イライザの父の怒り
Father of ElizenWeizenbaum had gotton angry too much!
【物語】
前回の議論の続きです。[イライザあるいはヴァーチャル・オードリー物語(総本家)]
【前回の課題】
【1】人工知能研究などでは、このような対話の対象を知的なものとして取り扱うことを「擬人 化 personification」(あるいは「メディア等式」)と呼んでいるが、これは皆さんが使う言葉の意味において適切と言えるだろうか。皆さんが抱く、そう/いいえ/どちらでも ない、というすべての答えに、擬人化をどう理解し、どのように定義するかという問題が絡むはずだ。
【2】ここにみられるのは、コミュニケーションそれともディスコミュニケーションなのだろう か。機械や無生物とのコミュニケーションがそもそも可能であるかということを明らかにしてからでないと、この議論は堂々巡りをする。こういってよいだろう か。それとも、そのような議論を打ち壊す方途はあるだろうか。
【私の教訓——前回の授業のコメント】
【1】擬人化と表象するには、まずコミュニケーション能力に着目した「人間の定義」をおこなわないと、議論がぶれてしまう、という学生なら びに、コメントをいただいた伊藤京子先生に感謝します。たしかにそうでした。それぞれの議論をやっている人が、コミュニケーションにおける人間的要素をど のような点に求めるのかで、擬人化のイメージは大幅にぶれますよね。擬人化の定義の前に、人間の定義でしょうという指摘は正しくと私は思います。また、マン・マシン・インターフェイス(=ユーザーインターフェイス)の研究領域では、そもそも擬人化の議論そのものを考えることがなく、ヒトの機械とのチューニングプロセスそのものの解 析が中心化しているので、それが擬人化かそうでないかという問題を考えることの重要性が感じられないという批判も傾聴に値します。もちろん、だからといっ てやる意義がまったくないとは思えませんが。
それからパーソナル・コンピュータに名前(とくに人名)をつける初期のユーザーの話も面白かったです。私はすべてのコンピュータに名前をつ けていますが、現在では[ネットワークで繋げる作業を除いては]しばしば忘れるほど、その名前をもつ意義を感じてはいません。
【2】こちらも結局のところ、コミュニケーションの定義に帰着してゆくのでしょうね。イライザとの対話[授業ではウェブでの事例を使いまし た]をコミュニケーションとするか、そうでないかは、誰がそう判断するかということと深く関わり、それにより、何をコミュニケーションと考えるているの か、ないしは、なにをコミュニケーションの問題として焦点化しているかということが重要になります。こちらも至極当然。
伊藤京子さん(CSCD教員)と別の研究のことで後日議論しましたが、「ヒトは自分の見たいところしか見ていない」という経験的事実は、我 々の議論をより開かれたものとするためには、克服しなければならないコミュニケーションの技術的な意味でのアポリア(難問)だと思います。もちろん決して 認識論的なアポリアでも、絶対に解法できないアポリアでもありません。経験的には克服可能な希望を持てる事実がたくさんあります。「ヒトは自分の見たいと ころしか見ていない」という教訓は、まず、授業において対話を基調とする教師がまず、授業をはじめる前にたたき込んでおかねばならない、認識論的前提です し、むしろ、そのことが、対話を通してそこからの脱出を保証する契機になるということです。
【イライザとの対話編】
出典:(ワイゼンバウム 1979:3-4)ただし文章は変えた。
【今日の問題】
イライザの産みの親であるワイゼンバウムは、初期のイライザのユーザーや一部の精神科医が、これを対話による創造の可能性や治療手段として の有効性を示唆した時に、激怒したといいます。みなさんは、なぜ、この頑固親父[=ワイゼンバウム]がユーザーによるイライザ待望論に対して反発したので しょうか?
