研究史で追いかける水俣病事件
Minamata disease,
a
type of poisoning caused by The Chisso Corporation's mercury pollution:
A Research History
Minamata
disease, a type of poisoning caused by The Chisso Corporation's mercury
pollution: A Research History, in Japanese. English version will be
presented near future.
水俣病の歴史の主人公は、被害者と後に明らかになる加害責任者(チッソ・県・国家)である。しかし水俣病の歴史は水俣病研究の歴史でもあ る。
歴史を風化させないためにも、また歴史は終わったと嘯(うそぶ)き、水俣病を忘却の彼方に追いやってしまう流れに抗して、水俣病の研究史を 追いかけよう。
ここでの年表化は、限られた資料にもとづく「初めの1ページ」にすぎない。皆さんがさまざまな資料をつなぎ合わせて、水俣病の研究史を、そ の時代にふさわしいものに再構成してください。
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1865年 「ロンドンの聖バーソロミュー病院で1865年に世界最初に起きたメチル水銀中毒症の症候群」の事件(命名は入口紀男先生による)
1906年 野口遵(のぐち・したがう, 1873-1944)、曾木電気株式会社創立。
1908年 日本カーバイド商会と合併し、日本窒素肥料を設立。石灰窒素・硫安の製造に成功。
1914年 第1次世界大戦勃発。イギリスからの硫安の輸入が途絶し、硫安の需要の激増で、市場価格は3倍近くに急騰した(〜1918年)
1921年 野口遵、訪欧し、カザレー法アンモニア合成技術の導入を決める。ニトロセルロース(綿火薬の原料)の製造を手がけ、軍需基幹産業に 転換。
1925年 6月、朝鮮総督府から蓋馬高原の鴨緑江支流の赴戦江の水利権を得て、20万kWの赴戦江発電所を建設する。
1926年 1月に朝鮮水電株式会社設立。
1927年 5月朝鮮窒素肥料株式会社を設立する。
1932年 日本窒素肥 料会社水俣工場でアセトアルデヒドの生産開始
1933年 5月朝鮮水電株式会社は、長津江、1937年1月虚川江の電源開発に着手する。
1937年 「8月には水豊発電所の建設に着手したが、堰堤900m、高さ106m、貯水湖の広さ345km2と、霞ヶ浦の2倍、人造湖として は当時世界第2位の規模であった。水豊発電所の70万kW設備は1944年には殆ど完成していたが、第2期70万kWの設備は工事半ばにして敗戦を迎え た」ウィキ「日窒コンツェルン」。
1937年 ハンターとラッセルは、メチル水銀(有機水銀)による中毒症例と剖検を紹介した(ハンター・ラッセル症候群の報告)
1940年 ソウルで野口遵、脳溢血で倒れる。これ以降実質的に実業界引退(1944年死亡)
1941年 塩化ビニル生産が開始。
1942年 最初の?患者発生(患者死亡後に推定)
1945年 までに、朝鮮半島「興南地区には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m2、従業員は4 万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた」。しかし、「1945年の敗戦により事業半ばに終わった。主要拠点である朝鮮の資産など、全財産の 8割を喪失し、GHQの財閥解体令を待たずに日窒コンツェルンは実質的に瓦解した」共に、ウィキ「日窒コンツェルン」)
1955年
米国NIDB疫学部長 Leonard T. Kurland 黒岩義五郎・東大助手とともに熊本を訪問し、多発性硬化症(Multiple Sclerosis)の疫学的研究をおこなう。
1956年
5月1日 公式認定。新日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場附属病院長・細川一が水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患」を報告した。
