国際通貨基金
International Monetary Fund
国際通貨基金(International Monetary Fund)
1945年に発足した、ブレトン・ウッズ協定によって世界銀行とともに設立された国際的短期金融機関で国連の機関のひとつ。 国際金融の安定と円滑化を目的とする。
目的:為替相場の安定、為替の自由化(→多角的決済制度)
最初のねじれ:ケインズ案<対>ホワイト案
ケインズ案:世界的中央銀行を含む国際精算同盟を目的
ホワイト案:為替安定を目論む基金
アウトカム:為替相場の安定には成果がみられない。為替の自由化は60年代中頃には目標達成。
SDR(特別引出権、Special Drawing Right)
金、ドルに次ぐ世界通貨。従来のIMF感情を一般引出権(GDR)と区別する。GDRは加盟国がプールしてある基金を利用する権利であ るのに対して、SDRはそれを必要としない。
特別引出権の発行総額が決まると、加盟国の出資割当額に比例配分されて、IMF内に設けられた特別勘定に振り込まれ、貸借記帳により使 われる。
国際収支の悪化し、外貨が必要となった国は、SDRを国家間で譲渡して必要な外貨を調達できる。SDRを受け取った国はIMFの通貨提 供の指示に従い、IMFを通じて利子返済をおこなう義務が生じる。
世界開発思想史年表(IMFだけに止まらない)
※ページ数は、開発人類学 : 基本と実践 / リオール・ノラン著 ; 関根久雄 [ほか] 訳,東京 : 古今書院 ,
2007.9(Development anthropology : encounters in the real world / Riall
W. Nolan, Boulder, Colorado : Westview Press , 2002)より。
1945-1973 ブレトンウッズ体制
「西洋古典派経済理論は低開発を単純かつ明解に説明する。すなわち,低収入から低貯蓄率が生じ,低貯蓄率であるがために低投資率が生じ
る。
そして,抵投資率は生産,雇用,そして究極的には収入の成長を阻害するというものである。それゆえ初期の開発思想は,資本の利用すなわち資本をどこに投入
し,どう用いるかということに集中していた。さらに,開発資本は外部から来る必要があった。ゆえに「外国援助(foreign aid)
という語がある。資本によって融資された技術も,多くの場合外来的なものである。生産を増大させるための経営(管理)システムは,西洋の成功したモデルに
由来する」pp.41-42.
1945-1955 Marshall Plan期の援助(1945-1955)
Marshall Plan
そのものは1949~1952年。1948年まで世銀はラテンアメリカ諸国に貸付。ポイント・フォー:トルーマン大統領就任演説「ポイント・フォーは,第
1 に,とくに東アジアにおける巨大インフラ・プロジェクトへの技術支援供与に集中した。1950
年にポイント・フォー計画を権威づけた「国際開発法」(Act for International Development)はまた, USAID
の前身である「技術協力庁」(Technical Cooperation Administration) を創設した。」
1950 Technical Cooperation Administration, by the Act for International Development, USA
1955-1970 Tech-Fix
「開発業界は急速に成長した。アメリカでは, 「相互安全法」 (MutualSecurity Act) (1953~61
)とそれに続く「外国援助法J (Foreign AssistanceAct, 1962-72
年)が,開発援助を推し進めるための権限と手段を提供した。農業貿易開発援助法(U.S.Agricultural Trade
Development and Assistance Act,通常PL480
として知られる)は,「平和のための食糧」計画をうち出した。そして1960 年代初頭には,平和部隊が誕生じた。」p.45
1959 USAID創設、米国国務省:米国議会に説明責任を負う:提供情報量はCIA報告の次に匹敵
1960 Rostow’s Take-Off model(→Rostow's stages of growth)
「開発の問題は,第1
に,いかにして速く大規模で持続的な成長を刺激するかの問題とみなされるようになった。こうした成長は国全体に利益を与え,その利益は比較的合理的で平等
なやり方で分配され,その分配が全体的福利を促進するものと仮定された。計画立案者は,投資が増大し,製造部門が成長・繁栄し,それを支える国家機関がさ
らなる成長を支持するような,「離陸 Take-off」を望んだ」p.42
60年代 為替の自由化の達成
1968 SDR(特別引出権、Special Drawing Right)
1970 第一次SDR創出
1970-1980 Limit of Foreign Aid,
「1968
年にロバート・マクナマラが世界銀行総裁に就任すると,極貧層のニーズに焦点をあてることと並んで,開発事業lこおける公平性の問題がクローズアップされ
た。USAID 内部でも,同様の思考の変化がおこっていた。1973
年に合衆国援助法は,人々に最低限のレベルのベーシック・ヒューマン・ニーズ(食糧,住居,仕事,医療,清潔な水など)の充足を目指す,「新しい方向」
(New Direction)
をうちだした。貧困と剥奪にこれまで以上に焦点をあてることで,計画立案者は経済成長のための諸条件をつくり出し,同時に成長の利益分配において公平性の
観念を広めようとした」p.49
1970年代
「1970 年代は草の根開発ヘ向かいはじめた時代であった。統合的農村開発(integrated rural
development,あるいは今では地域計画とよばれるもの)という考え方が試された。サービスと政策決定の分権化が多くのフロジェクトの特徴であっ
た。「計画と実施へのコミュニティ参加」が合言葉となった。そして,開発と女性に関わる問題への関心,および計画のあらゆる側面において環境への配慮が強
調された」p.49