ふつう発明者や制作者は、自分のソフトが他の人たちから誉められると喜ぶものですが、ワイゼンバウムは喜ばなかった。彼の怒りの理由には、 こんな薄っぺらいコミュニケーションで喜ぶものは、たかが知れている。人間にはもっと重要なコミュニケーションがあるはずだという趣旨のものでした。
ワイゼンバウムは、いったい、なんで、こんなことで怒っているのでしょう。より具体的な彼の怒りの理由を考えてください。これが、今回の ディスカッションのテーマです。
【補足説明】
もちろんこの授業の講師は、ワイゼンバウム[風]の怒りを、それらしく腹話術風に述べる——それも解釈のひとつです——こともできますが、 それは授業のおしまいに披瀝することにしましょう。
当日、皆さんの爆笑を誘った頑固親父のブーイングは、ワイゼンバウム(1976:5-7)にあります。この本は絶版ですので、図書館で チェックしてください。今でも笑えます。またロジャー派の精神医学へのおちょくりは、同書のp.3にあります。
さて、人工知能批判派やインターネット批判をする懐疑派の紋切り型の批判の典型は、ドレイファス(2002)に代表されます。授業のコメン トで申し上げましたが、この一派は相も変わらず「身体論」で勝負を制しようとします。
彼の主張は、【身体】=【不確実性】=【責任ある関与的な行為】の三位一体の一種の神学的な議論をおこないます。つまり、メルロ=ポンティ の身体と知性の不可分性で身体の固有性やフレキシビリティさらには固有性を主張します。これは、身体を牢獄と見るプラトン(およびキリスト教)以来の西洋 の哲学のベースに対する根本的な批判を形成します。次に、責任ある関与的行為(コミットメント)をあげて、責任ある行為は、固有名ならびに具体的身体をも つ近代的な主体においてはじめて可能になると説明します。そして、この不確実性については、私はクリアに説明するのに自信がないのですが、奇妙なことに 19世紀初頭に登場する新聞により匿名性をおびた公共/公衆の概念が登場することに対して懐疑的なキルケゴールの所説を使います。たぶん人間の身体や感情 に強く関わる「絶望」などの概念を人間らしさの根拠にしてつかいます。これらの3すくみの概念装置で、非身体的で、責任性の所在が見えてこず、また失敗を 犯さない自動機械は、知性など持ち得ないことを主張します。
このことについて授業終了後に院生の質問がありました。それは、ドレイファスなどは認知科学の進歩についてどう考えているのか?——私は不 確かながら、それらの研究に対してこれらの一派は全然興味をもっておらず、せいぜい人工知能の 隣接領域科学ぐらいしか考えていないのではないかという臆見を述べました。
【さらに3名の会話】——文献はウィノグラードとフローレス(1989:181-182)からです。
● ワイゼンバウム
「「今晩、夕食を一緒にしていただけませんか」という文章の意味に対応する、概念構造を作ることはできるかもしれない。しかし、[そのよう な]構造を使って、この文章は、内気な青年が死にもの狂いで愛を告白している言葉であろうとことを、どのように知ることができるのか、私にはわからない」 (Weizenbaum 1979:200、 邦訳p.232)
◎ マッカーシー
「この例は興味ある問題を提起しており、少し区分しておく必要がありそうである。文を完全に理解するとは、まさしく若い男が愛を求めている ことを知ることだろう。しかし機械が、彼が彼女に食事に来てほしいと望んでいることを理解するだけでも、より簡単とはいえ、役に立つ理解のレベルと言えよ う[McCarthy 1976:86]」。
▲ ハンス=ゲオルク・ガダマー
「状況と機会に対する相対性こそが、会話の本質である。どんな言明でも、言語的あるいは論理的構成のみで意味が確定することはありえない。 すべては、動機づけられているのである。各言明の背後には問いがあり、それが第一義的に、意味を付与しているのである[Gadamer 1976:88-89]」。ここでの文献は『哲学的解釈学』(英訳はデビッド・リンジ、カリフォルニア大学出版局による)
【文献】
ノーマン、ドナルド・A.『エモーショナル・デザイン』岡本明ほか訳、新曜社、2004年
ワイゼンバウム、ジョセフ『コンピュータ・パワー:人工知能と人間の理性』秋葉忠利訳、サイマル出版会、1979年 (Weizenbaum, J., 1976. Computer power and human reason: from judgemento to calculation. San Francisco: W.H.Freeman.)
ドレイファス、ヒューバート・L.『インターネットについて:哲学的考察』石原孝二訳、産業図書、2002年
ウィノグラードとフローレス『コンピュータと認知を理解する』平賀譲 訳、産 業図書、1989年
【作図】
● 人工知能(池田光穂)
● 異本:イライザの父の怒り(授 業オリジナル版)