「医療と文化」について考えよう
Thinking Medcine & Culture: Notes for a Intellectual History of the Modern Medicine
池田光穂
1.はじめに——日本の近代医療のはじまり
本日は歴史と伝統のある「日本消化器病学会」の第89回総会、特別講演にお招きいただき、大変光栄に存じます。はじめに大会会長である藤 原研司(ふじわら・けんじ)先生、司会の労をとってくださる沖田極(おきた・きわむ)先生をはじめ、総会事務局ならびに消化器病学会の会員の方々に御礼申 し上げます。
この学会は、創立100有余年の歴史と2万8千人の会員を有し、消化器病学の向上と発展に寄与した学術研究団体であると聞いております。 明治26年ドイツ留学から帰国した5年後の1898年に長与称吉[長與稱吉:ながよ・しょうきち, -1910]を創設者に胃腸病研究会として発足し、その4年後の1902年に学会へ発展し、歴史を積み重ね今日のような日本を代表する医学会のひとつに なったそうです。長与弥吉の父は長与専斎[ながよ・せんさい, 1838-1902]で、今日の近代日本の衛生行政機構の確立者として後世に名をとどめておりますし、称吉の弟である又郎[またろう, 1878-1941)は、のちに伝染病研究所の所長、東京帝国大学総長を歴任しております。称吉の年少の弟は岩永家に迎えられ戦前の巨大通信社である同盟 通信社の初代社長になりました。
このようにみると日本消化器病学会の設立とその同時期の人々は、まさに日本の近代医療や情報通信の基礎づくりの作業に関わった人たちであっ たと言っても過言ではありません。長与専斎らの世代を近代医療の導入期のパイオニアだとすれば、彼の息子たちの世代はそれらの先駆的な試みを、具体的な国 家計画の枠組みに沿いながら、近代合理的に社会に適合させてゆこうと努力しました。
この近代の合理化のプロセスは、のちに彼ら自身も飲み込まれることになる近代戦争体制のなかで、今日的価値からみると歪(いびつ)な問題の 多い医療倫理上の問題を引き起こしました。しかしながら、敗戦後、連合国による、日本の公衆衛生改革や医療制度に対する介入は、さまざまな文化的な衝突を 経験するものの、概ね国内の保健衛生という観点からは、戦前からの国家プログラムを合理的に継続発展させてゆくことになりました。戦後の医療の民主化をめ ぐる国内のさまざまな論争や議論は、医療サービスに投下する資源の配分をめぐるものであって、戦前の第二世代の人たちが引いた、医学的知識の発展と医療の 合理的進展というプログラムを基本的に推進してゆくことに変わりはありませんでした。
1968年の医学部処分問題に端を発した東大闘争などでは、大学病院の医局講座制が批判されました。これは医療を担う医師たちのこれまでの 近代的再生産のシステムに対するほとんど歴史上はじめての異議申し立てでした。しかし、翌1969年の法律第70号、すなわち5年間の臨時措置法で、その 期間一度も適用されることのなかった「大学の運営に関する臨時措置法」の施行以降、大学紛争そのものが沈静化していきました。医局講座制の見直しは、21 世紀になってようやく医学教育体制の抜本的改革という観点から、すなわち今度は学生からではなく、大学内部や医学教育を管理する国家の側から提案され、医 学部では徐々に受け入れられつつあります。
◆ 外科的想像力
このような事態の是非や社会的意義については今後、新しい医師たちの活躍の結果や運用の事後評価を通してやがて明らかになってくるでしょ う。もちろん医療の科学的運用に関する社会的問題や、マンパワーとしての医師の処遇にも多くの社会的改革課題があることも事実です。むしろ問題は山積して いると言っても過言ではありません。本総会の理念である「新しい医療の創造をめざして」というスローガンは、ほんの数年前であれば、近代医療の過去100 年間の成長と発展の神話を補強するためのテーマとして唱えられたでしょう。しかしながら、確実に言えることは、今日この「新しい医療の創造をめざして」と いうテーマを考えることは、抄録集において藤原会長が述べられたように、私たちが直面する近代医療の姿が、内部的にも外部的にも大きく変貌を遂げる時に は、これまでとは全く異なった独自の社会的意義を持ちはじめることであると思います。
2.「我々が信じている医療が正しいと言える根拠は何か」