7月 水俣市は熊本大学医学部に原因究明を依頼。尾崎正道(第1薬理)医学部長を班長とする水俣奇病研究班が組織(班員は、班長を含め て9名)[徳臣 1999:20-21]
8月13日熊大奇病研究班、はじめての水俣訪問。避病院を見学。同年9月3日熊大附属病院の入院患者の死亡第一例。勝木馬之助は・教授 (内科)=病院長は、班会合で「水俣病」の名前を提唱。同年暮、班員は新日本窒素による工場廃液であることを十分に認識。
1957年
1月熊本大学水俣病研究班「工場廃液の重金属の疑い」とし、マンガン、セレン、タリウム(→宮川九平太・神経精神科教授)を原因物質と して想定。[硫酸製造過程でタリウムが含有、排水や泥土にも多量に含有]
4月上京中の徳臣晴比古、Von Oettingen, Poisoningを購入。同書のアルキル水銀中毒に関する記載について知る。熊大医学部公衆衛生学教室・喜田村正次教授は、患者およびネコ臓器内のセレ ン検出よりセレン説を主張。
5月 新日窒、工場内に奇病研究班を組織[資料集(上)1996:106]。
6月 武内教授、小脳顆粒細胞層の病変により水銀中毒の可能性を示唆。
10月29日 研究班と日窒技術陣とのミーティング[徳臣 1999:66]
1958年
喜田村教授、患者の尿中水銀量を測定し、その後、水俣湾内の水銀量の測定をおこなう。武内忠男・第2病理教授は、脳病変よりハンター・ ラッセルらの有機水銀中毒の剖検例との一致を確信。
熊本に3か月逗留、水俣を訪問した神経学者マッカルパイン(Mc'Alpine)、メチル水銀中毒との類似性を指摘。
9月「昭和 33(1958)年9月、アセトアルデヒド の増産を目指すチッソは、とりあえず汚染が
指摘されていた百間港付近の汚染を止めるた め、百間排水口から水俣川河口へと工場排水
のルート変更を行った」出典は、衆議院調査局環境調査室「水俣病問題の概要」2015年6月(https://goo.gl/UVeAzW)
10月21日新日窒・水俣工場長・西田栄一[任期:1957-1960]は、熊大学長・鰐淵健之(けんし)学長を訪問。その中で、学長は文部省当局が「奇病」の政治問題化を懸念し、学 長に対して研究の打ち切りを慫慂[しょうよう=勧める]した[資料集(上)1996:254]。
1959年
7月22日 熊本大学水俣病研究 班(喜田村教授、武内教授、徳臣助教授)、有機水銀中毒説を発表。
9月 日本化学工業会理事が(海中投棄の)爆薬説を主張
10月 細川のネコ400号実験で、水俣湾の魚介類の餌を与えた猫が水俣病様の症状を(実験飼育下で)はじめて発症した。
11月 東京工業大学・清浦雷作教授が水銀説を否定する研究報告を発表。
11月 厚生省食品衛生調査会が、有機水銀化合物が原因物質であると厚生大臣に答申。
12月「見舞金契約」事件
12月 県の依託による患者診査協議会(委員長・貴田丈夫・小児科教授)発足。
12月10日付、武内教授宛・カーランド書簡;12月22日付、石黒理兵衛宛[資料集(上)1996:920-921]
(ca.疫学者カーランド、水俣病について米国の医学雑誌[誌名:調査中]に紹介[徳臣 1999:92]。しかし[資料集(上)1996:921-925, esp. 925]によると、研究所内部での配布物の可能性大で、同年末にカーランドは、熊大医学部と新日本窒素肥料総務部に、この英文レポートを送付している)
1960-61年 水俣病総合調査研究連絡協議会が発足(経済企画庁・通産省・厚生省・水産庁)
1960年
4月 清浦雷作・東京工業大学教授の有毒アミン説
1961年 胎児性水俣病の確認
4月 東邦大学 戸木田菊次教授の腐敗アミン説
9月 ローマにおいて第7回国際神経病学会の Symposium on Geographic Neurology で、熊大研究班、水俣病の研究成果発表。徳臣晴比古による口頭発表を、ハンターは聴取する。マッカルパインも参加。
Tokuomi H. et al. 1961. Minamata Disease. World Neurology 2(6):536./ Tokuomi H. et al. 1961. Minamata Disease. Kumamoto Med. J. 14(2):47.
