はじめによんでください
恋愛の人類学・戦記
Chronicle of an ethnographic research on MOE(萌え) in Modern Japan
このページは、ヲタク(おたく)と呼ばれているライフスタイルを選択した人たち(=男性が多いが両性に開かれてる)についての、民族誌学(エス ノグラフィー)に関する私の研究の途中経過に関する報告である。記述のスタイルは体系的なものではなく、その都度の備忘メモの形をとる。
■「萌え」の定義から……
Moe (萌え, pronounced [mo.e], literally "budding", as with a plant) is a Japanese slang word originally referring to a strong interest in particular types of character in video games or anime and manga. For example, 眼鏡っ娘萌え, meganekko-moe, "glasses-girl moe", describes a person who is attracted to fictional characters with eyeglasses. "Moe" is also used within anime fandom as an interjection. [Soucre: http://en.wikipedia.org/wiki/Moe_(slang)]
「「萌え」とは、アニメなどのキャラクターに恋をすることだ。恋をするというのは、単に好きだということではない。キャラクターに対して、 まるで人間相手と同じように恋をするのだ。人は恋なしでは生きられない、これまでも無数の人が恋に生き、恋に死んでいった。しかし、人類の歴史のなかで、 初めて 人間が生物でもないものに恋することを始めた。それが萌えなのである」(森永 2005:36)。——つまり森永によると萌えは恋愛概念の拡張、より正確には恋愛の対象の拡張のことである。
■ 恋愛の人類学(れんあいのじんるいがく)
2009年12月16日桜美林大学(東京都町田市)2時半から明々館A204教室で開催される、文化人類学研究会第1回講演会として、招待 された小説家の本田透さん(1969-)の対談相手の文化人類学者として私がご指名を受けた、その当のタイトルがこれである。
講演会のサブタイトルに「二次元恋愛は現代の恋愛への宣戦布告か?」となっている。これは『萌える男』や『電波男』の作者である本田さんが 言うところの「恋愛資本主義」——そこではブサメンやキモメンの恋愛のできないヲタクたち(正確にはフツメンも含まれるが)が女性たちへ貢ぐ資金が、その 女性を経由して[女性が貢ぐ]イケメンに最終的に流れるという究極の「搾取構造」が支配する——に対抗した「循環型」で平和主義を基調とするアニメやゲー ムに「萌える」二次元恋愛の提唱にもとづいている。
つまり、桜美林大学人類学研究会の若い学生たちが言うところの現実の恋愛——本田流では三次元恋愛——と二次元恋愛を、あえて論争的な対立 概念として位置づけて、そのことについて人類学的に議論しようとする、たいへん真面目な企画なのである。
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桜美林大学人類学研究会の手になるポスター:図の少女のイラストは「桜美林大学オタク研究会」の協力によるという(素敵!)
■ ネットは日常生活における感情体験をエンハンスする?
とりあえず文献を見つけてきた。
渋井哲也「ネットをめぐる人間関係:ネット恋愛、ネット心中のフィールドワークから」『セックスという迷路:セクシュアリティ文化の社会 学』井上芳保編、Pp.187-214、東京:長崎出版、2008年
■ 電車男はクラウドソーシングだ!
クラウドソーシングの定義:電子的あるいは非電子的に関わらずネットワークを経由したクラウド(群衆)による解決をもとめる情報処理システ ムのことである。ソーシングとは、ソース化つまり資源を求めるという意味で、ここでは解決法を求めることを意味する(例:アウト+ソーシング=外部に解決 をもとめる)
一般的にクラウドソーシングの成功例としては、リナックスなどのオープンソースやウィキペディアなどがあげられる。つまり、ネットワークを 経由して、自発的な協力者(昔からこういう連中はボランティアと言われてきた)による僅かな協力(little help)の蓄積により大きな力を生み出そうというものである。
文献は、ジェフ・ハウ『クラウドソーシング:みんなのパワーが世界を動かす』中島由華訳(ハヤカワ新書)、東京:早川書房、2009年
■ そして、恋愛妄想そのものがクラウド・ソーシングなのである!
