か ならず読んでください

観光人類学テーゼ(1993)

Tourism Studies Thesis, 1993


Mitsuho Ikeda

  (1)旅と観光を理解することの根本的見直しが、現在まさに求められている。

  (2)観光のメディア的性格についてより調査研究されるべきである。

  (3)このような研究を通して、現実世界における新しい旅の演出の可能性・妥当性について 考えるべきである。


 以下、順に論じていこう(→「コミュニケーションの文化史」)。


 議論(1):旅と観光(*1)を理解す ることの根本的見直し


1.1 まず、最初に指摘して おかねばならないのは、現代の観光についての研究を通して次第になりつつあること、すなわち「文化」に関する従来の 学問的概念の限界があらわになったことである。

1.2  旅と観光にまつわる現象を取り扱う際に、従来までの多くの議論は、例えば日常/非日常、採集狩猟民/農耕 民、中心/周縁、‥‥といった二項対立で解釈する枠組みが基調としてとられてきた。

1.3 例えば、旅は日常から の解放であり、非日常を手に入れる“聖なる旅”(N・グレーバーン)である。あるいは、その旅の経験は通過儀礼の三 要素である「分離・移行・統合」(ファン・ヘネップ)の枠組みで理解されるという主張。さらに「江戸時代にさかんにあった“お伊勢参り”や“ええじゃない か”は千年王国運動の一種である」等々の講釈をおこなうこと、などがそれである。

1.4 そのような解釈に全く 成果がなかったという訳ではない。しかしながら、これらの説明は一 種の“解釈の循環”であり、従来指摘されてきた理 論的枠組みを観光現象を分析するために当てはめ、その妥当性の可否を議論しているにすぎない。対象に対する便宜的な理論的外挿は、対象を理解する上でも、 また既成の理論を鍛え上げるという観点からみてもあまり有益なことではないのではなかろうか。

1.5 問題はより深刻であ る。なぜなら観光が現代世界にもたらしつつある状況は、従来の文 化研究というジャンルの変更をも含む大きなインパクト をもつからである。例えば“文化”の定義を社会における“象徴と意味の体系”(D・シュナイダー)という静態的な実体概念として把握するこ とが、有意義な ものとは思えなくなってきた。と同時に観光における“文化理解”のビジョンをも含めて、静態的な文化概念がもたらした言わば“弊害”そのものが我々に意識 されるようになってきたのである。(その意味で、観光研究は人類学が常に問題にしてきた“文化の理解”研究に大きな影響を与えつつある)

1.6 はっきり言ってしまえ ば、「人はなぜ旅をするか?」という設問はまったくのナンセンスで ある。解けるはずのない、その素朴な質問の解明に固執したことは、そのような認識の到達点に至 るまでの道のりを遠回りさせた。“答えはすでに設問の中に見いだせるものである”という格言は、この回を重ねた研究会の議論の展開の中にも見て取れる。す なわち、最終回に至るまで、その“なぜ?”という原因探しに終始し過ぎたために、多彩で多様な旅と観光にまつわる現象に決定的な“統一された合意”を与え ることができなかったのだ。

1.7 それはまた研究会で提 供される話題が、生物における移動から、遊牧民の移動生活、狩猟採取民としてのオーストラリア・アボリジニーの夢見 と旅、“旅”芸人の“旅”、さらにはバーチャルリアリティへと、「旅」をある種の単線的な“発展”ないしは進化(?)としてとらえたことでも明らかであ る。だが、このような設問とその解法を通して、人間の“移動”に関する多様な形態について情報を整理することはできなかった。より深刻なのは、今日におけ る“観光”とそれが孕む問題について、さほど貢献することはできなかったことである。旅や観光に「進化」などというものはない、あるのはこれまでも、そし てこれからの「事前に予測することができない変化」 のみである。

 その理由は次の2点にまとめ られる。

1.8 第一に、旅や観光を考 える際に、そのあまりにも自明な事実である“移動”を鍵概念に固 執して議論を展開したことである。

1.9 私見によれば、旅や観 光への源泉は「場所へのフェティシズム」であって「移動」そのものではない。あるいは、旅や観光における「移動」は 「場所性」を演出するなにものかであって(または論理的帰結?であって)、旅を本質的に決定づけるものではない(*2)。それゆえに、場所性に敏感になら ざるをえない旅人は、身体性にもとづいた五感を動員するのである。旅人は五感をたよりにして旅を満喫する(あるいは満喫されない)のだ。

1.10 本研究会の議論が空 転した第二番目の理由は、今日世界の各地を巻き込んている“近代 観光”に対する配慮が欠如していたことである。あるい はそれを過小評価したことである。そこには近代観光という様式が、それまでの旅や観光の形態の延長上、あるいはそれらの要素の複合として把握されており、 近代観光そのものの独自性について考慮されることは少なかった。そしてその要素のコアとなるアイディアとして(第一の理由に関わるが)“移動”というメタ ファーが動員されたのである。

