情報発信は研究者の至上命令!
Our mission should be a
creative agent of productive ideas for human well-being
【前口上としてのイチャモン】
まず、副題になっている「文系」というネーミングに異議申し立てをおこないたい[さいしょ授 業の企画主催者から、私は「文系の領域について話してくれ」と依頼されたのです]。
文系・理系は既存の学問領域を便宜的に類別しているたんなるラベルである(→科学文献の読解)。それぞれの学問領域の研究者には、そのような便宜的区分の両方の才能が 要求される。またすばらしい学問的あげてきた先人たちは、その両方の分野の重要性を説いてきた
(→C・P・スノー、1960『二つの文化と科学革命』松井巻之助訳、みすず書房)。
文系・理系の区別は、昔も今も、相互の学問の間を交流を妨害するレッテル(=ラベル)以上の 機能を何もはたしていない。
従来の学部や大学院のレッテルにおいて区分されてきたが、現在では総合領域や超領域という名称で、その区分を無効にする研究領域が数多くある。
ま、以上のようなことは専門の研究者には死活にかかわる重要問題ではあるが、フレッシュパー ソンである新入生諸君には、<ど〜でもいい問題>ではある。
要は、大学で優秀な成績をあげて卒業し、自分のすすみたい分野に進出してゆくことなのだ。あ るいは、自分のもった興味を深めたり、抱えている問題を解決するために、地球上にあるあまたの資源(リソース)からその手がかりを効率よく得ることなの だ。
要約:(1)文系・理系を区別する考え方は下らない(=カス)である。(→カスという用語法が気になる方はこちら)
要約:(2)大切なことは、自分の欲求を満たし役立てるために資源を利用することだ
【情報の収集】
私の専門領域は文化人類学である。文 化人類学はさらに、より細かい専門領域に分かれており、私の専門は医療や保健とよばれるものを研究対象とする医療人類学である。医療人類学が、文化人類学の下位領域である理由は簡単である。医療人類学は、いま だに文化人類学の概念枠組や方法論の中にあり、それらの発展と軌を一にするからである。
この授業は、私の専門分野における情報の入手から研究成果の発信にいたる「流通過程」につい てまず紹介することにある[→初回で配られたシラバスを参照]。
まず、このセクションでは、自明視されている「情報の収集」(なにかCIAや内閣調査室みた いですが)をなぜやるのか? ということから説明してゆこう。なぜなら、学生のみなさんには、なぜ研究者が情報の収集に血道をあげ、神経質になりながら論 文を書き、授業をそっちのけで学会で発表しているか、まったく????(=訳がわからない、雰囲気はわかるが、なぜ?という疑問が残る)からである。
しかし、そのためには、大学の先生は、それまでの学校の先生とは異なる特異な習性(=当然、 後天的な学習によるものでありDNAレベルではありえない)をもっていることをしらなければならない。
要約:大学で情報の収集と発信がうるさく教育されている理由を知るためには、大学の研究 体制と研究者の習性(無意識的な振る舞いや、ある種の考えに根ざした行動)について理解しなければならない。
【大学の研究体制と研究者の習性】
大学教官は、教師という役割以上に研究者である。教師以上に研究者であると書いたのは、大学 人は、アマチュアの人たちが到達し得ない高度な研究を、それらの知識生産に根ざした具体的な知識やそれにもとづいた技術あるいは人間行動という実践に役立 てていこうと、世間から期待されているからである。
つまり、人類の進歩と幸福に大学人は研究とその研究成果の還元を通して貢献するのである。だ から教育は、その社会還元の一つであり、大学人はまず研究という責務を果たすことが最も重要とされている。
かと言って、すべての大学人が研究に専念しているわけではない。学問の世界は厳しい。競争を 生き残るためには不断の努力が必要である。また学問研究にも流行り廃れがあるので、努力すれば報われるという単純なものではない(例:冷戦終結後のマルク ス主義経済学)。また、人間の能力やがんばりにも限界はある。3年寝太郎でもメチャすごい論文を書く人もいれば、コツコツ努力してもパッとしない研究成果 しか出せない人もいる。研究成果という結果で評価されるシビアな世界なのだ。
そのようななかでは、年齢的あるいは根性あるいはさまざまな事故によって研究成果をあげられ ない不幸な研究者もいる。ところが研究者とは、他の職業にくらべて潰しがきかない業種である。もちろん、裏道はいくらでもある。研究成果を通しての社会貢 献のハンディを、後進への教育を通して成就したり、大学運営の管理者として成功を納めるという方法もある(もちろん自分の権勢を振りまいて大学の自治の美名のもとに大学を滅茶苦茶にするゴロツキもいる)。 大学というところは、さまざまな機能的分業によって成立しているからだ。したがって、正確には研究者とはいえない者もいるが、その存在自体が大きく問題に なることは少ない。
さまざまな例外があるにもかかわらず、大学人は研究者であり、世のため人のための有益な情報 *を発信する存在であるということだ。有益な情報を発信するためには、そのような研究がいまだ他人によっておこなっていないオリジナルなものか、まだだれ も見つけたことのない発見につながるか、などをすでに発表された公開されている情報(学会誌や学術雑誌、あるいは特許申請記録など)を調べなければならな い。
現代社会におけるオリジナルな考え方とは、奇妙奇天烈な発想ではなく、その発想が何からの形 でそれに先行する発想とは異なることがわかるものでなければならないのである(これを<オリジナルな発想の変化の継続性>と読んでおこう)。
要約(1):大学教官は、教師以上に研究者であることを社会的に求められている。
要約(2):研究者の責務は人類に有益な情報を提供することであり、有益な情報を生産す るためには、それに先行する情報収集が不可欠である。
【情報発信を学ぶ真の正当性はあるのか】