■ 『電波男』の著者あとがきは恐し
講談社文庫版の電波男の著者後書きは恐い。そこには本田氏と癌で夭折した母親とのやりとりが書かれている。ここでの記述は、本田氏本人が電 波系になったのは、この母親のネグレクトか歪んだ?関係性にほかならいことを、当の本人が吐露しているからである。本文の軽い、馬鹿なノリノリが、ここに 来てぐっとシリアスになるからだ。でも母親が癌で死んで生命保険が入って、大検受けて、ここで頸木がはずれて解放されるはずなのに、これじゃ、虐待を受け た子供は虐待を繰り返す、結婚に失敗した家庭に育った子供は成人になっておなじことを繰り返す、というおなじみの犠牲者非難という予言の自己成就じゃない ですか? こういうのはやになるな。あとがきにつづく竹熊健太郎の「解説」は、本田氏に対する優しさに満ちあふれていて、ここでなんとか救済されたような 気になる。2009年12月1日
■ 高橋源一郎による書籍版『電車男』の講談社(あるいは中野独人という講談社がつくりあげたフィクショナルエージェント)編集方針 批判
これは本田透『電波男』(講談社文庫、295-296ページからの引用)。
「『電車男』は、正確には、3月14日から5月17日にかけての「物語」だ。しかし、この本は、掲示板に掲載された最後の日を素知らぬ顔で 削除し、その前日までで完成させている。……なぜなら、ネット上の「電車男」は「大団円」になってもなお登場し、「エルメス」との性交寸前の行為を書きこ む。それまで応援していた住人たちは、戸惑いを隠せず、そんなことは止めろと忠告をする。だが暴走しはじめた「電車男」は、それを無視するのである。…… なぜだ? 住人たちを騙し果(おお)せたことで、凱歌をあげたくなったのか? それとも、いつの間にか、掲示板上で拍手を浴びることが、彼の目的となって いたからか? 不可解なミステリーになるはずの「5月17日」を消し去ることで、この作品は、見事に「純愛」の顔つきをすることに成功している」(朝日新 聞 2004.11.28)
本田は最後を隠すことでどのような解釈を許すという主張へと脱線するが、それでよいのだろうか? むしろ、本田の路線で議論を進めるのな ら、セックスを隠して(ありもしない)純愛路線で売り上げをあげるのが恋愛資本主義の姑息な手段なのだ、というところだろう。しかし、イケメンのセックス は豚のブヒブヒで、ブサメンやキモメンの萌えはそうではないという二元論を維持するので、すべてのセックスはブヒブヒにほかならないと居直れない。萌えと 恋愛資本主義の間のあり得ない境界があるとあくまでも言い張るのである。このあたりはなにか、釈然とはしない。
■ 本田氏による女性評論家への評価
本田氏の執筆エネルギーのほとんどは酒井順子『負け犬の遠吠え』と倉田真由美『だめんず・うぉ〜か〜』でとりあげられた、オタク(ヲタ) バッシングへの反撃から来ている。そして、その反撃の理論的?根拠となっているのが三砂ちずるのオニババ化する負け犬女の怪物説である。この三者の「女 流」エンターテイナー議論は、あえてまじめに取り上げるほどのない茶飲み話だが、たぶん、非難の矢面にたっている被差別毒男にしては、やはり「反抗の声」 をあげるべきと立ち上がったのだろう。だから、本田氏に賛同し、熱心に本田理論を咀嚼するファンが(女性でももちろん)多いのだろう。
声の代弁者、雄弁家としての本田氏の著作を考えるとどうだろうか?
他方で、酒井順子や倉田真由美の主張そのものが、まったく見下げた「恋愛=女の経済的社会的威信の向上のための自己正当化論あるいは手段を 選ばない目的正当化論」だとしたら、本田さんは、まったくその仮想敵のレベルの低い次元での戦いを挑んでいることになるのでは?