私のお話は、このような時代の大きな転換期において、医療と文化の関係について考えてきた私の専門分野である医療人類学という立場からみ た、近代医療についてのささやかな考察です。それは結論から先に申しますと、近代医療とは、自分たちのおこなっている医療が同じ時間性と永続性を共有して いると思われる時、それを同時代あるいは同時代的医療と仮に名付けておきますが、その時はじめて近代医療の確固とした信念が生まれ、それに付随する医療シ ステムができあがったということです。また、近代医療(modern medicine)という用語が登場する19世紀末期から20世紀初頭にかけての欧米では、近代医療とは異なった「医療」すなわち、伝統医療、古代医療、 民間医療など、今日では代替医療(alternative medicine)や補完的医療(complementary medicine)と称される医学への学問的関心が登場します。
医療人類学は、これら一連の医療に長年関心をもちつづけてきました。しかしながら、伝統医療が、いわゆる近代人の観点からみて宗教ではな く、他ならぬ「医療」と見なされるには、「医療」そのもののプロトタイプとしての近代医療の概念を自覚する必要性がありました。そのような医療をみる眼、 まなざしは、同時に自己反省的に、近代医療の成り立ち、つまり医師と患者という組み合わせのセット、治療的介入の正当化、温情的配慮と冷徹な治療の区別、 医療を社会システムとして確立する制度的枠組みの整備について、自覚を促すことを推し進めました。
このようなビジョンに私が到達するにいたった私じしんの学問的経緯について、いましばらくお話をさせていただくことになります。
さて、1981年から10年近く私の大学院生時代の指導教官であった当時の大阪大学医学部の中川米造先生は「私は大学に入り医学生になった 途端に、医学というものがわからなくなった」と、独白めいた言葉を吐きながら、授業や講演をおこない、我々学生を煙に巻いていました。ある医療被害の訴訟 の現場では次のように発言したといいます。
「私は昭和20年に医学校に入学しましたが、医学そのものについて医学校では全く教えない上に、医学の考え方が、はなはだアイマイな論 理の上に立っていることに驚きと不満をもって勉強をはじめました」(『医療的認識の探究』1975:227)。
ここでは若い医学生が医学とは何か?、という根源的不安に陥いる状況が述べられていますが、その背景にはより複雑な事情があります。中川 先生の古希のお祝いのシンポジウムの席上で先生は次のようなことを言われました。彼——私は自分の恩師をあえて彼と言わせていただきます——彼は1945 年つまり昭和20年の4月に京都帝国大学医学部に入学します。彼をパニックに陥れたのは、731部隊に関与する医学を専攻した武官が言う、「医学とは人の 病気を直すものではない。今時の戦争を遂行するためのものである」とか。「お前たち医学生は、誤って静脈注射に空気を入れることがいけないと思っている が、そのような科学的根拠を知らないだろう。だが我々は知っているのだ」と言いながら、恐らく大陸で撮影された人体実験の16ミリフィルムを上映し、数ミ リリットルの空気の静脈注射では死なず、何百ミリリットルの空気を入れた被験者が死んでゆく様子を通して教育したといいます。あるいは次のようなエピソー ドもあります。「お前たちは、人間の首を切ったら、どの角度で血が飛ぶか知っているか?」というわけで実証主義ならぬ実写が上映されたということです。血 も凍るこのような情景をその教官たちは、医学生たちに見せて「教育」していたのです。もちろん、それから4カ月後にくる日本の敗戦でこのような「教育手 法」は終わりをつげました。中川先生が受けた医学教育は、戦後の混乱期の中で受けたものですが、そのほとんどが自由でリベラルな雰囲気の中で行われまし た。むしろ、入学直後のショック療法は、中川先生を「医学とはなにか」という思索に向かわせたのです。
中川先生のゼミナールでは、「我々が信じている医療が正しいと言える根拠は何か」ということを常に大学院生たちに問いかけていたと思いま す。ただし、当時若輩者であった私は、戦前の医療はクレイジーだったのだから、比較の考量には値しないというものでした。中川先生が問いかけていた「我々 が信じている医療が正しいと言える根拠は何か」というものを、私が真剣に考えるようになったのは、私の研究調査地である中南米のグアテマラ共和国の辺境の 片田舎で、35年間の内戦に苦しめられた先住民族についての苦渋の経験談を聞き取り、それを論文に書き起こすようになった、この数年間になってからです。 そして、その時には私の恩師はこの世にいなく、すでに鬼籍に入られていました。