それでは、なぜ学生であるみなさんが、情報発信しなければならないのか、あるいはそのような 大学の研究者のような教育を受けなければならないのだろうか。
それは、大学教育のシステムとは、大学の知識生産のパターンを学生に学ばせるという側面を 持っている。教師が研究者であるならば、学生はそのミニチュアであるという考え方である。しかし、この発想は学生が学ぼうとする際に何ら根拠をもたない し、それが強制力として発揮すれば害毒にさえなりかねない。
そのために大学人が苦肉の策としてもってくるのが、「このような知識生産は、みなさんが大学 を卒業してからも、その教養つまり有意義に生きるために役に立ちますよ」という説得である。これは、学生にとって比較的受け入れやすい考え方である。もっ とも、これが正当化されるためには、大学人が教える知的生産の方法が、人間の生活全体を豊かにするための個々の方法に共通するような汎用性があることが不 可欠である。だが、これも結構苦しい説明ではある。レポートを論理的に書く方法を学んでも、社会に出たときに良識ある有権者の一人として選挙行動に冷静な 判断を下せるようになるのか?、安く多めに買った大根を家族全員で美味く料理できるのか?ということには、こりゃ、相当開きがあるのだ。
というわけで、レポートを教師が喜ぶように書けても、それがすぐに自分のために役に立つとい うような即効性は期待できないようだ。もっとも、このパターンで成功すると、だいたい大学教官とは、レポートが合理的に書かれてあったり、しっかりと情報 が収集されていたり、また問題に対するモラルコミットメントと学問上の議論がバランスよく配分されてあれば、高得点を学生につけるものなのだ(→それには ずれる例外的な教官は、ノイズとして切り捨て学生はあきらめるか、大学学部や学長あるいは苦情相談の部局に訴えて将来の学生のために改善要求を出す)。 [→無能な大学教師発見法へのリンク]
ということは、上手にレポートが書ければ、長期にわたる人生にはさほどよい効果を与えるわけ ではないが、すくなくとも大学における勉学生活はスムースにいくというわけである。
要約:学生が上手に情報発信できる技を大学で身につけることは、人生の長期にわたる幸せ をもたらすような効果はないかもしれないが、大学での勉強がスムースにゆき、またよい成績で大学を卒業することができる。
補足説明:文系と理系の犬猿の仲について
■"I believe the intellectual life of the whole of western society is increasingly being split into two polar groups.... Two polar groups: at one pole we have the literary intellectuals, who incidentally while no one was looking took to referring to themselves as 'intellectuals' as though there were no others." (Snow 1961:4)
■"Literary intellectuals at one pole-at the other scientists, and as the most representative, the physical scientists. Between the two a gulf of mutual incomprehension-sometimes (particularly among the young) hostility and dislike, but most of all lack of understanding. They have a curious distorted image of each other. Their attitudes are so different that, even on the level of emotion, they can't find much common ground. Non-scientists tend to think of scientists as brash and boastful." (Snow 1961:4-5)
■"On the other hand, the scientists believe that the literary intellectuals are totally lacking in foresight, peculiarly unconcerned with their brother men, in a deep sense anti-intellectual, anxious to restrict both art and thought to the existential moment." (Snow 1961:5-6)
■"It was through living among these groups. and much more, I think, through moving regularly from one to the other and back again that I got occupied with the problem of what, long before I put it on paper, I christened to myself as the 'two cultures'."(Snow 1961:2)
■最初のクレジット:知的
生産学入門:学術情報の収集と発信:文系:今回のテーマは、情報発信は研究者の至上命令!【学術情
報の収集と発信:知的生産学入門】
リンク
文献
・Snow, Charles Percy (2001) [1959]. The Two
Cultures. London: Cambridge University Press.
その他の情報
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