そのためには、本田理論の洗練化が必要であり、酒井や倉田の馬鹿馬鹿しい議論を真に受けないほうがよいのでは?(もちろんその議論の犠牲に なっているヲタクを支援し、エンパワーすることも重要だが)
■ 森永卓郎の位置づけ
岡田斗司夫(1958-)とならんで本田氏との盟友関係にあるのが森永卓郎(1957-)である。両者(つまり岡田と森永)には『オタクに 未来はあるのか!?:巨大循環経済の住民たちへ』(PHP研究所,2008年)があるし、後者には要領を得た『萌え経済学』(講談社, 2005年)がある。
森永『萌え経済学』はいい本である。わたくしによるそのおいしいところの拾い読み。
・萌え市場の規模は、浜銀総研による資産よりも大きいというのが森永の主張(→31ページ以降)
森本・岡田(2008:66)による森本の主張だと、浪費型の恋愛関連産業の市場規模は55兆円で、これにくらべるとヲタク産業の消費 行動は、自己消費が中心となり(大きな規模を期待しつつ)「循環経済」でより好ましい経済活動あることを示唆している。
・悩むアムロのリアリティが萌え概念と結びつく(38ページ)
・森永説によると、萌えは恋愛市場から疎外された人たちの間で生じた現象であることを示唆する文章がある(45-46ページ)
・本田透『電波男』からの引用(53ページ)
・メイド喫茶(→本田理論だと2.5次元空間)にみられる「自己規制」というのが萌えの徳目になっている(81ページ)
・韓流と萌えの共通点:直接の性行為が問題ではない、恋愛対象の非生活感つまりキャラクター性、こだわり(95-97ページ)
・萌え現象と、「次の成長産業の喪失」との関係(114-115ページ)
・アート、イタリア、萌えのあいだの共通性(第3章に通底するテーマだが、113ページ以降)
・ヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』(金森誠也訳、講談社学術文庫、2002年)[→森本センセイにすすめられてよんだが、 本書の議論の全体の表象の妥当性には疑問。また原著もそれほど面白いものではない。ウェーバーと好対照](145ページ以降)
・恋愛=ハレ論(150ページ)
・悪女を口説くのに「あなたが一番好き」といってはならない「あなたしかみえない」というのだ、という議論は卓見、しかし、こういう文脈の 中に男性ならぜったいにはまりたくもないよね。金も命もむしりとられるはず(151ページ以降)。
・悪女ビジネス(ああ名前をいうだけでもおぞましいね)の第二段はブラックホール型マーケティング(153ページ)
・悪女はつき合う相手に不安をいだかせ、男性を非理性的な従属関係におく(→応 用ヘーゲル主義の改良型ヴァージョン)
・森永先生の香山リカ批判(198ページ)つまり、香山は萌えと性的倒錯を同一視するという誤謬に陥っている、は、まあ正しい。香山は世間 の道徳のあるスタイルを再生産し擁護するだけの専門家なので、こういうレベルの低いことに首を突っ込んでほしくないが、たぶん本田透と同様、ヲタクの権利 擁護という大義にもとづいて行動しているのだろう。みあげた高潔な実践ではある(198ページ以降)。
■ 実行委員会2009年度委員長である高城君からのリクエスト
高城君から学生の事前勉強会での『萌える男』への疑問・コメントの骨子が送られてきました。以下の3点である。
1.純愛とはどのようなものか?
2.『萌える男』で語られている恋愛の概念がよくわからない
3.萌えている時とは、どのようなことをさすのか?