3.近代医療はどこから始まるのか
医療や医学という言葉は翻訳語です。しかし外来のものが翻訳される以前や以後にも、医薬の取り扱いや治療のための技術に長けた人——すな わち「治療者」——や、その人たちが担う技術体系——すなわち「医術」や「医療」——をさす固有で独特の名前が、多くの社会には準備されています。西洋で 中心的に発達してきた近代医療が、それまで普及していなかった社会に導入されると、それに対する翻訳語がすぐにできあがります。また近代医療は、いろいろ な社会への導入直後には大きな問題を引き起こしたことがあるものの、社会に完全に適応できなかったものはありません。つまり、近代医療は、それが実際に使 えるか否かは別にして、世界の多くの人たちにとって、まさに病気を治療する技術や、あるいは実践体系として認知されています。
私の最初の疑問は、このような近代医療はいつごろ認知されるようになったのか、ということです。我々がそうであると思っているところの「近 代医療」はいったい、いつ頃からあるのだろうか、という問いを立てることにします。
ところが、この問いに明確に答られる人はいません。まず、科学の社会史やトマス・クーンの科学革命についての議論に馴染んだ研究者なら、近 代医療がある限られた特定の時点から一斉に成立するという議論に関心がないでしょう。また、そのような問いをおこなうこと自体が有害でナンセンスだと片づ けられるかもしれません。そして、このようなことは、論理上のことだけでなく、具体的な歴史の中でどのような時代にそれが可能であったのかという問いを立 てることで、逆にその正確な答を得ることが不可能なことがわかります。
実例をあげてみましょう。近代医療の出発点と主張される医学上の発見やその歴史的事象については、多くを指摘することができます。医学理論 に注目すると、古くは血液循環を発見したウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)、臨床現場における観察を重視し今日的な病気観察の類型論を確立し たトマス・シデナム(1624-1689)、30歳で夭折するまでに精力的な病理解剖をおこなった組織解剖学の祖マリ・フランソワ・ビシャ(1771- 1802)、実験にもとづく生理学の基礎づけをおこなったクロード・ベルナール(1813-1878)、実験医学の基礎をつくったルイ・パスツール (1822-1895)、パスツールとならび細菌学の祖とされるロベルト・コッホ(1843-1910)まで、その科学的認識の始祖とされる人たちの活躍 にはおよそ四世紀の広がりがあります。また、近代医療を典型的な近代制度と見立てて、社会統制のシステムであるとみると「医療警察」制度を考案したヨハ ン・ペーター・フランク(1785-1821)、イギリスの衛生改革運動の強力な推進者であり公衆衛生法と行政機関としての保健局の設置に貢献したエド ウィン・チャドウィック(1800-1890)などが、まさに近代医療の確立者であると言えなくはありません。
近代医療を今日のようなシステム化された科学的知識とその技術的外挿と考えると、そのモデルは新大陸の北アメリカに求められ、定番となる医
学教科書をつくったウィリアム・オスラー(1849-1919)やジョンズ・ホプキンス大学設立の功績者であるウィリアム・ヘンリー・ウェルチ(1850
-1934)、医療の定式化をロックフェラー財団の全面的な援助をバックに制度改革として精力的に推し進め、世界の最高水準にまで高めたサイモン・フレク
スナー(1863-1946)の名前を忘れるわけにはまいりません。これ以外にも、いろいろな近代医療の始祖を探し出すことが可能です。
近代医学のルーツをめぐる400年の広がり
(1)医学理論
ウィリアム・ハーベイ(William Harvey, 1578-1657):血液循環の発見
トーマス・シデナム(Thomas Sydenham, 1624-1689):病気観察の類型論
マリー・フランソア・ビシャー(Marie Francois Xavier Bichar):組織解剖学
クロード・ベルナール(Claude Bernard, 1813-1878):実験生理学
ルイ・パスツール(Louis Pasteur, 1822-1895):実験医学・微生物学
ロベルト・コッホ(Robert Koch, 1843-1910):細菌学
(2)近代医療制度
ヨハン・ペーター・フランク(Johann Peter Frank, 1745-1821):医療警察制度
エドウィン・チャドウィック(Edwin Chadwick, 1800-1890):英国公衆衛生法