1.11 18世紀の英国の “道楽息子”が修養することの意義が強調された大陸へのグランド・ツアーと、19世紀半ばの禁酒運動の一環としての労働 者に対して企図された観光の間には、明らかな断層がある。すなわち、後者には、労働の対極にある余暇概念の誕生、大規模な交通手段、マスメディアの発達、 観光“関連”産業成立の萌芽、など近代観光を特色づける要素が多くみられる。すなわち我々の大衆観光の原型がそこにある、といっても過言ではない。観光を 考える際に、我々の観光を想起して議論を始めるのならば「観光は 近代の産物である」という合意をもってなされるべきであった。

1.12 また「パースナライ ズされた旅の経験」についても関心がもたれるべきであった。その具体的なテーマとは、例えば旅そのものが常態化した者 の意識の問題、旅行経験の内在化、旅行後のフラッシュ・バック体 験あるいは、旅のデジャブ体験など であるが、(それについての未開発ないしは開発途上の) 研究の沃野は未だ手付かずのままなのである。そしてそれもまた、近代という時代を抜きにしては語れない。なぜならば、パースナライズされた経験はきわめて 近代的な意識にもとづいていることは従来から指摘されている(L・トリリング)事柄であるからだ。

文献

この議論は後に「虚構観光論」に結実した。


 議論(2):観光はメディアそのもので ある


2.1 旅と観光についての事 例報告を聞いたり議論するたびに、それらのあり方の“多様性”に ついて感慨を新たにする。その多様性が、どのように して生じてきたのか我々は未だ十分に把握できていないのが現状だ。

2.2 研究会のテーマに関連 して、もしそれが少しでも貢献するものがあるとすれば、それは「人間にとっての旅」が、何か単系=単線的に変遷した のではなく、過去から現在にまでいたる時間的経過のなかで、その 時点で個々の新しい旅として生起すると同時に、それらが並存する形で続いてきたのでない か、という着想を我々に与えてくれた点である。

2.3 そこで問題となるの は、旅と観光の現象を、ひとつまたは限られた理論的な枠でくくるのではなく、多様な旅や観光のありかたを、多様なまま で包摂できるような理論と実践の体系(=実践の体 系であって、理論の体系ではない)は可能か?、ということである。

2.4 奥野卓司は、研究会 の報告のなかで、近未来の観光がデバイス的性格を 増しつつあることについて指摘した。デバイスは、もともとトランジ スターやICのような電子回路の素子であり、コンピューターシステムの中では、特定機能をもった装置のことを意味する。従って、これは観光がひとつあるい は複数の“機能”として特化し、人間がそれを“装置”として利用することと理解することができる。

2.5 しかしながら、これだ けでは観光という現象が、時と場合に応じてある特定の機能を担う という明白な事実を反復して指摘しているに過ぎな い。ただ、その指摘に斬新さがあるとすれば、それは観光は将来に向かってデバイス的傾向をより増すだろうということである。しかしな がら、現在までに観光 (特に近代観光)を通して理解されてきたことは、奥野氏が指摘するようにデバイスとしてある機能に特化すると同時に、先に述べたようにそのパースナライズ 傾向によって、その意味内容がどんどん多様化する、すなわち、(利用者が想像し、またそのことを要求する)装置の機能が固定化することなしに流動的に変化 してゆくこと。このことなのである。

2.5 したがって観光におい てデバイス的性格をもつものがあるとするならば、それは観光とい う体験を保証しかつパースナライズする契機を与える “身体”ないし、それを最初に受容する“感覚器官”のほうなのだ。そして、それらは観光体験のデバイスそのものなのである。(→「虚構観光論」)

2.7 そこでより包括的に観 光を把握できる枠組みを提示したい。結論を先に述べよう。観光はメディアそのもので あるということだ。あるいは、近 代観光は、それを利用するもの(=観光客)に対して、メディアとして最大限に利用可能なシステムとして発展してきた、のだと言おう。

2.8 近代観光のメディアと して性格を検証してみよう。まず、近代人にとって観光がメディア=媒体であること。“観光を可能にするメディア(媒 体・手段)”としての運輸・交通・宿泊施設を想起する立場から見ると、「観光=メディア」論はほとんど見当違いのような印象を与える。しかしながら、従来 の観光理解の限界は、まさにここにある。それは観光を具体的な何かの動機に基づいて、具体的な何かを成就することとして理解する陥穽からきていると 思われ る。

2.9 観光 におけるパラドク スとは、人にとって観光をする動機が“空虚を埋めること”にあるにも関わらず、それが具体的に観光を実践する瞬間か ら、観光の一般性、すなわち何かをもって“空虚を埋めること”という意味から遠退いてしまうことである。

2.10 観光とは“白紙に何 かを書き込む”ことであり、個々人における観光体験とは“白紙に書き込まれた”なにものかである。白紙に書き込まれた 瞬間、それは個々の観光体験になってしまい、類的な概念としての“観光”の実例=実践のひとつになってしまうのだ。これは、近代社会における経験としての 観光が、何度も反復されることと無縁ではない。

2.11 したがって、観光は ある行為を遂行することと理解するよりも、ある行為を通して為されたこととして理解するほうが適切なのである。“観 光”を理解するとは、そのメディアに旅行者自身が自由に「書き込んだ」(*3)なにものかについて理解することなのである。