■ 『萌える男』を池田が読んだときに、書き記したメモ
(この対談の主催者たちが言うように)著者である本田透は「二次元恋愛ではない恋愛」(=「現代の恋愛」)に本当に宣戦布告しているのだろ うか? 現代の恋愛を象徴するのは、むしろヲタクという恋愛の「前衛」(アヴァンギャルド)たる彼らの二次元恋愛ではないのか? つまり、それが何の宣戦 布告の意味がないとしたら、告発する側(=桜美林大学人類学研究会)は、どこかに過剰防衛していることになりはしまいか。
じっさい「二次元と三次元は両立可能」と称したセクション(197ページ以降)がある。
二次元恋愛をふくむあらゆる恋愛に妄想的性格(=スタンダールの恋愛論における「結晶化」)があるとすれば、ヲタクの二次元恋愛はなんら特 異なものではなく、いわゆる「現代の恋愛」のひとつのヴァリエーションにすぎないのでは?
夢や妄想の効用は、恋愛の感情をより強くドライブすることである。万葉集にもある。「夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻きて探れども手に も触れねば」(万葉集 741)。つまり元祖、萌える男・萌える女は飛鳥・奈良時代からいたことになる。
■ ちくま新書版『萌える男』2005年の章立て
1章 萌える男は正しい
2章 萌えの起源:現実世界における恋愛の限界と恋愛資本主義
3章 萌えの心理的機能
4章 萌えの社会的機能
5章 萌えの目指す地平:家族の復権
6章 萌えない社会の結末:家族の解体
■ 意外と保守的な本田透の萌え理論
「萌え」とは自分でおこなう自己救済、と本田さんの議論は、家族の復権といい、その啓蒙主義的な自己陶冶といい、結構、保守的な家族観、人 間観をもっている。
■ 自らをマルクス、バクーニン、ソレルに擬し、恋愛資本主義に挑む本田氏
本田氏がにくむ現代の恋愛制度こそが「恋愛資本主義」であるが、『萌える男』の冒頭からはやくも死亡宣告がなされる。にもかかわらず、最後 まで格闘しているところをみると、「お前はもう死んでいる」と宣言しても、その手強い相手は次々と手を繰り出してくるからだろう。
他方で、恋愛資本主義体制下では、男性はすべて女性に搾取されるという主張もある。「恋愛資本主義社会では、男性は女性に消費生活の楽しみ を与えるための下僕なのだ」(本田2005:48)本田(2005)=『萌える男』(66ページ)
■ 純愛ブーム
韓流にみられる純愛ブームは、その映し鏡としての萌えにつながる(→森永卓郎氏と同じ議論)
■ 露骨な男根主義に対する抵抗としての「萌え」
本田氏によると、非ヲタクの恋愛をセックスに直結する考え方は、スーフリレベルの鬼畜にほかならないとも・・
鬼畜ルートについては(158ページ周辺)にも詳しく説明があり、最終的に「萌え」と「鬼畜」はハルマゲドン的対立の様相を示す。
■ 岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』
岡田によると資本主義社会の後には、自由洗脳社会がくると(本田2005:51)
■ バトーさんは萌え元祖?(→84ページ)
■ エヴァにみるヲタク三代要素」SF、ロボット、萌えキャラ(95ページ)
「シンジが欲したものは、ただ、自分の横にいてくれる生身の女の子だった」(98ページ):ん〜?これって本田氏じしんの気持ち(=願望) なのでは?
私(池田)にとっては使徒というとんでもない超越論的存在が気になるのだが、どうも本田さんはそういう見方をしないわけだ(100ページ)
■ ルサンチマン・岸田秀・ニーチェ
本田氏のルサンチマンをめぐる議論は、ニーチェのそれというよりも、どちらかと言えば、岸田秀のそれでは?(117ページ)
■ 多型倒錯としての萌え
萌え=恋愛のメタ感情=多型倒錯(114ページ)
■ ゲーム論
ゲームの特徴:物語の細部の自律性(オートノミー)、開かれたテキスト、バフチン的なポリフォニー(146ページ)
■ ロボット萌え
「愛情を注ぐことができて癒しを与えてもらう対象であれば、それは実は人間以外でもかまわないという思想である」(147ページ)
う〜ん、ここのあたりは『開運!なんでも鑑定団』に出てくる定番の、家族(特に奥さん)のことなどおかまいなく骨董趣味にあけくれる馬鹿な オヤジとどこがちがうのかという所感を捨てきれない。これは思想ではなく、いわゆるモノに執着する「〜きちがい」と過剰な趣味嗜好のことに他ならないので は?