11月 内田教授が水俣湾の貝(ヒバリガイモドキ)
1962
8月 入鹿山教授がアセトアルデヒド生産設備から採取した触媒滓から メチル水銀化合物を取り出すことに成功(→出典)
1963年
2月 熊大研究班、工場廃液からメチル水銀特定。
1964年
桑原史成・写真集『水俣病』三一書房、松田心一・横川宗雄編『日本の奇病』現代書房、庄司光・宮本憲一『恐るべき公害』岩波新書
11月から13回にわたり富田八郎(宇井純)合成化学産業労働組合機関誌『月刊合化』に「水俣病」を連載(→『公害の政治学』1968 年)。この時期、大学院生であった宇井は現地での聞き取り調査の過程で、細川病院長が実験していたネコ400号実験の事実を把握していた(原田 2007:323)。
1965年 6月新潟大学、阿賀野川流域における新潟水俣病(第二水俣病)の発見。
同人誌『熊本風土記』に石牟礼道子「海と空の間に」(→『苦海浄土』)
7月12日 新潟大学・椿忠男教授、徳臣と共に水俣訪問[徳臣 1999:101]。
四大公害病を政府が認定(公認?)のも1965年
1966年 熊本大学水俣病研究班・忽那将愛(くつなまさちか)編『水俣病:有機水銀中毒に関する研究』熊本大学医学部, 449pp. 1966年3月
1967年 武谷三男『安全性の考え方』岩波新書で、水俣病をとりあげる。
6月 新潟水俣病裁判提訴。
1968年
7月 宇井純『公害の政治学:水俣病を追って』三省堂
8月 細川ネコ400号実験の事実が9年近くたって公開確認される
9月26日 厚生省、水俣病の原因物質 がメチル水銀を含む工場排水であることを断定(「水俣病に関する見解と今後の措置」)。これをもって[水俣病を公害認定したといわれる]
1969年 6月熊本水俣病裁判開始
12月15日「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」(法律第九十号(昭四四・一二・一五))。措置法に基づいて「熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会」(会長・徳 臣晴比古)
1970年
1971年
3月 原田正純「潜在水俣病:病気の全貌はまだ明らかにされていない」『科学』1971年3月号(→原田『水俣病』1972)
9月8日 環境庁首脳(大石武一環境庁長官等)、水俣病とそれ以外の疾患の鑑別診断を政策的に決定 。徳臣、日記でこのことに不快感をあらわにする[徳臣 1999:112]。
1972年 原田正純『水俣病』岩波新書
6月 第一回国際環境会議(ストックホルム)に水俣より濱元一徳、坂本ふじえ・しのぶ、原田が参加。Kogaiとminamataを訴え る。
1973年
3月『10年後の水俣病に関する疫学的、臨床医学的ならびに病理学的研究』
5月22日 朝日新聞「有明海に『第三の水俣病』」を報道[徳臣 1999:122]
8月 水銀汚染調査検討委員会・健康調査分科会(椿会長)による有明海の患者検討し、最終的に未認定[徳臣 1999:133-138]。
1975年 宮本憲一ほか『世界の公害地図(上・下)』岩波新書
1987年 第三次訴訟(熊本地裁)で、水俣病発生に関する国と県の責任を裁判所は認める。
1995年「政府、水俣 病の未確認患者問題につき最終解決策を決定。村山首相、原因の確認・企業への対応の遅れを首相として初めて陳謝。国の法的責任には触れず」
2009年7月:水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法(通称:水俣病救済特別措置法)成立。
2010年4月16日:水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法の救済措置の方針を閣議決定
猫の墓:水俣病センター相思社の敷地のなかにあります
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リンク
文献
関連リンク(サイト内)
関係リンク(サイト外)2007年11月 19日現在