1971 8月、ドルの金兌換の廃止による実質的なブレトン・ウッズ体制の崩壊
1971 12月スミソニアン協定
1973 10月第四次中東戦争
「1970 年代のオイル・ショックEnergy crisisがもう1
つの引き金である。豊富な余剰資金を抱える石油輸出国機構(OPEC)
諸国は,巨額の資金を欧米の銀行に移した。そしてこれらの銀行は,その資金を運用する必要が生じた。銀行は,部分的には,返済する能力もその意思も疑わし
い国々に,疑わしいプロジェクトのための資金を貸し付けることで,融資を実行した。そして, 1982
年までに,メキシコ,アルゼンチン,ブラジルが債務不履行に陥り,債務危機が公になった。1970 年に第三世界諸国は,輸入で稼いだ1
ドルのうち約10 セントを債務支払いに充てていた。しかし, 1986 年までにこの割合は2倍になった。その年,第3世界の債務は約1
兆ドルに達した。やがて,債務支払いで欧米に流入する金額が,融資と投資で第3 世界ヘ向かう金額よりも大きくなった。」p.50
1978 金廃貨
1979 第二次SDR創出
1980-1987 構造調整の嚆矢
「構造・部門調整融資(Structural adjustment)は,
(債務)支払いのバランスを是正するために,国々の経済政策・構造を矯正することを目的とする。構造・部門調整融資の目的は,事実上,ある国の経済構造を
変え,収支を均衡化し,それによって発展のために用いることのできる資源を国内で解放することである」p.52。「構造調整融資は1980
年代に世界銀行とIMFではじまった。マクナマラ世界銀行総裁の後任であるクラウセンのもとで,調整融資は銀行債権の9% (1983
年)から1987 年には23%
ヘ大幅に増加した。「政策に基づく貸し付け」ともよばれる構造調整は,受容国をグローバル経済に引きつけ,国内経済政策をこのグローパル経済の需要と目標
に適合するように調整する効果をもつ」p.52。「政府は,その収入の範囲内で支出し,すべてではなくとも大半の助成金を廃止し,ビジネスを自由に活動さ
せる。そして,効率の悪い国家事業
を閉鎖し,価格が市場レベルまで上がるのにまかせ,為替相場を現実に即したものに保つべき,というものである。」p.52。「政策に基づいた貸し付けは,
概念上非常に単純である。ある国の国庫に現金を移転させることと引き換えに受容国政府はその経済,行政,物事
を進めるやり方において十分に大きな改革をおこなうことに合意する。プロジェクト融資は特定の事業に結びついた特定のコストのための資金を提供し,部門融
資は同様のことを同じ一般的タイプに関連する一連のプロジェクトのためにおこなうが,構造調整融資は金利,為替相場,関税率など,国家規模(あるいはたぶ
ん部門規模)の変化を条件とする。金は,通常,プロジェクト費用を払うために支払われるのではなく,輸入のために支払われる。それゆえに,構造調整融資は
他の形の開発援助とはまったく異なるものである。」p.52。「構造・部門調整融資は,ますます,開発財政と技術援助を方向づけ,受容国への機関の影響力
にテコ入れするために使われだした。政策に基づ
いた貸し付けは,原理的には個々の国がおかれている状況に見合うように実行されるものだが,緊縮経済の方策(たとえば,公務員の削減や政府支出の抑制),
国営企業の民営化や規制緩和,貿易自由化,金融政策の変更(平価切下げ,信用改革など),行政の脱集権化などを含む,非常に画一的な処方箋のセットを推進
する傾向があった」p.52
-1991 冷戦期が終わる
「開発援助は,アメリカにとって世界の新興諸国においてソビエトの脅威(現実のものであれ,認識上のものであれ)に対抗する手段とみな
され るようになった」「1950から60
年代に多くのアメリカの援助が台湾,韓国,フィリピン,南ベトナム,エジプト,イスラエルに供与された理由は,まさに超大国間の対立であった」
1991 ワシントンコンセンサス
世
界銀行ならびにインターアメリカン開発銀行からの国際融資を受けるために1991年以降導入している構造調整政策
初期の構造調整政 策への批判と解釈は以下の7点にまとめることができる(出典:「グアテマラ西部高地における先住民コミュニティの自治」)
1)構造調整政策の有効性の範囲の不明確さ:海外からの財政政策への介入は、国際社会と当事国との「合意」にもとづいているはずなのに、国 家
主権の侵害とみなされた。このことは政策の成否の国際的判断に混乱をもたらした。それゆえ政府の財政担当者は成功すれば国際協調した自分たちの業績とみな
し、失敗すれば外国や国際金融機関の責任に転嫁できた。
2)経済効率を高めるためにとられた民営化政策への批判:経営の効率化のために最初に犠牲になるのが労働者の人員整理や解雇であり、失業率が
上昇した。
3)現地農業の市場経済化への加速:小農経営に利する点が少なく大規模経営者による買収や、アグロビジネスの参入により作物転換や農民経営へ
の私企業のコントロールが増加した。
4)経済優先のための自然環境悪化:天然資源開発や観光振興など環境負荷産業が増大した。
5)緊縮財政による公共福祉サービスの低下:小さな政府による財政の緊縮が、とりわけ福祉公共サービスの予算の減少や、公共セクターの民営化
をもたらした。それゆえ経済的貧困層には、医療費や公共料金の負担増を招いた。
6)女性労働力の市場参加によるジェンダー構造の変化:マキラドーラ(関税減免などの恩恵特区における労働集約型の軽工業団地)などの女性向
けの賃労働化による、家計に対する女性労働力依存の増大をもたらした。
7)経済機会獲得のための自発的・非自発的な移住の促進:規制緩和などを通して政府が企業の自由な活動を優先したために、工場の移転や業務内
容を急速に変化させたために、労働者の雇用調整をより弾力化したために、労働者の移動・移住を加速化させた。
1997 アジア通貨危機
2010 世界人口69億人
2050 世界人口推計90億人
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その他の情報
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