もしそうであるなら、ヲタクは恋愛資本主義からは脱却できたけど、萌える男はキャラに主題化されたモノ資本主義からは脱却できていないので は?
■ 萌えによって男性は少女化したのか?
「「男は男らしく、女は女らしく」というジェンダーの神話は、80年代フェミニズムの台頭によって相対化された。その結果、女性の社会進出 が加速されたわけだが、その一方では男性の少女化というルートの可能性も大きく開けたわけだ。それこそが今、「萌え」と呼ばれているムーブメントなのであ る。男性性の神話に圧迫を感じ、そこから解放されたい男にとって、「萌え」は一種の精神的オアシスとなるのだ」(152-153ページ)
この理屈の問題点は、男性か女性かという二者択一のものかしないので、男性性を中和するのが女性化とされているが、むしろ多型・多形化の可 能性を考えていない。そのような二者択一にもとづく説明なので、少女化した男性としてのヲタクは相変わらず、男性文化のヴァリエーションにすぎない。女性 の鉄道ヲタクがわざわざ「鉄女」とジェンダーによって印づけられなければ、鉄ヲタのデフォルトは相変わらず男性のままだからである。
■ 『電車男』のテーマが相変わらずヲタクバッシングやヲタク世界からの脱却をす すめるプロパガンダである(という説)
『電車男』のテーマが相変わらずヲタクバッシングやヲタク世界からの脱却をすすめるプロパガンダであるという本田説(153ページ以降の議 論)は、正鵠を得ていると思われる。このあたりの分析は鋭い。
電車男が完全に大衆の消費物にされてしまったという指摘は、180、192ページページ前後にも登場する
■ 純愛復興運動
「恋愛関係や家族関係の中に一度は相対化されて無効化されてしまった「純愛」という概念をふたたび見いだされなければならない、という欲求 が高まってきたのだ。「萌え」もまた、「純愛」を復興しようという運動なのだ」(179ページ)
■ 3つの教え
1.萌えの流行は社会的なものであり、ヲタクを責めるのは間違っている
2.萌えることで、さまざな社会的効用がある
3.萌えは、恋愛と家族を復権するための精神運動
この記述は、201-202ページにある。
■ 本田理論には親衛隊の存在が?
森永と岡田の対談本『オタクに未来はあるのか!?:巨大循環経済の住民たちへ』(PHP研究所,2008年)の記述によると、本田氏には親 衛隊の存在があり、本田氏が、いわゆる普通の恋愛をしたいと心境を吐露すると、会場からブーイングが湧くそうだという。畏るべし!(森永・岡田 2008:88)
■ アンダーグラウンド経済としてのヲタク産業
(ヲタクを含めた)オークションは、森永によると本来の市場メカニズムに近い動きをするという(ホント?)。個人間の取引なので課税対象に なりにくい(=実体上脱法)という。ヤフオクの規模は1兆円程度で、ストアの規模はその半分、残り半分が個人ベース。オークション経済の数字は経済成長や GDPに反映されないと。また、岡田によると、コミケは毎回50憶程度の金がうごき、会場使用料や同人誌の印刷会社に数億が動く。しかし同人誌の作者はそ れほどもうかっているわけでもないし、営利原理で動いているわけでもない(森永・岡田 2008:99-100)。
マーケット規模は零細だが、逆に乗っ取りなどもない、平和な世界とも。
新古典派経済の生産関数 Y=f(K・L)
Y:生産物の量、f:生産関数、K:資本、L:労働力
・「『電車男』によるオタクブームはもう過ぎたんだと思います。ある意味で、そういう秋葉原とかのオタク産業は、今、選別に晒されているん だと思います」(森永・岡田 2008:130)