(3)近代医学教育
ウィリアム・オスラー(William Osler, 1849-1919):近代医学教科書
ウィリアム・ヘンリー・ウェルチ(William Henry Welch, 1850-1934):ジョンズホプキンス大学
サイモン・フレクスナー(Simon Flexner, 1863-1946):ロックフェラー研究所
このように、ざっと見ても約400年間の幅があるわけですから、近代医学のある特定の出発時点を定めること、それ自体には大いなる意味がな いことは明らかです。
4.連続と不連続
それでも、どこから始まるかという問いを立てたが最後、そんなものはないと教師が言っても、そりゃどこかにあるはずだと言う学生は後を絶 たないでしょう。問いがあれば、答があるはずだと考えることは、我々が骨身にまで教育されてきたひとつの原則、ディシプリンとしての教練だからです。だか ら、その地獄から逃れるためには、もうすこし丁寧に解説する必要があります。これを解く鍵は、その問いの中に知らない間に我々が滑りこませた時間的概念で あり、それについて自覚的になる必要があるということです。
つまり近代医療という表現のなかの「近代」という言葉に注目しようということです。近代(modern)という表現における時間概念は、そ れが同時代の(contemporary)中にあるということです。ということは、我々が享受している同じ医療体系が、ある時期以降に到来した/誕生した /確立した医療と同じものだと感じた際に、それを我々は近代医療と呼んでいるのです。しかし、その時間的概念を軸にして近代医療というものを理解する人の 態度は、ただ単にその基準の中に安住しているだけではありません。同時代においてさえ、時代遅れの医療や近代医療と異質なものであると見なされる医療は、 近代よりも時間的に遡る「前近代」ないしは「古代」や「中世」といったレッテルを貼られます。そして、同時代性が保証する普通の世界の外側にいるという意 味において、否定的な「反医学」とか「非医学」という接頭辞を付けられて表現され、同時代性つまり同じ世界の圏外に放り出されてしまいます。なぜなら、た いていの人間集団は、自民族中心主義つまり「自分たちがつねに他の集団の人たちよりも優れている」という偏見の色眼鏡によって自分たちが当然とみなすもの を最高ないしは最適なものと見なしがちだからです。
ところで自民族中心主義と述べましたが、これにはちょっと留保が必要です。近代医療の担い手は西洋の人たちだけでなく我が国の医療者たちで あり、文化的背景を異にする人たちの間にそれは広く受け入れられました。したがって、この場合には、どこに傲慢さの中心があるかというと、それは近代医療 を発達させた、あるいは受け入れた特定の民族集団よりも、受容される近代医療の論理が内包する自文化つまり、近代医療をおこなっている人たちがもつ近代医 療の優越性についての揺るぎない信念にあるといえます。
このような揺るぎない信念はいったい、いつ頃から形成されてきたのでしょうか。私はこの問いかけは、近代医療はどこから始まるのかという問 いよりも、もっと意義深いものだと考えます。それは、近代医療がどこにあるかという、ある種の歴史的な恣意性にもとづく評価よりも、歴史的な認識をも含ん だ近代医療そのものの自己認識のあり方を問うているからです。近代医療そのものと言いましたが、もっとも医療そのものが自己認識などする訳はないですか ら、正確に問い直しますと、近代医療の従事者は、自分たちが従事する医療をいつから「近代医療」と呼ぶようになったか、という問いです。このような連続と 不連続の時間の境界で、彼らはいったい何をおこなったのかということです。
5.同時代医療という着想
メリアム・ウェブスターのオンライン辞書によると、英語におけるモダンメディシン(modern medicine)という用語の初出は1585年に遡ることができると言います。ちなみに民俗医学(folk medicine)は1878年に始めて用語法として登場します。この用語の初出時期の古さは医療を時間性の中で捉える発想が意外にかなり以前よりあるこ とを示唆しますが、その歴史的文脈のなかに位置づける他の資料があまりにも少ないので、ここでは検討しません。
私は科学史研究におけるパラダイム論や科学社会学的アプローチを重視します。つまり近代医療に従事している当の人たちが自分たちの仕事の位 置づけとしてモダンメディシンという用語をいつ頃から使うようになったのかという点に着目してみます。
