批判理性の鍛え方
How to animalise your critical inquiries
解説:池田光穂
新興諸国における社会福祉と統治性を考えかつそれについて議論する我々の 前提について問うてみよう。我々は、一方で当事者の自己決定能力を信じ、仮に善意であってもそれを疎外するパターナリズム 批判をおこない、パターナリズム からオートノミーへという代替案を暗々裏に示す。我々はヨーロッパで2世紀以上も鍛えられ てきた啓蒙主義にもとづく批判理性を、第三世界に適用するのだ。 この時の我々の眼は、覚醒した民主主義の精神に則った白人の立場から第三世界を、多かれ少なかれ見ているかのようである。
しかし他方で我々は(パターナリズムであってもオートノミーであっても)医療や 福祉を統治のモデルとして見なすという結論をあらかじめ準備し ているのではないかと気付くかもしれない。あの懐かしいフーコーの呼び声に応えることだ。そ れはもはや、我々がもつ紋切り型の文化が提供する批判理性の立 派なレパートリーのひとつになったと言っても過言ではない——学生がやる批判を院生がたしなめるように。しかし、このような耳年増化はチャールズ・ライト・ミルズ流の 精神からみると反動の極みを免れ得ない。
この種の常識の確認、デジャブの自己演技、あるいはより客観的にはトートロジーから逃れる方法はあるだろうか。ひとつには、勝利者や生者に よって書かれた歴史を信じることをやめて、かつ安っぽい陰謀理論に蠱惑されることを避け、破綻し社会的信用を失った過去の学説、現在になりつつある過去の 〈ユートピア〉言説、シャーマンが語る〈亡者からのメッセージ〉に耳を傾けることではないだろうか。地域研究における民族誌学的方法は、それにうってつけ の役割を果たしてはいないだろうか。
別の処方箋も考えられる。少しばかりレトロ化した反体制的批判理性の行使つまり、C.W.ミルズ流の精神を我々は、研究対象の当事国の研究者(専門家) とシェアすることで、いま再び、知識人が専門性やナショナリティの枠を超えて「協働」することはできないだろうか。このようなテーマの共有は、当該国双方 の歴史事象のリビジョニズムと、そこから得られたまなざし(=批判理性)を向ける(=行使する)現在の政策への言説実践上の介入である。医療と福祉につい て考える際には、なぜかつての実行者たちはそのような医療のシステムで巧くいくと思いこんだのか、計画に巻き込まれた人たちはなぜそのような話に乗ったの か、あるいはそこに見られる実践と理念の調和や不協和を人々はどのように説明してきたのかについて再構成しつつ、現世に生きている当事者——彼/彼女らと 過去との人達との認識論的距離は調査者にもそれほど強い本質主義でも信じない限りハンディがあるように思えない——との対話を拓く地道な作業しか遺されて いないのではないか。
地道だが、これまで(個々のフィールドワーカーが竃の火に当たりながらインフォーマントと談笑しながら実践することを除いて)誰も真剣にやら なかった、この談話をより広い公共の現場に押し戻す工夫をすることを通して、およそ1世紀の前にウェーバーが取り組んだ、学問と政治の実践にまつわるジレ ンマの新たな克服を我々は目指すべきなのである。
アジア経済研究所「新興諸国における社会福祉と統治性」研究会、2011年7月
クレジット:批判理性の鍛え方:新興諸国における社会福祉と統治性を考える:池田光穂(大阪大学名誉教授)
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