・岡田「……恋愛文化が終わって、男子的なオナニー文化にこれから戻るんですよ。デート・彼女・セックスっていう三種の神器が崩れて、オナ ニー・妄想・ネットっていう新しい独身男性の三種の神器が(笑)」(森永・岡田 2008:143)。
・森永「おたくは本来、外部のメディアに価値観を強要されたりはしないですよね。/ただ最近は、大手メディアの影響ではないけれども、ネッ トの流れとか人の意見にながされがちなライトはおたくというのものも増えてきてしまっている気がします」(森永・岡田 2008:154)。
・岡田「10年スパンでおたく業界を見てきたら、意外と思うかもしれませんが、この10年を代表するような作品が5年以上生まれてきていな いんですよ。ということは、そんなものはないんだと、考えざるをえないのですね。……この10年でおたく業界の最大の変化は、ネット化と、メイド喫茶、こ の二点に尽きる気がします。つまり環境化がキーワードなんです。唯物的とでも言いますか。作品という架空の世界に自分を投影するんじゃなくて、架空のもの が現実となる世界を欲している」(森永・岡田 2008:156-157)。
快戦中(2009年12月16日14時半〜16時)・戦後の記録
■ 友人にあてたメール
学生が150人も来てくれて立ち見と廊下座りの観客もあり、私の対談相手の作家さんはちょっと対人恐怖症気味でしたが、関西出身なのと、お たくネタで学生がどわーともりあがり、最後は滑舌状態、しつもんも(いつもの授業での学生のリアクションとはうってかわり)オタクネタでガンガン質問がき ました。ホストの先生も満足、運営委員会の学生も満足で打ち上げも大ブレイクでした。やってよかった〜!!
■ ツイッターに投稿した情報
桜美林大学、本田透氏対談形式講演会「恋愛の人類学」参加者壱百五拾名余満員御礼、懇親会終了後只今投宿先帰還。ヲタネタ満載、拙僧超学 習、ヲタ歴史的存在変遷、深淵議論必要、友愛的社会的紐帯再想像必要有、桜美林大学人類学研究会万歳 http://bit.ly/6B6Nnh
■ べつのメール
自分の専門外でのイベントであんなにうまくいくとは思わなかった。
観客(桜美林大学の学生さんたちを中心にする人たち)との相性がよかったのだろう。フィードバックペーパーも9割以上が好感、2%不満(恋 愛の人類学ではなくオタクの人類学だった!)白紙3〜4%ぐらいだったでしょうか。
■ 当日遭遇したことで興味深いこと
幼児ポルノアニメ/マンガ表象との関連性があるのでそれを規制しようとした当時のオピニオン・リーダーだったアグネス・チャンに対する、参
加者からの強い反発の意見がありました。ただし、これはこの2次元恋愛に関するシンポジウムとは直接関係ないことから、その発言が出たときには、会場から
まばらではあるが、批判に対する喝采と拍手がおこったことは銘記されてもいいだろう。
■ ただいま建築中n
■ 女と男の人類学
人間の恋愛のパターンに普遍的な共通性があるとナイーブに信じる人類学者はあまりいないと思うが、男女のあり方や、性行為の帰結として子育 てや男女の成長という生物学的な共通性を参照として文化(ここでは恋愛に関する文化的パターン)の多様性について明らかにしようと野望を持たない人類学者 はいないだろう。女の男の人類学とは、人間の人類学にほかならない。学問のなかの王道的テーマのひとつではある。
■ リンク
■ 文献
恋愛の人類学 2009年12月16日(水曜日) 午後2時半から午後4時まで 桜美林大学(東京都町田市) 明々館A204教室 メインゲスト:本田透(ライトノベル作家) インタビュアー:池田光穂(文化人類学者) |
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