アメリカ合衆国ミシガン州バトルクリークにあるサナトリウム兼病院において『モダンメディシンと細菌学の世界』という雑誌が1893年に発 刊されます。細菌学は、その当時の近代医療におけるもっとも強力な学問的パラダイムでした。この雑誌は翌年に「世界」を「レビュー」に変えた後、1900 年に細菌学の名前が消え『モダンメディシン』と改名されます。モダンメディシンを冠した雑誌は1943年に『モダンメディシン・マニュアル』、これは15 年後に『レビュー・オブ・モダンメディシン』と改名されますが、この『モダンメディシン・マニュアル』になるまで現れません。
他方、医学の書物はどうでしょうか。先に挙げたカナダ生まれの医師ウィリアム・オスラーは、バトルクリークでの医学雑誌が発刊される1年 前、彼が亡くなるまでに8刷を数える当時の標準的医学教科書『医療の原理と実践』の初版を出版しました。これが1892年です。しかし、その「医療」には モダンという形容詞は修飾されていません。オスラーは1905年にはオックスフォード大学医学欽定講座の担当教授に任命されます。その3年後には『モダン メディシン、その理論と実践』というタイトルの本をフィラデルフィアで出版しています。当時の医学界の最高権威のひとりによってモダンメディシンと冠され た書物が刊行されたのです。彼は1913年4月に今度はアメリカのシリマン医学研究財団が主催するイェール大学での連続講演のタイトルを「モダンメディシ ンの進化」とします。この講演は、彼の死後2年経って、オックスフォードとイェールの両大学から出版されます。この頃にはモダンメディシンは英語圏におい ては完全に市民権を獲得します。1916年には「一般医のための実践的ノート」という副題のついた『モダンメディシン(近代医療)と幾つかの近代的療法』 がロンドンで、2年後の1918年に初版が出て1941年の第9版まで続く基礎医学のテキスト『モダンメディシンにおける生理学と生化学』(総903ペー ジ)がセントルイスで公刊されます。奇しくも先の雑誌における細菌学から、この生理学や生化学への推移は同時にモダンメディシンを構成する主要パラダイム の変更を象徴しています。
近代医療(modern medicine)を表題とする文献集(抄)
つまりモダンメディシンという用語の登場から、後にもっとも権威ある筋に認められるようになるのは、19世紀の最後の数年間から20世紀最 初の10年間であるということになります。雑誌論文や書籍のタイトルにみるモダンメディシンの使われ方をみて興味深く感じるのは、一度用語法として確立し た直後におこるのは、(オスラーの時代にすでに徴候がありましたが)モダンメディシンがどのような来歴をもつのかについての検討、さらには、モダンメディ シン以外のメディシン(医療)、とくに未開医療や民俗医療についての位置づけや解釈が、まさに同時代的状況の中で登場することです。医療人類学という学問 の成立時における未開医療への関心についてすでに私が指摘していることですが、イギリスの精神科医で人類学者のウィリアム・H・R・リヴァーズは1915 年と16年にロンドンの医学校での講演で、未開医療(primitive medicine)について重要な指摘をおこなっています。リヴァーズは、未開医療の研究以外に、第一次世界大戦期におこったシェルショックすなわち戦争 神経症や、産業革命から飛躍的に進歩を遂げた大量旅客輸送手段である鉄道の大規模な事故によって生じる心理的トラウマ、当時は鉄道脊損と呼ばれていました が、それらの心理的ショックの研究をおこなっていました。今日ではリヴァーズの名前は、PTSD研究におけるもっとも初期に精確な臨床記録と心理的トラウ マの理論を打ち立てた一人としてよく覚えられています。
さて、このような認識を通して、モダンメディシンは近代社会において我々と同時代性を共有する正統的ないしは公的医療の地位を獲得しまし た。と同時に、その進化や発展を保証するための二つの異質な部分を抱えることになるのです。つまり、ひとつは同時代性を拒絶する発展の途中で古くなってし まったモダンメディシンの部分的過去であり、他のひとつは前近代=非近代=伝統=未開という発想の連鎖の中で位置づけられる民俗医療という近代医療から排 除された迷信や宗教的要素のことです。これが「医療と文化」の関連性について論じる際に重要な分析の視点となるのではないかと、私が最近抱くようになった 仮説です。
