祭は会衆に起立し、最後の祈りや祝福を捧げるよう促す。 聖ウルスラでのミサは、最後の賛美歌を歌うことで終わるわけではない。むしろ、司祭が祭壇を去る際にオルガンが独奏を奏でる。司祭が最後の敬意を表した ジェスチャーをすると、聖歌隊は2列になって聖歌隊席を後にする。彼らは無言で歩き、教会の脇で最後の聖歌隊員が列に加わるのを静かに待つ。全員が整うと すぐに、聖歌隊のリーダーが「主の名をたたえよ」と言う。そして聖歌隊は「今も、そして永遠に」と唱和する。そして全員が互いに一礼しながら「父なる神に 栄光あれ」と唱和する。彼らはアルバを外し、静かに教会へと向かった。

 

要約

本稿は、現代のフィリピンにおけるカトリック典礼音楽の演奏慣習に関する予備的な民族誌的考察である。私は、オロナガポ市の3つの異なる教区でのフィール ドワークで収集したデータを基に研究を行った。音楽制作についてより深い理解を得るために、いくつかのイベントに参加し、記録した。私は、能動的な参加者 としても観察者としても、集中的にメモを取った。また、両方のニーズを満たすために、異なる方法論的アプローチも用いた。民族誌学的には、現代的なアプ ローチと「社会的美学」の概念を参加の方法として用いた。民族音楽学的には、美学を社会的と捉えることは、歴史的経緯が音楽の認識や経験にどのような影響 を及ぼすかを理解する上でも有用である。したがって、カトリックの典礼音楽が神聖なジャンルとされるのは、音楽そのものの客観的な特性だけに依存している わけではない。むしろ、社会的・宗教的環境がどのように融合し、音響的コミュニティを形成しているかを理解することが重要である。音楽が広まった歴史と社 会的空間は、音楽、演奏者、演奏場所などを定義するプロセスに大きく貢献している。ここで私が試みたように、典礼音楽の演奏は多層的であり、聖ヨアヒム教 区、聖ハンナ教区、聖ウルズラ教区における典礼音楽の聖なる体験にすべて影響を与えている社会文化的、宗教的力との絶え間ない対位法である。

最後に、典礼音楽の実践は、教会史の枠組みの中で独自に発展してきたジャンルとしてのみ捉えるべきではない。むしろ、カトリックの儀式の中で実践されている音楽でさえ、宗教的儀式の範囲外にある社会的要因によって形作られた美的パフォーマンスの産物である可能性がある。

特に大都市圏のカトリック教区は、典礼音楽文化のより広範な風景を考える上で有益である。私の研究から浮かび上がってきたのは、美的観点を通して、人気の 賛美歌と伝統的なカトリック音楽が対立する、音楽的対立のより広範な風景についての見解である。この研究で取り上げた聖歌隊の同様に多様な音楽的実践は、 現代の宗教的表現の全体像を示すだけでなく、フィリピンにおけるカトリック教のより広範な風景で何が起こっているかを考えるための窓にもなる。同時に、典 礼という極めて重要な問題については、典礼と文化の関係について、より深く、より根本的に成熟した理解が必要かもしれない。

References
Araujo, Samuel. 2009. "Ethnomusicologist Researching the Towns they Live In:
Theoretical and Methodological Queries for a Renewed Discipline."
Musicology 9:33-50.
MacDougall, David. 2006. The Corporeal Image : Film, Ethnography, and the Senses.
New Jersey: Princeton University Press.
Marcus, G. 1986. "Contemporary Problems of Ethnography in the Modern World
System." In Writing Culture: The Poetics and Politics of Ethnography, edited
by James Clifford and George Marcus, 165-193. Berkeley: University of
California Press.
Marcus, G. 1995. "Ethnography in/of the World Systems: The Emergence of Multi-
Sited Ethnography." Annual Review of Anthropology 24:95-117.
McGann, Mary. 2010. Liturgical Musical Ethnography. Challenges and Promise.
Meyer, Birgit. 2010. Aesthetic Formations: Media, Religion, and the Senses.
Basingstoke: Palgrave Macmillan.
Nketia, J. H. Kwabena. 1984. "The Aesthetic Dimension in Ethnomusicological
Studies." The World of Music 26 (1):3-28.
Small, Christopher. 1998. Musicking: The Meanings of Performing and Listening.
Hannover, New Hampshire: University Press of New England.
Stock, Jonathan, J. P., and Chou Chiener. 2008. "Fieldwork at Home: European and
Asian Perspective." In Shadows in the Field: New Perspective for Fieldwork in
Ethnomusicology, edited by Gregory F. Barz and Timothy J. Cooley, 108-124.
New York: Oxford University Press.
Truax, Barry. 2013. Acoustic Communication. Westport, Connecticut: Ablex
Publishing.
Wullff, Helena. 2002. "Yo-Yo Fieldwork: Mobility and Time in a Multi-Local Study of
Dance in Ireland." Anthropological Journal on European Cultures vol. 11,
Shifting Grounds:Experiments in Doing Ethnograpy:117-136.


8

9

10

リ ンク

文 献

そ の他の情報


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Mitzub'ixi Quq Chi'j