2.12 「観光=メディア」 論は体験する者にとってのメディアである、と同時に(近代観光のより重要な要素である)空間創造に関してもメディアと しての性格を遺憾なく表わす

2.13 近代観光の歴史的な 発展について顧みれば明かなように、それは巨大な観光地=環境= メディアの創造の歴史なのでもあった。環境が創造され たことは、同時にそれまでの環境が破壊されたことを含意する(*4)。端的に言えば、近代観光の本質は[観光客]を一時的に収容する“ゲットー”を創造す ることにあるのだ。そして、観光のイメージが、そのゲットーの内部で創造されると同時に、ゲットーに来たゲストのために提示される。ゲットの創造のため に、それ以前の環境を破壊しかつ改造することは、“人間に対して隷属させられるべき環境”という近代的な開発の典型でもある。

2.14 この観光地=ゲッ トーという意識が、観光客によって薄々感じられていることは、言うまでもない。それゆえに、エリート・ツーリズムにおい ては、ゲットーの内部をさらに差異化する方向をもって(プライベート・ビーチ、会員制クラブ等の)ゲットー内ゲットーを“創造”したり、あるいはゲットー の外側に出て、少数民族観光やエコツーリズムのような“本物の手触り”を求めるという(今日注目されている)方向性に発展するのだ。

2.15 当然、観光地=ゲッ トーという人々のイメージはいわゆる“観光研究者”にも共有されているがゆえに、特定の場所に密着した集客産業の形 態、例えばディズニーランドや甲子園が観光を研究するものにとって絶え間のない刺激を与える源泉になるのだ。したがって、ディズニーランドにみられるゲス トの迎えられ方/楽しみ方は、(まことしやかに語られる)ポストモダン観光にみられる形態なのではなくて、観光地のハイパーリアルな再現にほかならないの だ。


 議論(3):新しい旅の演出は可能か?


3.1 研究会の議論を通し て、遊び・癒し・エクスタシーの装置としての観光を 今後どのようにとらえるか? あるいは表現行為としての遊び・癒 し・エクスタシーを観光にどのように反映させるか? さらには非 労働時間を演出するための観光をどのように展開させるのか? などの問題が提起されてき た。

3.2 このような問題意識 は、従来の開発サイド主導のような観光研究の立場からは、なかなか指摘されてこなかった観点である。一見当り前そうに みえるこの種の提案が出される背景には、言うまでもなく何か現在ある観光に対して人々が、十全な満足をしていない、やはりこれもまた当り前の状況がある。

3.3 石森秀三がかつて提唱 した 「適正観光」論(→山下晋二は「公共人類学」というテーマにより広いパースペクティブを提示する)においては、開発する側が、より倫理的な意識をもって観光開発に取り組むべきであるという姿勢が強調 されている。むろん、そのために、いったいどのような人々が、どのような権利(や意識)をもって、どのような実践に対して、“適正”と判断するかという、 より具体的な対応について今後検討されるべき課題が山積している。今まさに、近代観光を取り扱うことが学問的にも実践的にも大きな転機を迎えているのであ る。

3.4 トーマス・クックによ る近代観光の開発は、週末を酒浸りになった労働者を健全にしたいというブルジョアの希求からはじまった。その意味で は、150年後の現代において観光のあり方に対してなんらかの倫理的な含みを再び持たせ、より“ふさわしい”観光のあり方を模索する(あるいは“もう一度 原点に立ち帰る”ような)石森氏の試みが、彼自身によって「観光ルネサンス」(*5)という名称を与えられ提唱されていることは、現代の観光現象のあり方 を考える上でもたいへん興味深い。

3.5 にもかかわらず、いや それゆえにこそと言うべきか、その方向性はいまだ理念でしかうかがい知ることしかできず、また「観光ルネサンス」以 前の近代観光が演出してきた“幻影”について自覚的な研究はきわめて少ないのが現状なのである。だが、その言葉はスローガンだけに終わってしまうと、ス ローガンがない観光研究よりもより悲惨な未来がくることは必定である。

3.6 新しい観光をどのよう に演出すべきかは、“近代観光”が経済的のみならず文化的にもど のように生産され、どのように消費されてきたか?、 ということをはじめとする研究と、その(反省的で再帰的な)成果を活かすような社会運動としての観光の試みを通して明かにされるだろう。

3.7 これは予言的なコメン トであると同時に行為遂行的(パフォーマティブ)な提言でもあるのだ。

3.8 このように拙論で、筆 者は萌芽的で仮説的でまた批判的な見解しか提示できなかったにも関わらず、その表題を「パラダイム 転換(旧稿)」として銘 打ったのは、「人はなぜ旅をするのか?」という設問の構成こそがともすれば講壇的で不毛な議論になるということを指摘し、かつ「近代観光」研究こそが「観 光ルネサンス」の提唱する“倫理的課題”に対してより明確な展望を与える ことを指摘するためであった。



【註】原出典は「観光現象研究のパラダイム転換」である。


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