ここまでの説明を踏まえれば、あるいはそれらを論証するために提示してきた一連の仮説を理解してもらえれば、次のような医療のあり方をめぐ る議論を私がなぜおこなったのか、ある程度推測することができると思います。それは、病気を治すための信念やそれに関連づけられた技術の体系を<医療>と 名づけると、ひとつまとまりをもつ文化・社会においてさえ、ひとつの<医療>の中には複数の下位領域が認められます。これを医療人類学の用語では、医療的 多元論(medical pluralism)と呼びます。さらに、一見一枚岩に見える近代医療つまりモダンメディシンにおいてすら、その実態は、中心的な考え方をなす生物医療 (biomedicine)を中核に、相矛盾する複数の理論と実践からなる構成体である可能性が高いということです。このように見ることで、非近代医療つ まり民俗医療もまた近代医療との同列の次元で取り扱うことができる地平を我々は持つようになったということです。これまで言ってきたように、近代医療の自 己同一性に関する議論から論理的に導きだせることも、医療的多元論についての経験的な成果からも、近代医療概念の確立には常に同一ではない異質な医療ある いは、異質な下位領域の存在が重要になってくるのです。
6.同時代医療の後にくるもの
昨年暮れの2002年12月2日ユダヤ人でカトリック司祭であったイヴァン・イリッチが亡くなりました。イリイチは「社会の脱病院化」に ついて直接このスローガンを掲げたわけではありません。イリイチの著作の原題である『医療の限界』を1978年に日本語に翻訳した金子嗣郎(かねこ・つぐ お)先生という精神科医が、イリイチの著作がもつメッセージを日本語のこの標題として掲げたのです。
当時の歴史的状況から考えれば想像できるように、このスローガンには反精神医学への期待や、日常生活の医療化への批判が込められています。 しかしながらhospitalizeは「加療のために入院する」という意味があるので、この用語法は日本語ならではの特殊なものです。病院を「近代システ ムの収容所」という風な悪い意味あいで用いている点でも、脱病院化の意味はさまざまな誤解を産む可能性のある多義的な用語になりました。しかし、当時の世 界的な近代医療批判の時流に乗って、この言葉は人々の心を魅了したことも確かです。
その後、この医療化(medicalization)に関する議論や病院のシステムそのものは、時代や経済の流れを受けて変容を遂げてきま した。ひとことでまとめると、病院はかつての全制的施設(total institution)という古典的な意義を失いつつあることは明らかです。したがって、現況の日本において脱病院化の理念は、それをオリジナルに掲げ た人たちとはかなり異なったかたちで実現されつつあるといえます。
しかし「病院化」とは医療化のことであり、病院が社会の中の施設から社会の制度そのものへと、あるいは、身体を収容する施設から時代精神を 収容する社会制度となったと理解すれば、病院化社会は脱病院化という経路を通らずに別種の病院化社会になったのかもしれません。
このことについてさらに詳しく論じる時間を私にはもう残されてはいないようです。ただ一言でいうと、この同時代性を失いつつ近代医療をとり かこむ環境のなかに、何がもっとも大きな影響を与えているのかということを、私の直感で言わせていただきます。
それは「経済」です。ただし、これは医療実践の現場のみならず、私どもの職場である、研究機関や教育機関である大学や大学院においても、こ の「経済」という考えかたが支配的になってきました。ここで、あえて私は「経済」という言葉をグロバール化した高度資本主義の「イデオロギー」であると 言ってもかまわないと思います。この「経済」ないしは「経済的な理念」が、現在の我々の行動原則の中に占める比重が増加しつつあるということは、最後に指 摘しておきたいと思います。
この晴れがましい講演の最後に演者である私が聴衆である皆さんに向かって、このことについて私と一緒に考えましょうと、お願いするというの は前代未聞かも知れません。しかし、それは冒頭で挙げた、中川先生や私が著作や論文の中で読者に投げかけていた鬼面人を驚かすようなレトリック(修辞法) よりも、多少なりとも親切な呼びかけとは言えないでしょうか。あるいは、このようなやり方が、「私は医療が分からない」という中川さんの独白から私が知ら ずのうちに受けた教育法(pedagogy)かも知れません。
ご静聴ありがとうございました。
■クレジット:日本消化器病学会、特別講演2「医療人類学の観点から」2003年4月25日(金)15:10-15:50 於:さいたまスーパーアリーナ アリーナーホール
文 献