学際研究を継続させる要因とは何か
How to continue your useful interdisciplinaries approaches
中世の教養主義の原型である自由七科か ら、近代社会における専門家としての個別の自然科学者の登場、さらには社会科学における価値中立と いう学問的態度の提唱と受容、さまざまな社会科学の領域における数量化革命、そして後期近代社会における学際的研究の開花と、その後の学問領域の再分割化 の過程が生じた背景には、それらの知的営為に課せられた社会的要請があったことが明かである。もちろんどのような社会的文化的活動にもインヴォルーション (内的旋回;Agricultural Involution)とも呼べる、その活動が対象にもたらす意味を再生産させ、その活動自体が複雑化し洗練化してゆく効果も持ちうることがある。
「西洋中世の大学制度におけるリベラルアーツ
(artes liberales)は、Martianus Minneus Felix
Capella(5世紀頃)に自由七科に由来する。リベラルアーツの語源とは、人間を自由にする技芸という意味で、文法・修辞・論理の3つの学
(three arts, trivium)と、算術・幾何・天文・音楽の4つの科(four subjects,
quadrivium)からなる。当初は人間を陶冶するための7つの学芸の領域とされていたが、後に神学・法律・医学を学ぶ専門教育(=学部)が確立した
時に、それらを学ぶ前に履 修すべきものとして、教養というものが再定義されたことに由来する。(→「リベラル アーツ」ウィキ日語)」
私が専門的に関わる文化人類学に関連する研究領域において、学際研究の重要性が説かれるようになったのは、すくなくとも第二次大戦後の2 つの重要な出来事においてであったと思われる。それらは双方とも、学際研究の中心的拠点となったアメリカ合州国でおこった。すなわち(i)行動科学研究、と(ii)地域研究である。
行動科学研究は、戦前にはフォード財団 を中心に構想されていたが、実質的にその基礎を作ったのは、後に述べる地域研究と深く関連する人類 学・心理学・社会学を中心とした研究者であった。彼らは第二次大戦中は社会科学者の戦争協力と深く関わっていた。すなわち、地域社会における人々の固有の 行動や、現地社会におけるその意味理解が、戦争当事国ならびに戦闘地域において重要であることをさまざまな形で力説した。我々の分野におけるこの端的な成 果は、文化の型(pattern of culture)という理論研究の成果を、戦時情報局が便宜を図って入手した豊富な資料――敵国国民である日本人収容所におけるインタービューを含む―― にもとづいて分析したルース・ベネディクト『菊と刀』の中にもっとも典型的に現れる。
戦後にマーガレット・ミードやグレゴ リー・ベイトソンら が参加した同様の研究では、単に現地あるいは敵国の文化に関する情報だけではな く、人々の行動やその意味理解、その伝統的あるいは歴史的展開、育児や発達における文化の影響、比較精神分析、異常行動や紛争パターンなどについて、多角 的に調査し、さまざまな方法論が動員されることが期待された。行動科学という名称は1950年代の心理学研究におけるシカゴ学派がその研究内容を最も有名 にしたが、行動科学という学問領域の広域性と、密度の濃い学際研究の必要性とその成果に対する期待は1946年のハーバード大学社会関係学部の設立、 1952年フォード財団によって設立された高等行動科学研究院(Center for Advanced Study in Behavioral Sciences)などの存在でも明らかである。これらの研究機関は、戦後アメリカの社会科学研究の発展の原動力となったことは言うまでもない(池田 online)。
さて行動科学研究と関連しつつ独自の発 展をとげたのが地域研究あるいは地域文化研究(cultural area studies)である。本来、地域文化の研究は地理学が先鞭をつけていたが、その議論は気候決定論――人間の思考はその土地の気候=風土(英語では共に climate)が決定する――に代表される環境決定論の一種であった。しかしながら文化人類学者アルフレッド・クローバーが戦前にすでに先鞭をつけてい たが、生態学的条件や社会構造あるいは文化伝播、さらには当該の文化における伝統技術の変化など、環境決定論をよりさらに洗練された文化地域的概念がエルマン・サービスやジュリアン・スチュワード(Julian Haynes Steward, 1902-1972) などによって戦後に提唱された。この学派は、文化的広がりには環境決定論だけでは説明できない多様性があると主 張し、多角的な方法論による地域社会の情報収集と分析、すなわち地域文化研究の重要性を指摘した。彼らはその多様性を生みだす背景にはきちんとした説明可 能な理論があると考え、その根拠を生物進化論の基礎に立った文化の進化というモデルに求めた。それゆえ彼らは新進化主義者と呼ばれることがある。
Unidentified Native Man (Carrier Indian) (possibly Steward's informant, Chief Louis Billy Prince) and Julian Steward (1902–1972) , Outside Wood Building, 1940
こ れらの延長上にクローバー流の文化主 義的な伝統として統合させるために、学際的方法論が求められることを強力に主張したのがジュリア ン・スチュワード(1950)である。文化人類学者であった彼の『地域研究』(Area Research)という著作の中には、まさに環境決定論では解明できない地域に関する情報が、フィールドワークを 通して多角的かつ濃密に収集され、学際 的に分析されることが期待されている——大変、興味ふかいことにスチュアードには文化人類学がフィールドワークの帰結としての「民族誌」の制作ということにはそれほど大きな関心をもっていないことだ。
このような研究領域がアメリカにおいて重要視されたのは、単にこれらの研究者の主張の正当性だけでなく、戦後の冷戦 構造の中での地政学的な理解が、「文明」に代表されるような大きな地域的広がりと非政治的なものとしてではなく、メディアや運輸手段の発達による民族移動 やそれに関連する政治的イデオロギーの動向、さらには現地社会の民族間関係など、生きた「現地の文化」の動態として把握される必要が生じたことと関連して いる。このような地域研究の発展は、先に述べた行動科学の発達と相互に関連し、アメリカの文化人類学が戦後の国民科学(national science)を担う一翼として隆盛したことと無縁ではない。
以 上のような学際研究の発展に関する事 例のひとコマから我々が学ぶべきことは何であろうか。それは(前節で紹介した不知火海総合学術調査 団とは異なり)先行する学問的知識の国家総動員態勢の見本ともいえるべきものである。そこには学際研究が要請される背景には、その社会(アメリカ合州国) にとっての有用性が主張されている
そ れゆえに、学際研究が求められる背景
には、その研究を推進させるための強い実利的要請――かりにそれが先のような水俣学術調査のような
オカルト技術的な要請であっても――があると考えるべきなのである。そのような枠組みで本研究を眺めてみると、どのようなことが言えるであろうか。それ
は、現
今の保健医療協力における「持続可能性」を考えることは極めて重要な課題であると、研究申請者(つまり本研究の代表者ならびに共同研究者)も研究費を授与
した組織(国立国際医療センター)も認識していていること。さらにより一般的に、地球環境危機に関するグローバルな問題に端を発する生態学的な意味の「持
続可能性」の概念は極めて重要であると認識されていること。また現代社会における持続可能性の概念は、その生態学的な重要性のみならず、人間社会の健全さ
の持続性を可能にするものであると理解されていること、などが指摘できる。それにも関わらず他方で、保健医療協力における「持続可能性」の定義に関する合
意が十分に形成されなかったし、また混乱が続いていることも事実である(池田 2005)。
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