「文化」概念の検討:エドワード・サイードの貢献
解説:池田光穂
エドワード・サイード(Edward William Said, 1935-2003)によると、我々の文化概念は、つねにそれを見る視座が置かれている政治的な立場(より正確には地政学的立場)から自由になることがで きません。
もっとやっかいなことは、現代社会における文化という使われ方が、そのような歴史的所産でありか つ権力的所産である政治的位置(地政学的立場)を、どこかしら隠してしまう機能をもっていることを指摘します。
つまり、文化とは、一見政治的には中立、歴史的には普遍的であるかのような取り扱い方をされてき たことをサイードは『オリエンタリズム』という著作の中で、具体的に明らかにしていきます。
サイードが狭義の意味での実証主義的でなかったために、その立論の無効性を指摘する批判もありま すが、文化概念がもつ、無色中立性を鋭く批判し、文化の政治的意味についてつねに敏感でなければならないと指摘した点は非常に重要です。
"This can mean only one thing, namely, that a political and social system that suppresses the self-determination of a people thereby kills the creative power if that people."- エメ・セゼール(Aimé Fernand David Césaire)「文化と植民地化」
サイードについてのレクチャーの用意はまだ不十分ですので、まず以下の2冊の著作をお読みになる ことをおすすめします。
● エドワード・W.サイード『オリエンタリズム(上・下)』 今沢紀子訳、平凡社 、1993年(→「オリエンタリズム」)
● エドワード・W.サイード『文化と帝国主義(1・2)』大橋洋一訳、みすず書房、1998年
(→「文化と帝国主義」)
● エッセー(池田光穂)
文化と政治と当事者のアイデンティティ意識について考えるためビッグネームを挙げる とすれば、私は、エトワード・サイード、ベネディクト・アンダーソン、ジェームズ・クリフォードをためらいなく学生に推薦するだろう。諸姉諸兄には指摘す るまでもない。だが久しく著作に親しんだ読者においてもなお、彼らの主張の意義がボディーブローのように効いてくるのは、実は世界の冷戦構造が終焉してか らなのではないだろうか。
冷戦時代には文化というものは、西側世界では人びとが教育を通して陶冶する教養やハイ・ カルチャーを意味し、東側ではそれらがプチブルジョア的な虚偽意 識に由来する偽物と見なされ、本物の文化は「生産手段」を手にした労働者階級(ないしは革命的労働者)がうみだすものと見なされていた。だが我々には時代 錯誤に見える現象も私のフィールドである中南米諸国に戻れば(IMFや世銀の思惑とは裏腹に)まだまだ政治言語として十分に機能している社会や集団があ る。
こういう冷戦が作りだした文化をめぐる分裂した理解の状況はほんの昨日(中南米では現在
もなお!)までのことなのだが、我々はすっかり忘れていてクロー
バーとクラックホーン『文化:その概念と定義の批判的総説』の1952年に遡って、今日の我々は1980年から90年代のカルチュラルスタディーズなどの
成果などを自陣に引き入れるどころか、その社会的インパクトを十分に咀嚼できていないのが現状だ。そして、現在はグローバルメディアを介して国民国家の枠
組を超えて、文化と政治現象の直結という社会現象に我々文化人類学者は直面している