人類学の「効用」
On utility of understanding
cultural anthropology
解説:池田光穂
先に私が述べたように『サモアの思春期(Coming of age in Samoa, 1928)』を読解
しようとする際に、人はこの書物が、それぞれ異質な二つの記述が混合したものであるという印象を得る。タウ島の思春期の少女たちの奔放な生き方とその理由
について探究した民族誌、そして、サモアの少女の生き方からアメリカが学ぶものという読者への明確な意見の主張である。もっとも、この二つのテーマの見事
な結合こそが退屈になりがちな民族誌の価値を高めたと言えるかもしれない。人類学者
ミードは、後にアメリカの学界で大きな影響力をもつようになるが、この
影響力の理由は、人類学がいかに人々の意識を高め社会の改良に役立ちうるかを熱心に説き、その効用(utility)を信じたことにある。
『サモアの思春期』出版の以前から、マーガレット・ミードの先生であったフランツ・ボアズは、先に述べたように、当時勢力を増しつつある人種主義と戦っていた。そして、ボアズは
教え子に対して生活様式の違いが、研究対象となる人々の精神生活をどのように決定するのかについて、事細かく指導していた。ミードはボアズの教えを忠実に
守った。彼女はサモアの調査から帰り、この重要な処女作を世に問うた後も、オセアニア地域でいくつものフィールドワークを重ね、さまざまな地域の文化とい
うものが幼児期の性格や社会の性役割についての気質をどのように形成してゆくかについて、つぎつぎと実証的データを発表していった。また、第二次大戦中に
は戦時情報局(United States Office of War Information)の活動に深く関与しドイツの国民性についての研究、戦後冷戦期にはソビエトの国民性などの研究をおこなっている。やがて彼女は人類学、心理
学、精神医学、その他の人文社会科学などを糾合した行動科学領域の総合研究会議の指導的メンバーの一員となり、第二次大戦後の二〇数年間のアメリカの人文
社会科学の社会的貢献に関するスポークスパーソンとして大いに活躍した。ミードが26歳の時に出版した処女作『サモアの思春期』は、彼女が生涯を通して止
まなかった、人類学がアメリカ社会の改良のために役立つものであるという主張の出発点であり源泉なのである。
本書を読めばわかるように、彼女は決して、サモアの少女たちは性的に縛られていないので、アメリカの青少年少女がもつような葛藤がない、だから、青少年
の性的な縛りを解放すべきであるという短絡的な主張をしているのではない。サモアの少女たちとサモアの社会の関係のように、青少年の心理的葛藤や非行は、
少年少女たちを束縛する社会と関係しているから、これらの反省に基づき社会への介入と助言が必要であると主張する。ここでのサモアの少女たちの性的な奔放
は、アメリカの社会の青少年の好ましくないあり方(=非行や葛藤)と、直接結びつけられることなく、青少年と社会を結びつける別の関数として理解すべきな
のである。そこには本書の六年後に公刊されるルース・ベネディクトの著作『文化の型』(1934)で主張される、一つの文化の独自性は、それぞれの文化要素の組合
せと選択から構成されるものであり、ある固有の文化もまた文化要素の選択において無数の可能性をもつことができるという発想が共通してみられると言っても
過言ではない。
しかしながら、ミードの主張とは裏腹に、当時の、そして今日でもアメリカの普通の読者は『サモアの思春期』の中に、南太平洋の少女たちの性的放逸(フ リーセックス)のイメージを抱いているであろうことは疑いえない。この本の初版のカバーには太陽と椰子の樹を背景に若いサモアの女性が半裸で胸をはだけ て、男性と共に駆けているイラストが描かれている。マルケサス諸島など南太平洋のいくつかの限られていた箇所でしか報告されていなかった性的に放逸な社会 というイメージを、読者たちは南太平洋全体に拡張して投影した。南洋の島々総じて熱帯の未開社会における少女たちが、性的に魅力あるものだというステレオ タイプは、西洋近代において男性たちが当初から抱いていたものである。今日ではしばしばこのステレオタイプは西洋の男性優位思想が植民地主義によって強化 されたものであると指摘されることがある。16世紀のスペインの征服者エルナン・コルテス(Hernán Cortés de Monroy y Pizarro Altamirano, 1485-1547)のユカタン社会出身の先住民妻マリンチェ、一七世紀のヴァージニ ア先住民の娘ポカホンタス(Pocahontas, c1595-1617)、一九世紀末のゴーギャンのタヒチ女性のみならず、日本やアメリカの映画などのメディアにもくりかえし、この種の幻想が再生産さ れてきた。サモアの少女たちも、はたしてミードが描写したように性的に奔放なのだろうか。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か
我々はどこへ行くのか』D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?,
1897-1897, by Eugène Henri Paul Gauguin
この報告が事実でないのなら、ミードが主張するサモアの人たちから反省的に学んできた議論自体が無効になる。もし、サモアの少女たちの実態が報告通りの
ものでなく、かつミードの議論の信用が失われないものであったのなら、わざわざ異なる文化の社会に苦労をして出かける必要はなり、サモアの事例はたんなる
議論を補強する飾りにすぎなくなくなる、という疑問が生じる。飾りという言葉が挑発的すぎるのなら、たんなる我々の反省を促してくれる参考意見や媒介物に
すぎない。この問題に取り組まざるをえない理由は、文化人類学者はなぜわざわざ苦労して異文化の他者との出会いを求めてフィールドワークをするのか、そし
てその活動からどのようにして文化の「真実」を引き出さなければならないかという、ある種の人類学者の「使命」に関わるからである。
クレジット:池田光穂「人類学の「効用」」(『サモアの思春期』とその作者マーガレット・ミード) より
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